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2007年9月30日 (日)

太平記 巻25 藤井寺合戦の事(稿)

藤井寺の中世を復原するために、太平記にみられる戦いの記事に注目してみた
楠正行は石川沿いを拠点として挑発的な戦法で難波の京方の拠点に攻撃を加えていた
これに対して京は3000騎を河内へ派遣する
その地が藤井寺であった
京の軍は気を緩め、その地で休息をとったが、そこに正行の攻撃がはじまる
藤井寺とは、3000騎の軍を休ませることのできる場所だったということになる

 楠正行は、父の正成が先年に湊川へ行ったとき、「今度の合戦に私は必ず討ち死にするだろう。おまえは河内へ帰って、天皇をおまもりしなさい」と言った言いつけを忘れず、この10余年の間、討ち死にした部下の子孫をまもり、父の敵をうち、天皇の憤りをおさめようと、常に心がけていた。
 年を経て、楠正行は25歳。今年は正成の13年の遠忌にあたるので、供養をして、今は命を惜しむとも思わないので、その数500騎を率いて、時々住吉や天王寺へ打ちでて、中島の在家を焼き、京方が攻めてくるのを待っていた。
 京の将軍はこれを聞いて、「楠の勢力はさほどでもない。しかしこれによって辺境が攻められ、洛中が驚き騒ぐことは、天下の嘲弄で武将の恥辱なり。急ぎ攻めに行って退治せよ」と
 そこで、細川顕氏を大将にして、宇都宮入道、佐々木六角、長左衛門、松田次郎左衛門、赤松範資と弟の範貞、村田、奈良崎、坂西、坂東、菅家一族など3000騎が河内へ派遣された。
 その軍勢は8月18日の午の刻に藤井寺に着く。この陣より楠の館へは7里隔てた距離にあるので、明日か明後日には攻め寄せようと、京の軍勢は油断して、あるものは武具を解いて休息し、あるものは鞍をおろして休んでいた。
 そんな時、誉田八幡宮の後の山陰に、菊水の旗が一竿見え、鎧武者700騎が静かに馬を歩ませて打ち寄せてきた。
 京方は「敵が攻めてきた、馬に鞍を付け武具を着け」とひしめき色めくところへ、楠正行が正面に進み駆け込む。
 京方の大将の細川陸奥守はまだ、鎧を肩にかけるところで、上帯も締めず、太刀を帯びるべきものもなし。そこで村田一族の6騎が小具足だけで、打ち乗ってきて、群がり声をあげる敵の中にかけ入って、火をまいて戦う。しかしこれに続く武者がいないので、大勢の中に取り囲まれ、村田一族の6騎は一所にて討ち取られる。
 その間に大将も鎧をかため、馬に乗って、従う100余騎と一緒に戦いはじめる。
敵は小数で見方は多数なり。突進して戦わずとも、退く兵さえいなければ、この軍にも京方は負けることはないのだが、四国や中国から来た葉武者を前において戦う一方で、後には捨て鞭を打って引く間、無力な大将も勇敢な武将も同様に落ちていくことになる。
 楠正行の軍勢は、勝ちの勢いに乗って追いかける間、大将は天王寺から渡辺のあたりで危うくみえるところを、六角判官舎弟の六郎左衛門がこれを守って打たれる。
また、赤松範資、筑前の300騎も討ち死にを覚悟でとってかえし、7度や8度はとどまって戦ったが、奈良崎主従も3騎討たれ、粟生田小太郎も馬を射られて討たれる。
これらに支えられることで、敵も追うことができず、大将も兵士も危ういところを京へ帰って行った。

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