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2007年9月

2007年9月30日 (日)

太平記 巻25 藤井寺合戦の事(稿)

藤井寺の中世を復原するために、太平記にみられる戦いの記事に注目してみた
楠正行は石川沿いを拠点として挑発的な戦法で難波の京方の拠点に攻撃を加えていた
これに対して京は3000騎を河内へ派遣する
その地が藤井寺であった
京の軍は気を緩め、その地で休息をとったが、そこに正行の攻撃がはじまる
藤井寺とは、3000騎の軍を休ませることのできる場所だったということになる

 楠正行は、父の正成が先年に湊川へ行ったとき、「今度の合戦に私は必ず討ち死にするだろう。おまえは河内へ帰って、天皇をおまもりしなさい」と言った言いつけを忘れず、この10余年の間、討ち死にした部下の子孫をまもり、父の敵をうち、天皇の憤りをおさめようと、常に心がけていた。
 年を経て、楠正行は25歳。今年は正成の13年の遠忌にあたるので、供養をして、今は命を惜しむとも思わないので、その数500騎を率いて、時々住吉や天王寺へ打ちでて、中島の在家を焼き、京方が攻めてくるのを待っていた。
 京の将軍はこれを聞いて、「楠の勢力はさほどでもない。しかしこれによって辺境が攻められ、洛中が驚き騒ぐことは、天下の嘲弄で武将の恥辱なり。急ぎ攻めに行って退治せよ」と
 そこで、細川顕氏を大将にして、宇都宮入道、佐々木六角、長左衛門、松田次郎左衛門、赤松範資と弟の範貞、村田、奈良崎、坂西、坂東、菅家一族など3000騎が河内へ派遣された。
 その軍勢は8月18日の午の刻に藤井寺に着く。この陣より楠の館へは7里隔てた距離にあるので、明日か明後日には攻め寄せようと、京の軍勢は油断して、あるものは武具を解いて休息し、あるものは鞍をおろして休んでいた。
 そんな時、誉田八幡宮の後の山陰に、菊水の旗が一竿見え、鎧武者700騎が静かに馬を歩ませて打ち寄せてきた。
 京方は「敵が攻めてきた、馬に鞍を付け武具を着け」とひしめき色めくところへ、楠正行が正面に進み駆け込む。
 京方の大将の細川陸奥守はまだ、鎧を肩にかけるところで、上帯も締めず、太刀を帯びるべきものもなし。そこで村田一族の6騎が小具足だけで、打ち乗ってきて、群がり声をあげる敵の中にかけ入って、火をまいて戦う。しかしこれに続く武者がいないので、大勢の中に取り囲まれ、村田一族の6騎は一所にて討ち取られる。
 その間に大将も鎧をかため、馬に乗って、従う100余騎と一緒に戦いはじめる。
敵は小数で見方は多数なり。突進して戦わずとも、退く兵さえいなければ、この軍にも京方は負けることはないのだが、四国や中国から来た葉武者を前において戦う一方で、後には捨て鞭を打って引く間、無力な大将も勇敢な武将も同様に落ちていくことになる。
 楠正行の軍勢は、勝ちの勢いに乗って追いかける間、大将は天王寺から渡辺のあたりで危うくみえるところを、六角判官舎弟の六郎左衛門がこれを守って打たれる。
また、赤松範資、筑前の300騎も討ち死にを覚悟でとってかえし、7度や8度はとどまって戦ったが、奈良崎主従も3騎討たれ、粟生田小太郎も馬を射られて討たれる。
これらに支えられることで、敵も追うことができず、大将も兵士も危ういところを京へ帰って行った。

2007年9月29日 (土)

もう一度室町殿の変遷を確認する

室町殿の範囲の変遷と存続期間について(現在の通り名)

★[第1期](1378~1431)上立売・室町・烏丸・今出川?(東西1町、南北2.5町?)

 築造したのは3代義満で、4代義持は御所を三条坊門とする
 ただし、5代義量(よしかず)の期間にも存在していたことが記録にある
 実質的な御所機能は義満の時代の1378~1397の約20年間

★[第2期](1431~1441)上立売・室町・烏丸・今出川?(東西1町、南北2.5町?→東西1町、南北2町以下?)

 6代義教が全面再築。出来た当初の範囲は第1期室町殿と同じと思われる
 ただし、1441年に義教が死ぬと、今出川に面する部分に義教夫人の寺が築かれ、南の範囲が狭くなった可能性がある。
 実質的な御所機能は10年間

★[第3期](1456~1476)上立売・室町・烏丸・今出川の一筋北の通り?(東西1町、南北2町以下?)

 8代義政が北小路新第(室町殿)に移る。
 実質的な御所機能は20年間

★[第4期](1479~1482)上立売・室町・烏丸・今出川の一筋北の通り?(東西1町、南北1.5町)→上立売・室町・烏丸・五辻(東西1町、南北1町)

 9代義尚の時期。室町花御所御作事。範囲は東西行40丈、南北行60丈の御地。
 しかし南方に数多くの町屋があったため南北40丈に築地を縮小。
 しかし1480年に焼け、1481年に四方築地再築するが完成しないままにとりやめ。
 実質的な御所機能は0年

★[第5期](1542~1548)上立売・室町・烏丸・五辻(東西1町、南北1町)

 12代義晴が北小路室町の旧地に再建(今出川御所)。13代義輝も利用。
 範囲は第4期と同様か。
 実質的な御所機能は数年

2007年9月28日 (金)

再び室町殿の実態を考えてみる

室町殿遺跡を検討するためには、室町殿が実態としてどのくらい使われており、その結果どの程度の遺構が残されているかを事前に調べておく必要があります。更新された「資料編・室町殿」をみながら、あらためて整理してみましょう。

まず3代将軍義満の室町殿ですが、1378年から1397年の北山殿移徙までの約20年間が最盛期で、壮麗な殿舎が建ち並び、「かも河をせき入れ」た水面1町の大池には滝もつくられます。
しかし4代将軍義持は三条坊門に御所を築いたため、室町殿はあまり使われていなかったようです。
6代将軍義教は1431年に室町殿を再築し、約10年間にわたって義満時代に負けない邸宅を築きます。後花園帝の行幸もあり、上御所の池には舟も浮かべられていたようです。その後室町殿の敷地は南北が1.5町に縮小し、建物も一時的にほかへ移されたりしますが、8代将軍義政は1459年に室町殿の立柱上棟をおこない、1464年には後花園院の行幸を得、およそ15年間におよび池と建物に土木の工を尽くした邸宅を甦らせます。
したがってこれらの時期(14世紀後葉・15世紀第2四半期・15世紀第3四半期)の室町殿は確実に機能していたことになります。

しかしながらこれ以降の室町殿については詳しいことがわからなくなります。
森田恭二さんの「花の御所とその周辺の変遷」『日本歴史の構造と展開』に学びながら、この後の時代の室町殿をみていきましょう。

文明8年(1476)11月13日、室町殿の西、半町ほどの土倉・酒屋が放火され、室町殿の北西部から周辺一帯が被災し、義政は小川御所へ移ります。
1479年には室町殿復興がはじまりますが、すでに敷地の周縁部には町屋が建ち並び、応仁の乱中に陣屋が建っていた裏築地の町屋は撤去したものの、南の町屋は撤去できず、南の敷地を放棄する形で、築地は東西・南北40丈の範囲に縮小されます。
なお義政はその間も小川御所にいたようで1480年の年賀をそこで受けています。
ところが、再建まもないその年の4月、室町殿は再び火事にあって消失。
1481年に再度の再建計画がたてられますが、義政は東山殿の造成をすすめ、義尚も小川御所を継いでそこを本拠とします。その結果室町殿があった場所は、1485年には「花御所跡」と呼ばれるようになり、庭石や大松が運び出されるなどの荒廃がすすみ、1496年にはその東北の一部が土倉(金融業者)に売られるまでになったようです。
したがって文明8年の大火以降、室町殿は実態としては機能しておらず、まわりの通り沿いに町屋が建ち始める一方で、その中心部では、遺構はともかくそこにあった品々はほとんどが持ち去られ、堰がはずされて水の涸れた大池の跡と無人の建物が散在する姿がみられたのでしょうか。
町田家本洛中洛外図では室町上立売の南東に町屋が描かれていますが、それはこういった室町殿の変遷の結果を示している可能性があります。

そして天文11年(1542)閏3月、66年ぶりに北小路室町の旧地に室町殿が再建されます。しかしこの室町殿も実態としては数年間使われただけだった可能性があります。
それを物語るように、1547年にはその敷地が売買の対象となっており、1549年には上京町組が成立しています(木下政雄「京都における町組の地域発展」)。そのため森田さんは、この室町殿がかつての花御所旧地の全域を使って築かれたとは考えにくいと言っています。

そうすると、室町殿が実質的に機能していた時期は義満・義教・義政の時代だけで、その時期には大規模な建築・造成がおこなわれたもの、それ以降はほとんど手が入れられることなく、そのため再建された義晴の室町殿も、おそらく町屋によって南方が縮小された敷地利用の基本は、義政期の室町殿に沿ったものだった可能性が考えられます。

2007年9月27日 (木)

再び室町殿の変遷

 室町殿の建物群は、義満以降何度か大きくその姿を変えています。そしてどうやらその敷地についても、同様なことが言えるようです。川上貢さんの大著「日本中世住宅の研究」からその様子をたどってみたいと思います。

☆史料1
・永和4年(1378)義満、菊邸跡に移る(下御所・南御所)。
・康暦元年(1379)義満、北の元院御所跡地の花邸に移る(上御所・北御所)
 言うまでもなく最初の室町殿です。邸宅の敷地はその前身邸にしたがい、南北に分かれ?、それらをあわせた範囲は、北小路(今出川)以北、柳原(上立売?)以南、今出川(烏丸)以西、室町以東であったとされています。なお、いわゆる「花御所」が義満以前からあった北御所の呼び名であったこともこれらの史料から知ることができます。

☆史料2
・永享3年(1431)義教、室町北第(上御所・北小路室町殿)の造営始め。室町北小路新第に移る。
・永享6年(1434)義教、上御所の池に舟を浮かべる。
 このとき(永享4年)の上御所の大饗指図を長禄2年(1458)に写したものが国会図書館にありますが、描かれているのは敷地の西半分のみ。ただし室町通に2つの門があって、その東に寝殿造りの殿舎が並ぶ様子は、洛中洛外図の描写を彷彿させるもの。なお、記録による敷地の表記は「北小路北、室町東」。

☆史料3
・嘉吉元年(1441)義教が亡くなったことにより、室町殿は子の義勝にひきつがれ、また北小路(今出川)以北、今出川(烏丸)以西には、義教夫人の寺(のちの勝智院)が造営される。
この史料によれば、室町殿の南側に寺がつくられた結果、室町殿の南辺は北小路に面していなかったことになります。

☆史料4
・嘉吉3年(1443)義勝の死により、義勝の弟の義政が室町殿を相続。しかし義政は、室町殿の施設を上御所(烏丸殿)へ移す。
・長禄2年(1458)義政、室町新第にうつる。
 義政は一時烏丸殿を本拠としますが、再び室町殿に戻ります。さきの永享の大饗指図の写されているのがこの年で、義政の室町新第はこれを意識したのでしょうか。なおこの時の範囲の記事はありませんが、次に造営される室町殿が南北60丈を敷地としているので、この時の室町殿も、南辺は北小路(今出川)を北に上がった場所にあった可能性があります。

☆史料5
・文明11年(1479)義尚(義政)、室町殿(花御所)造営開始。東西40丈、南北60丈。築地は南北40丈。南20丈には小屋。
・文明13年(1481)義尚(義政)、花御所御作事始め。四方築地。
 この史料によれば、文明8年の火災により焼失した後、再建された室町殿の築地の範囲は方1町規模だったことになりそうです。さらに、その南の20丈は築地のない室町殿の敷地だったとも読むことができるのでしょうか。

☆史料6
・天文11年(1542)義晴、北小路室町の旧地に室町殿を再建。
 この史料でてがかりになる室町殿の範囲は、「北小路室町」と「旧地」の表現です。
 ところがこれまでみてきたように、この「旧地」が問題で、それが義満~義教の将軍邸であるすれば、敷地の範囲は南北2町?に、一方それが1441年以後の義政(義尚)の将軍邸であるとすれば、1町四方の築地?とその南半町の敷地範囲と考えられることになるのですが、このときの室町殿はそのどちらになるのでしょうか。
 ところでこの時の室町殿は、上杉家本洛中洛外図との関係が指摘される室町殿になるはずですが、洛中洛外図の記述によれば、北が上立売、西が室町、東が烏丸となり、南は今出川に該当する通りが館を囲みます。
 ただし注目されるのは、その築地の南辺が2重になっており、そこに空閑地が描かれていることです。これがもし義教の妻が造営した寺の故地を示すのであれば、この室町殿は義政(義尚)の室町殿の敷地を最大に利用したものだったと言えるのかもしれません。

2007年9月26日 (水)

河内源氏三代の墓

10月14日に藤井寺で話しをすることになっている
テーマは中世河内の風景である
1985年から1999年までおもに河内で発掘調査をおこなっていた
直接藤井寺市内で掘ることは無かったが、通勤途中や関連資料の調査で何度も見ていたところである
古代の土器の基準資料であるはさみ山遺跡があり
なにより巨大古墳で有名な古市古墳群がある

一方、中世の藤井寺についての資料も豊富で
灌漑水路による耕地開発と村落遺跡や領主居館など
豊かな歴史を語ってくれる場所である
けれども藤井寺という場所にこだわってみると
そういった河内全体でもみられる中世の農村の風景以外に
もっと歴史の表舞台で活躍するような人物とエピソードとの関わりにも注目していいと思う

やはり河内の中世を代表する人物と言えば楠木正成だろうが
太平記に登場する藤井寺の戦いのように
南北朝期から室町期にかけて
この地域は激しい戦闘の場ともなった
ただしこの時期の激しい戦闘の場というと
先日、藤木先生も言っていたが
応仁の乱の激戦地が新町キャンパスから西陣の間の
歩いても15分ほどの範囲だったように
後の時代の戦闘のような焦土と化すようなものではなかったと思われる
言い換えれば、大軍がひろい平野で対峙するような種類の戦いではなく
むしろ市街戦のようなものだったと
そうすると、この場所がそういった町場の中で陣地の争奪戦をするようなところだったということは
この場所はあたかも応仁の乱の時期の上京のような家並みがひろがっていたのでは
ということになる

であるならば、この場所にそういった都市的な風景が成立した背景は何なのか
ということが当然の疑問として沸いてくる
中世の藤井寺とはどういった場所だったのだろうか
そんな関心から
藤井寺市の教育委員会で山田さんと久しぶりにお会いして
昼過ぎまで岡ミサンザイ古墳が中世の城だったとか南河内の中世遺跡についていろいろな話をして
さてと
小山善光寺から津堂城山古墳へまわり
岡村荘を経ながら、おお確かにここは岡だと実感しながら
商店街のアーケードを抜けて西国三十三所観音霊場のひとつである葛井寺へもどり
辛国神社の近さに驚き
道明寺で十三重塔を見て
喜志からバスで石川を渡り・・・・・・

この数年、鎌倉と鎌倉時代にこだわって
けっこう勉強してきたつもりだったが
こんな近いところにその源流があったのに今まで見ていなかったとは
勉強とはいつまでたっても終わらないものだと
近飛鳥特有の、あの不思議な地形を感じながら
(石川を渡るとなにか違った空間に入った気がする)
通法寺跡と河内源氏三代の墓を見て
(こんな近いところに、石井進の平国香に対応する武士団の館があったなんて。うかつもはなはだしい)
再び古市へもどって西琳寺の大きな五輪塔を見て
誉田八幡からその先の大きな森を見て

藤井寺から南河内にかけての一帯はとても不思議なところで
鎌倉時代の源流をつくった人物と、鎌倉時代の幕を閉じた人物の両方を生み出している
そして鎌倉時代のもうひとつの立役者だった叡尊も関わっている
とても強い鎌倉の匂いを感じるところだと思う
さらに善光寺まである

楠木正成を生み出したキーワードは百済・河内源氏・叡尊・道明寺そして葛井寺になると思う
14日は、そんな話をしたいと考えている

欲を言えば、羽曳野の伊賀南遺跡までまわりたかったが

2007年9月25日 (火)

資料編・足利将軍邸

 2002年7月頃につくっていた室町殿関係の記録について、もう一度整理をしようと思っています。
一部自然災害などの記録も入れています。
引用は『京都の歴史』・『史料 京都の歴史』・森田恭二さんの「花の御所とその周辺の変遷」『日本歴史の構造と展開』1983 山川出版・田坂泰之さんの「室町期京都の都市空間と幕府」『日本史研究』436、そして川上貢さんの『日本中世住宅の研究』などです。
丸数字 は足利将軍の代数です。
(年は将軍だった年です。
以下は前回のバージョンを元にしたその途中経過です。
室町殿は、火事や建て替えなどにより、おお むね6期に分けられそうです。
今後も修正や追加をすすめていきます。

 弘安6年(1283):大雨により今出川洪水。海のごとし。
 ①足利尊氏[1305~1358](1338~1358)
 ②足利義詮(よしあきら)[1330~1367](1358~1367)尊氏の三男
 ③足利義満[1358~1408](1368~1394)義詮の子

★[前室町殿 西園寺時代]
・貞治7年(1368)崇光院(1334~98)、義詮より寄進された院御所に移る(ここを「花御所」と号す)。
・永和3年(1377)2月:崇光院仙洞御所、焼失。同時に隣接する菊亭(今出川公直邸)と柳原日野大納言宿所(日野忠光邸)、藤中納言宅(日野資康邸)も焼失。
 「後愚昧記」の永和3年(1377)2月18日条によれば、ここはもとは室町季顕の宅地であったが、将軍義詮がこれを得、義詮の死後(1367)、崇光院仙洞御所に寄進されたところという。位置は五辻・今出川・烏丸・室町。北に柳原忠光邸(現在の会館地点?)。

★[第1期室町殿](1378~1431)
・永和4年(1378)3月10日:義満、院の御所跡と菊亭跡の両地に北小路亭を造営して移る。「元院御所、去年炎上の後、御造作なきによりて、大樹もうしうけ、これを造営す。日ならずして功を終え、前右大将(今出川)公直菊亭跡、同じこれを混領す」(後愚昧記)。義満、菊邸跡に移る(下御所・南御所)。
・康暦元年(1379)義満、北の元院御所跡地の花邸に移る(上御所・北御所)
・康暦2年(1380)6月:ほぼ完成
・永徳元年(1381)3月11日:後円融が行幸。活水池にたたえ、花山庭をめぐり、水面は1町、海山のごとし。透渡殿・回廊・釣殿・寝殿、四足門・楽屋・番所・台盤所・常御所・夜御殿・鴨川の水を入れ、滝をつくる。正面は室町。五辻で分かれる。上御所と下御所。(「永徳行幸記」中門、寝殿、東の廊、常の御所、対屋、透渡殿、釣殿など、寝殿は「三葉四ばのむねどもあたらしくつくられ」、大池は「かも河をせき入れられたれば、たきの岩ねよりも、透渡る殿のしたよりもおちあふ水音」云々と言う。)
・永徳2年(1382):相国寺立柱
・至徳元年(1385):相国寺仏殿完成
・明徳3年(1392):相国寺完成

 ④足利義持[1386~1428](1394~1423):(三条坊門邸御所時代)
・義満の子
・応永4年(1397):義満が室町殿から北山殿へ移徒。義持が三条坊門邸に移った後もしばらくは義満が室町殿にいた。
・応永13年(1406):幕府、山城に銭を課して室町第の修理費にあてる。

 ⑤足利義量(よしかず)[1407~1425](1423~1425)
・義持の子。実質的な幕政は義持が担当。
・応永32年(1425):今出川以東、富小路以北、万里小路以西、一条以北焼亡。公武の人々室町殿に参籠の折り、大勢馳せ参じ打ち消し。
・正長元年(1428):義教、室町殿で音阿弥が演能。

 ⑥足利義教[1394~1441](1429~1441)
・義満の子。兄の義持の死後還俗。嘉吉の乱で赤松満祐に殺される。
・永享元年(1429):室町御所で猿楽。室町第会所上棟。義教移る。
・永享2年(1430):室町殿で松拍子。義教、新造会所披露の茶会。

★[第2期室町殿](1431~1441)
・永享3年(1431)10月:「全面撤去して再築」。幕府室町北第の造営始め。 義教、室町北小路新第に移る。下御所と上御所。寝殿以下11棟。門6、西に四足門と唐門。東に上土門と小門、北に小門2。上御所は寝殿・常御所・小御所・台屋3・御厨司所・御雑掌所・諸大名出仕在所・会所・観音堂数10棟。上御所の設計図によれば、寝殿と御会所、常御所の間に(東方に)池がある。京都飢饉。伏見・醍醐水没。
 (参考)室町・今出川・烏丸・上立売?(中昔京師地図)。
・永享4年(1432):室町第の造作事始め。義教、室町第奥会所に移る。室町第で女猿楽をみる。
・永享5年(1433):上柳原焼亡。室町殿に御会所泉殿が新造される。庭園を築く。
・永享6年(1434):上御所の池に舟を浮かべる。小池もある。
・永享9年(1437):洛中町方の女等、松拍子して室町第に至る。後花園帝行幸。番屋・四足門・中門・諸司御所・寝殿・台盤所・屏中門・北対屋・御船宿・ 御会所・泉殿・新会所。寝殿の棟には瓦。
・嘉吉元年(1441):義教が亡くなったことにより、室町殿は子の義勝にひきつがれ、また北小路(今出川)以北、今出川(烏丸)以西には、義教夫人の寺 (のちの勝智院)が造営される。
・嘉吉元年(1441):「荒廃したので云々」

 ⑦足利義勝[1434~1443](1441~1443)
・義教の長男。父の急死で家督を継いだため、おそらく室町殿を拠点としただろう。

 ⑧足利義政[1436~1490](1443に家督を継ぎ1449~1473)
・義教の子。義勝の弟。・

★[第3期室町殿](1456~1476)
・康正2年(1456):洛中洛外に北小路新第造営棟別銭を課す。義政、北小路新第に移る。
・長禄2年(1459):義政、室町第に花亭を造り、立柱上棟をおこなう。義政、室町新第に移る。
・長禄3年(1460):烏丸御所を室町殿へ移す。
・寛正元年(1460):幕府会所落成。京都地震。幕府泉殿厩立柱上棟。
・寛正2年(1461):天下飢饉。京中の死者8万2千人。
・寛正4年(1463)12月:室町殿の新造泉殿完成。
 曰く「廊下と庇が重なり合って、多くの殿舎が立ち並ぶ。その中に入れば、迷楼の九曲に遊ぶごとし。土木の工が尽くされている。天子・上皇某殿にあり。-略-南面より山水をみると、青松の土手に花亭をおかれ、画舫が白沙の洲に繋がれ、珍しい花や石がおかれ、さまざまな鳥が飛ぶ。また、東南には兵高さ十余丈の兵櫓が建つ」(碧山日録)
・寛正5年(1464):室町第西院落成。後花園院室町殿行幸。
・応仁2年(1468):京都両陣合戦止む。今出川殿(足利義視)上洛以後此のごとし。室町殿御内損大略御大事出来すべき歟。今出川殿ご出家の事、細川殿より申し勧。
・文明2年(1470):相国寺七重塔焼失
・文明5年(1473):日野富子・足利義尚が新造御所に入る。新造御所御門立柱上棟。(室町殿?)
・文明8年(1476)11月13日:室町殿焼失(室町殿の西、半町ほどの土倉・酒屋放火。室町殿に至る。西面の四足門より、御殿以下すべて焼失。)皇居は室町殿の北方に移される。室町殿周辺には土倉・酒屋が多かった。焼けたのは室町殿の西北部と思われ、そこに建物がまとまっていたことになる。

 ⑨足利義尚(よしひさ)[1465-1489](1473~1487)(小川御所時代)
・義政の子。叔父が義視。
・文明9年(1477)2月21日:小川御所(後の宝鏡院)に常御殿が上棟される。4月5日:義政徒御す。その後日野冨子の御座所となる。
・文明10年(1478)12月:諸国に花御所造営のための段銭がかけられる。

★[第4期室町殿](1479~1480)
・文明11年(1479)2月13日:室町殿(花御所)御造営御事始め。惣奉行は管領畠山政長、四面築地は畠山・赤松・山名・細川管領が受ける(在盛卿記)。2月13日:裏築地の民屋巷所在家などを撤去(応仁の乱中に陣屋が建っていた場所に形成されたもの(晴富宿禰記)。3月6日:室町殿は東西行40丈、南北行60丈の御地なり。(しかし南方に数多くの町屋があったため)南北40丈に築地を(縮小)仰せつけられる(大乗院寺社雑事記)。南方20丈には小屋共がある。築地の範囲は烏丸・室町・五辻・立売か?。7月2日:北小路行宮が炎上(室町殿の北方に移された皇居が焼失?)(京都御所東山御文庫記録)
・文明12年(1480)1月10日:「今日室町殿年始参賀、まず小川に参る。准后(足利嘉政)御所なり、元細川右京大夫勝元遊覧の所。乱中よりご所望にて、時々渡らしめる。花御所炎上以後は不断の御所となす。各々参集し、御対面す。次に宰相中将殿(足利義尚)に参る。(北小路室町なり、元伊勢守貞宗が乱の間宿所とした、花御所炎上以後、ここに御座す)(宣胤卿記)。4月1日:室町東、柳原以南、数百家焼失。室町第・広寿院等類焼(宣胤卿記)。御方御所(義尚)前室町東のつら東西へ一丁焼失。

★[第5期室町殿?](1481~1482)
・文明13年(1481)6月5日:室町花御所御作事始め。惣奉行畠山政長。御木屋をたてらる。室町殿(花御所)四方築地を築き始めらる。東方は管領畠山、西面は細川、北方は赤松、南方は一色・武田(長興宿禰記)。
・文明13年(1481)10月21日:義政、小川御所から岩倉長谷の聖護院山荘に隠居。

(小川御所時代)
・文明14年(1482)2月:東山殿造営開始。5月1日:義尚、小川御所が留守となったため、北小路室町の伊勢貞宗邸から小川御所に移る(長興宿禰記)。
・文明17年(1485)8月14日:細川政元、土一揆を屋形前に集め点検す。一揆衆、「花御所跡」に集まる者1000人ばかり(蔭涼軒日録)。
・長享元年(1487)9月12日:義尚が小川御所から近江に出陣するときの見物に人々が「花御所舊跡」にあつまる(後法興院記)。11月14日:「花御所」の浅水の大石を伊勢貞宗の指示により人数三百人で運びだす(蔭涼軒日録)。(東山殿へ?)
・延徳元年(1489)3月3日:「花の御所の大松」を東府(東山殿)へひかる。人数四五千。

 ⑩足利義尹(よしただ)[1466-1523](1490~1493)(三条坊門高倉御所時代)
・義視の子。後に改名して義稙。日野富子に擁立されて将軍に。細川政元により将軍を廃立され越中に逃亡。

 ⑪足利義澄(よしずみ)[1480~1511](1494~1508)
・堀越公方足利政知の子。天竜寺塔頭香厳院の喝食清晃だったが、1493年に細川政元に擁立され将軍。義高と改名。
・明応5年(1496):室町殿の一角(室町殿敷地のうち艮(東北)角丈数)が公方同朋衆の菊阿弥によって土倉(野洲井宗賀)に売られる。
・明応9年(1500):上京大火。1~2万軒が焼失(柳原・土御門・烏丸・室町)。室町殿地点は焼けたか?。祇園会復興。
・永正元年(1504):烏丸室町辺りに火あり。
・永正4年(1507):室町幕府の実力者、細川政元が殺害される。

 ⑩足利義稙(よしたね)が大内義興の援助で将軍に返り咲く(1508~1521)
・永正5年(1508):代わって細川高国が管領になる
・永正18年(1521):足利義晴が上洛して上京岩栖院(室町柳原北)を臨時の御所とする。
・大永元年(1521):足利義稙が阿波へ没落

 ⑫足利義晴[1511~1550](1521~1546)(柳原御所時代)(町田家本洛中洛外図では室町西には町屋が並ぶ)
・義澄の次男。
・大永5年(1525)4月26日:柳原御所新造普請始め。12月13日:義晴、岩栖院から移る。義稙の三条御所の建物を移す。
・大永6年(1526):東卿殿から土倉野洲井宗賀に、室町殿内の敷地が安堵される。
・大永7年(1527):細川高国が丹波、阿波勢に敗れる。
・享禄4年(1531):細川晴元が細川高国を敗る。
・天文元年(1532):細川晴元が洛中法華門徒と山科本願寺を焼く
・天文5年(1536):延暦寺と六角氏が洛中法華門徒の寺を攻撃誓願寺、革堂、百万遍が被災(天文法華の乱)。この時室町殿跡は焼けているか?。11月18日:明応5年(1496)に売られた室町殿の敷地の艮(北東)の一部について、大永6年(1526)に確認された件。
・天文8年(1539):公方様御築地を細川晴賢が築くの件。誓願寺の再建。北野社の竣工。
・天文8年(1539):室町通立売角の材木屋、昼に焼失す。

★[第6期室町殿](1542~1548)
・天文11年(1542)閏3月:北小路室町の旧地に室町殿を再建。足利義晴が相国寺から移る。

 ⑬足利義輝[1536-1565](1546~1565)
・義晴の子
・天文15年(1546):足利義輝11歳、近江にて将軍になる。
・天文16年(1547):足利義輝、東山慈照寺で元服。今出川御所に入る。足利義晴、義輝と細川晴元が北白河周辺で合戦。10月18日:「花御所御地上中筋の紺屋乗蓮宅が質物として浄幸の手にわたる(賦引付並徳政方)。(室町殿の一部で町が形成される。)
・天文17年(1548):足利義輝、祇園会参会のために慈照寺から今出川御所 へ。

・天文18年(1549)6月24日:摂津江口の戦いで三好長慶に敗れ、細川晴元と足利義晴、義輝は近江へ。7月29日:上京立売組成立(三好長慶書状)
・天文19年(1550):足利義輝、北白河山中に御殿を伴った城が築くが、三好に攻められ坂本へ退去。義晴死。
・天文21年(1552):足利義輝、三好長慶と和して入洛す。「修理」。東山霊山城に入る。
・天文21年(1552):「妙顕寺」が「天文の法難」によって使われていた「法花寺」名称を元にもどす。
・天文22年(1553):足利義輝、三好に霊山城が攻め落とされ、朽木谷幽閉
・弘治3年(1557):上京大火事。近衛殿炎上。
・永禄元年(1558):足利義輝と三好長慶が和睦、義輝は相国寺に入る。
・永禄2年(1559):二条新邸(本覚寺)造営
・永禄3年(1560):近衛御所(烏丸・室町・下立売・近衛)へ移る(近衛御所時代)
・永禄4年(1561):『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』に新しく作られた冠木門が記される。
・永禄8年(1565):足利義輝、三好・松永に殺される

 ⑭足利義栄[1538~1568](1568)(よしひで)
・義維の長男。阿波に生まれ、三好三人衆に擁立。

 ⑮足利義昭[1537~1597](1568~1573)(二条館)
・義晴の子
・元亀4年(1573):信長の上京焼き打ち

2007年9月23日 (日)

平安宮豊楽院清暑堂に注目

そういえば昨日の11時にはソウルの昌徳宮にいて南大門に向かっていたなあと思いながら
千本を下長者から下がる
平安宮豊楽院内にある豊楽殿北の建物の清暑堂に南面西階段が見つかり
その説明会がおこなわれた
平安時代の国家的な饗宴の施設群として有名な豊楽院は
これまで、その中心建物である豊楽殿の北西部が調査され、現在公園となって保存されている
今回の調査は、道をはさんでその北にあたる

調査地の東半分は豊楽殿の北廊の版築で築かれた基礎がみえ
その北端の西で階段になっていた凝灰岩のきれいな切石が見えていた
昨日、昌徳宮を見ながら、くわしい王の生活の話を聞いていたため
真夏日のつづく京都でも
この石段の近くに立っていた天皇の姿が容易に想像できる

現在の地表面からわずか1m足らず
現在の風景の下から、平安宮時代に設計された建物跡が当たり前にみつかる
その意味はとても大きいのだが
あまりに普通の日常の中に埋没しているため驚きが驚きと実感されない
けれども、これが
京都という街がもっている歴史の深さのリアルの実際なのである
だから、この感覚をいかに多くの人に体験してもらうか
実際の現場をふまえた後のデジタルとアナログと知恵と工夫が試されるところ
大学院の課題にしている

今出川にもどるとたしか2年以上におよびクラーク館を覆っていた外装がはずされ
Dscn0901 修復が進んだその姿が見えていた
今回の修復で、その建築当時の姿に帰るという
実は建築史も遺跡研究と不可分の関係にある
規模は違うが、丸太町七本松の京都アスニーの1階は「京都市 平安京創生館」として
平安京や豊楽殿の模型と絵画資料の展示がおこなわれている
岡崎のみやこメッセには、京都市動物園の場所にあった法勝寺の模型が展示されている
これもまた、実際の現場をふまえた後のデジタルとアナログと知恵と工夫のひとつ

ところで
今回の調査地は清暑堂の南で東西方向の
おそらく古墳時代にさかのぼる落ち込みがみつかっている
清暑堂と豊楽殿をつなぐ廻廊は、これを埋めてそのうえに厚い版築で築かれている
この落ち込みは褐色の粘土で埋まっており
湿地のような状態だったと推定される
大内裏地区は、平安京の中でも一番高い地盤だったというのが
マクロ的な環境理解であるが
北西方向からの谷がのびてきたのだろうか
一瞬、秦川勝の邸宅にかかわる伝説が頭をよぎる

2007年9月22日 (土)

漢城から京都を見る

このホテルではNHKの海外放送を見ることができて
さらにひとつのチャンネルは野球放送をしているのだが
なんと昨日は阪神のゲームをライブでやっていて思わず見てしまった
閑話休題
20日の夜のNHKの天気予報を見ると日本列島は依然として熱中症の注意を促すほどの厳しい残暑が続いている様だが、こちらには秋雨前線がのびてきており
明日はまた雨かなあと思っていたら
なんとか曇りで天気はもった

8時にホテルを出て昨日間に合わなかった昌徳宮へ
世界遺産になってからかどうかわからないが
ここは時間が決められてガイドに案内してもらうシステムになっている
早く着きすぎたため、近くの史跡を見学して昌徳宮の門に向かう
その日の最初のツアーだが、すでに50人以上が集まっている
ウィットに富んだ説明の女性ガイドに導かれて王宮を巡る
平安京で言えば、大極殿と内裏が一緒になったような空間であるが
北にとりこまれている小丘陵の関係だろうか
それらの軸が一致していないことが面白い
ガイドさんによれば、風水を重んじたというが
現在でも大統領府も景徳宮も北の白い岩盤が露出した山を背後においた風景の中にある

11時に宮殿を出て時計をにらみながら南大門へむかう
こういった時、T-moneyがやはり重宝する
どこでもそうだろうが、駅はその地の雰囲気をそのまま表現している
ソウルの3日間で、その全ての特徴を知り得たわけではないが
ここはなんとなく阿倍野の駅を感じた
南大門の最寄りの駅を降りて地上に出るといきなり市場のパワー
ミナミのいきおいに圧倒されながら通りを下ると、左手に城壁が見える
あれ、と思いながら先を見るとソウル駅が見える
予定していた道を間違えたが、その手前を右に曲がれば南大門である
なるほど南山の西の尾根の先がずっと下がった先にあたっていた

Dscn0690 南大門には厳しい顔をした衛兵が3人立っていて街の守りを象徴している
南大門と通称されるが、ちゃんと「崇禮門」という額がかかっていてうれしくなる
南東にむかってすこしだけ低く城壁の一部が続いているが
北西は高層ビルが林立していてもはや城壁をの姿を探す術は無い
ただし、地名などにその痕跡が無いかどうか
市場を突っ切って地下鉄にもどり国立中央博へ

仁村の駅からすぐの場所に広大な公園とともに博物館が建つ
民俗博物館でも感じたが、ロンドンと同じ楽しい博物館の雰囲気が伝わる
学校との連携がうまく運んでいるのだろうか
小学生や中学生らしい児童・生徒がとにかく多くとてもにぎやか
全てではないが、頑張っているところも多く知っているが
日本の博物館からはいつからこういった風景が減ってしまったのだろうか

会いたかった資料に会え
確かにそうだったと思う資料に会えた
日本の歴史は東アジアの歴史だと実感する貴重な空間である
豊富な資料と楽しい雰囲気の中
帰りの飛行機の時間を気にしながら、やはり全てを見ることができないまま
またもや禁断の小走りで地下鉄にむかう

ところで、昨日一番大切なことを書くのを忘れていた
漢城には8つの門がある
今回はそのうちの6つを見ることができた
ただし西の2つは現存しないので(1つはあるか?)
現存する全を見たかと思う
そこでそれぞれのあった場所を思い出してみると
東の光煕門は南山の北の端、東大門と恵化門は駱山の南と北の端
崇禮門(南大門)は南山の西の端、西のふたつの門は、その北の山の南の端
そして義彰門は北の山が途切れた峠の位置
けれども粛靖門は山の上だった
つまり8つの門のうち
漢城を囲む丘陵の途切れた位置で、外界との自然なアクセスの場にあるのは7つだったのである
もちろん、その中で最も重要なのが漢城を東西に貫通する時のそれぞれの門
それが現在の東大門と南大門に継がれていることもよくわかった
漢城は今のソウルの中にも生き続けている
そして京都もまた同様ではないかと思う
そんな視点で現代の京都を見直してみたらどうだろうか
まもなく離陸

日本海の上空10058mで漢城から京都を顧みておもう
北野の天神さんと東寺の弘法さんのはじまりはいつなのだろうか
三条の賑わいは粟田口にさかのぼるのだろうか
大和大路を意識すれば清水あたりか
淀から洛中へ入ってきた荷がつくのは
鎌倉時代は七条あたり
では室町時代は伏見から大和大路を上がるのだろうか

行きは空席の目立つ機内だったが
帰りは週末を日本観光に向かう乗客で満席である
これからの京都観光とこれからの京都観光
考えるべき事はたくさんたくさん

2007年9月21日 (金)

ソウル城郭探索-超超健脚向け-

後でニュースを見たら台風が予想より早く北へ抜けたようで
今日は朝から気持ちよく晴れた
晴れたということは漢城の城壁をたくさん見て回れるということで
ソウルナビの情報を元に、9時前に東大入口駅を出る

漢城を描いた地図はいくつも知られているが
17世紀の「朝鮮八道古今 覧図」をみると
東の興仁門と南の崇礼門がとくに大きく書かれ、あわせて8つの門が描かれている
北東に恵化門、東に興仁門、南東に光煕門、南は南山タワーの建つ丘陵を境として
南南西に崇礼門、南西に昭義門、西に敦義門(これが慶煕宮の南西)
北は恵福宮の西の道を北へすすみ、白岳の西の麓に彰義門、そして真北に粛靖門
東の興仁門が東大門で南南西の崇礼門が南大門にあたる

ソウルナビによれば、東大門から北と南にのびる城壁がみられるとのことで
北の恵化からおりるか、南の東大入口からあがるか迷ったが
イテウォンの駅に降りて最初の列車が東行きだったので南から回ることに
5番から外へ出てファミリーマートで、さっそくt-moneyで水を買って東湖路を東へ
新羅ホテルを通り過ぎたところで南へまがる
見れば探すまでもなく、大きな解説板と城壁そのものが目に飛び込んでくる

Dscn0416 最初に造られたのは初代太祖の1396年で20万人が働いたと書いてある
3代将軍足利義満の時代である
4代世宗の1422年に石造りにして、高さ12m、延長18キロの城壁が完成したという
4代将軍足利義持の時代である
「ソウル城郭」とはその解説板での名称である

城壁はきれいに整備され、新羅ホテルの東境も兼ねているのだろうか
登り坂の道沿いをうねうねと南へつづく
冬ソナの事務所になったロケ地をすぎてしばらくいった頃から
城壁は南山の山麓に入り、東は急激に落ちる地形になってくる
途中1カ所、城壁の内側へ入る口があり、少しのぞいてみたが庭園の一部と民家がみえた
地形に沿ったかたちで緩やかに左へカーブして登り詰めたと思ったらそこから西へ折れ曲がり、まさにその場所で発掘調査がおこなわれていた
休みのようで、話しを聞くことはできなかったが、この先の南山の林の中にも、この城壁が続いていったのだろう

大汗をかいてもとの場所へもどり、道を渡って北へ向かう
このあたりは元々南山のひとつの尾根が北へのびた場所だったようで
城壁そのものは残っていないが、道沿いの西にその最高点がわかる
おそらくこのラインが城壁の跡だろうと独り合点
やはりこの道の東は大きく下がる
下り坂になったところで、奨忠壇ギルのウリ銀行から来た道とT字にぶつかるので
Dscn0445 右に折れてすぐにまた北へ向かうとまもなくその先が開け光煕門が見える
ほぼ退渓路に対する関係とみてよいだろう
その先が東大門運動場と市場街、信号待ちをしながらファミリーマートで水を買う
カムサハムニダ

城東女実業高校と漢陽工業高校の間をぬけて東大門南の繁華街へ
地図を片手にまわりをみまわしていたら、横断歩道の中央分離帯に大きな観光マップがあって、そこに城壁が描かれている
なぜか現在のソウルのマップに城壁の乗っているものを見たのはこれが初めてとなる
せっかくなので、少し市場に迷い込みながらなんとか五間水橋を渡り東大門の正面にでる
Dscn0459 現在は普通に東大門として知られているが、交通標識にはしっかり「興仁門」とある
旺山路に横断歩道は無く、地下をくぐって北へ
東大門のロータリーからも見えるが、城壁はそのまま北へ続いている

ここの城壁もきれいに整備されており、最初は外側を歩いていったが
途中から内側に入り、さらに城壁の真上の道を駱山公園に向かってのぼる
気がつけば、ここもその東と西が急な崖と斜面
つくるべきところにつくられている
Dscn0476 駱山公園の中央は、城壁の外の住宅街をまわってきたバスの終点になっていて
その部分に大きな岩盤を利用した城壁の断面がみえる
ここから城壁はまもなく下りになってやがて行き止まり
目の前には大きな建物の敷地と密集するマンション群
なんとか城壁の続きが見れないものかと行き止まりの路地をさまようが
どうみてもこのままではあやしい人物になってしまうのであきらめて西へ降りる

マンションの建ち並ぶ住宅街を越え、飲食店の並ぶ通りを過ぎると恵山の駅
大学路のいきなりの都会である
ソウルナビはここまでの紹介だが
地図を見ると、この先に地下鉄4号線の走る大きな道があるので
城壁はかならずこの道と交差しているはずと、そこを目指す

不思議なモミュメントを歩道においた恵化の街をぬけ大きな交差点を右に折れる
物理的に城壁の一部でも見られるはずと思い先を見ると瓦屋根の一部が
Dscn0486_2 恵化門である、城壁も続いている
地図に載っていないので嬉しい
さて、これからどうしようかと一瞬迷うが足は先へ進む
ゆっくり右にカーブしてから直線を少し
だんだん左にまがっていくとそこは学校のグランドの壁
やはり右手は急な下りなので、おそらくこのラインだろうと思いながら
けれども痕跡はここまでかと恵化へもどる道との交差点に出て思う
時刻はまもなく12時
なにか食べようかと、目の前の食堂をのぞく
元気なおばさんが声をかけてきて、空いている席を指さして座れと言う
どうやらカツ料理屋さんの様子
せっかくなので韓国らしい食事ができたらとあやまって出る
さて、どうしようかと道の向こうを見たら城壁の看板があった

再び上りである
やはりきれいに整備された城壁を右手におきながら
光煕門で買った水はすでに駱路公園で無くなっている
やはり昼は無いなあと思いながら前を見ると東屋が見え車も停まっている
そしてその先は特別区で進入不可となっている
やれやれこれでなんとか区切りがつくかと思い回りを見渡していると
城壁の外へ出る道のそばに、距離やこまかなコース説明の入った城壁の案内が
手元の地図と見比べて、どうやらこの先の長いコースの説明だと推測
残りの時間を考えてこれは無理だろうと思い
景福宮への道を降り始めようとして「粛靖門」と赤い→の表示が目にとまる
光煕門を見て東大門を見て恵化門を見てさらに粛靖門を見れるのならと思い
つい引き返して城壁への道を進む

城壁を越え、テニスコートへの道と分かれ城壁の外を城壁沿いに進む
北は大型のマンションが建ち並ぶ住宅地
南はソウル中心部で、その先には漢江が流れる
城壁はそのまま西へ延び、特別区の立ち入り手続きを経て粛靖門へ
その先は再び上りと下りが延々と続く石段
なんどか踏み外しそうになる足をなだめながら義彰門に着いたのは
午後を大分まわった時間だった
結局南山の南東角から東のルートを北上し、さらに北山のほぼ3分の2以上を見てまわったことになる
城壁はさらに仁旺山の峰をめぐり、地下鉄3号線のあたりを南下して慶煕宮公園の西あたりへ来ていたらしい

ほとんど足を引きずるようにしながらバス通りを下り
大統領府を迂回して北から景福宮へ入る
国立民俗博物館では音にちなむ企画展がおこなわれており賑わっていた
ロンドンの博物館で感じたのと同じような楽しさがあった
やはり「モノ」の持つ潜在的な力なのだろうか
景福宮は北西部が修復中で、外に発掘調査でみつかった見事な宮殿遺構の写真が掲示してある
オンドルを確認して、広い前庭とそびえる宮殿を確かめた後
大規模な修復工事中の光化門を横目に東へ
にぎやかな仁寺洞を南に見ながら粟谷路を東へいけば、ほどなく昌徳宮
景福宮と昌徳宮は東西に並んでいるのである
ただし昌徳宮は最終の案内が出た直後だったため、昌慶宮へ禁断の早足で向かい17時3分前になんとかすべりこむ
東向きの宮殿で、背後に諸施設をもうけ、北に園地をもつ
また、その南西の隅から南の宗廟へつながっており
歴代の王と功臣が祀られた御殿をみることができる
いずれも中央に瓦を敷いた細い通路が印象に残った
そういえば米沢の上杉家の宗廟も同じような景色だったとも思いながら

昌慶宮を出ると18時少し前
一番近い地下鉄は恵化かチョンノオーガ
午前中に見た大学路のにぎやかさを思い出して恵化へ
親しみやすそうな飲食店が並ぶ
なんども立ち止まるが、今日は一旦座ったら立てないと思いそのまま駅へ向かう

今日の踏査で、戦国時代末期の日本でおそらく知ることができた
漢城の景観と同様なものを得たと思う
戦国の武将達は、大内をはじめとして、それぞれ独自のルートで大陸と交流し
その文化と技術を受け入れていた
その中に、繁栄する漢城の姿があったとしてもなんの不思議も無いと思うのだが
ほぼ9時間、休み無しで歩き続けた
上り下りもかなりあった
距離は不明、万歩計を持って行けばよかった
戦国時代に関心があるならば見ておいたほうが良いとは思うが
よっぽどの覚悟が必要な超超健脚向きコースである

2007年9月20日 (木)

雨の漢江沿いの街

関空から仁川までの飛行時間は1時間20分
明石海峡を抜けて小豆島から中国山地に入り、新見から宍道湖をかすめるルートで新羅と百済を横断する
朝一番のフライトだからだろうか、乗客は半数に満たず
さらにトランジットのため、入国カードを受け取らない人も多い
中村直勝さんの『増鏡』(アテネ文庫)を読み終える頃、仁川に着く

仁川は土砂降りの雨の中
上海の台風の影響がここまできているのだろうか
なんとかホテルに入る頃には小降りになったので
去年のロンドンを思い出しながらソウル歴史博物館へ向かう

この4月から東京とその近郊ではパスモが登場し
それ以前からあったスイカとあわせて
東京圏内では切符を買う人が減っているという
関西圏内でもイコカが以前からあり、その後ピタパも登場して
この4月から近鉄や京都市地下鉄でも使えるようになったため
やはり切符を買う人が減るかと思っていたが
関西圏でのICカードは東京圏より利用率が低いと聞く

その理由が地域性なのか機能差なのかはわからないが
ソウルでも以前からT-MONEYというカードが開発され
現在ではバス・地下鉄・タクシー・コンビニと一部の博物館でも決済が可能という
ロンドンでは3日間地下鉄とバスに乗り放題のトラベルカードを使ったが
これはぜひにと思い、さっそくセブンイレブンでティマニ・チュセヨ
ソウルの地下鉄は、待つほども無く次々とやってくるため
それほど急ぐ必要も無いのだろうが、切符を買うときの小銭の心配が要らず
どうしても小銭が増えてしまう旅行者にとっても
このシステムは有効だと思った
京都市でも考えたらどうだろうか

中村直勝さんは『増鏡』の中で「歴史は何のために編纂されたか」ということを語っている
中村さんは『増鏡』を『吾妻鑑』と対比させ、それが、「かくあれかし」という文学でもなく、「かくあった」という史学でもなく、「かくあるべきだ」という哲学でもなく、「その中にひそかにこもらせてある目的を達する必要」によって「一人でも多くの人に読まれる必要」があった歴史書だと考えていることによるのだが

その1は、国家や個人がある程度生育して精神的なゆとりができたときに、自分の履歴を書いておきたいという素朴なもの
その2は、権力者がその正当性を普及させるためのもの
その3は、いわゆるアーカイブで、大がかりな日記のようなもの。ただし対象が広範におよぶことにより誤りが多くなるという
その4は、かなり高い学問的な要求に基づくもので、エピソードの因果関係をたどり、その中から何らかの規則性や哲学や今日の指針を導き出そうとするもの。いわゆる鏡がこれにあたるという
その5は、偉人伝や英雄伝。これはどちらかというと文学のジャンルに近いとも
その6は、その7は
ということで
歴史の編纂(叙述)は公正でなければならないのは当然だが、できあがった歴史書は決して絶対公平なものであるとは言い切れない
ゆえ、歴史を研究するときは、その残された史料や資料の製作者が誰か、あるいはどんな環境にあった人なのかをみきわめて立ち向かわないと、史料や資料を読み解くのではなく、史料や資料に読まれてしまうことになる
「編纂者の投げた網の中に捕らえらえてしまうことになる」

中村さんは『増鏡』を希代の名文と賞しているが、この文もやはり同様だと思う

ソウル歴史博物館の常設展示の最初のコーナーにある、漢城の巨大な模型を見たときに
思わずこの中村さんの言葉が頭をよぎった
ソウルには宮殿が多く、この博物館も第15代光海君が建てた離宮の慶煕宮公園の一角に建つ
もよりの駅のひとつはソデムン(西大門)なので、漢城の西の端に近い
その南東約500mには、9代成宗の兄月山大君の邸宅として築かれた徳寿宮が建ち、すぐ東がソウル市庁、そして道をへだてたその南東がロッテ百貨店である
ちなみに南大門は、この徳寿宮の東の道をソウル駅へむかって約500mのところ

一方、この道を逆に北へむかった先におかれているのが景福宮
李朝の太祖、李成桂が1395年に築いた王宮
南西に国立古宮博物館があり、北東に国立民俗博物館がある
そして、この景福宮の東におかれているのが昌徳宮
第3代太宗が1405年に景福宮の離宮として造営したもので世界遺産登録されている
さらにその東に接しているのが昌慶宮
第4代世宗が1418年に父の太宗のために建てた離宮
第9代成宗が3人の大妃の宮として増改築
そしてこのふたつの宮の南には李朝歴代の国王と王妃を祀る宗廟

どうも思いこみが強すぎていけないのだが
見れば見るほどに
どうしても聚楽第と御所の関係が頭を離れない
もっと相対化して、多角的な見方をしないといけないとつぶやきながら

中村さんの本を読んでいて、増鏡が清凉寺から始まっている意味がわかった気がした

2007年9月19日 (水)

遺跡が語る京都の歴史-ソウルバージョン-

毎年秋学期は文化史特論で遺跡が語る京都の歴史を講義している
今年度の文化史特論(遺跡が語る京都の歴史)の予定

1、舞台の設定。鴨川の付け替えと旧石器から弥生時代まで
2、古墳時代の京都と秦氏と古代寺院
3、平城離脱:長岡京の意味(平安京前夜)
4、平安遷都:京都三山(平安時代)
5、平安京を掘る:平安宮と平安京。右京は衰退したか(平安時代)
6、法成寺・法勝寺・平等院・金剛心院・蓮華王院(院政期)
7、かわらけの文化史(鎌倉時代)
8、七条町と八条院町(鎌倉時代)
9、持明院殿(鎌倉時代)
10、嵯峨野の魅力(鎌倉時代)
11、洛中洛外図(室町時代)
12、室町殿掘る(室町時代)
13、聚楽第を探せ(安土・桃山時代)

毎年少しずつ新たな知見を加えながら
また、遺跡情報を加えながら今年で7年目になると思う

今年のバージョンアップは平安京成立以前の古代寺院についてと
鎌倉時代の京都について
それから秀吉の京都改造についてを考えている

鎌倉時代の京都については
政治の中心が鎌倉に移ったために
これまでは京都の姿についての説明はあまり多くなかった
けれども遺跡情報を軸にいろいろ考えていくことで
この時代の京都についても、見えてきたことが多くなってきた
主人公はもちろん西園寺である
そしてその原形は道長である
さらにその原形は嵯峨天皇である

秀吉の京都改造については
以前に京都府の研究会でも話しをしたが
お土居の意味について
これまでの説明ではどうしても納得できないままでいる
それでどうしてもソウルを踏査してみないといけないと考えており
これからソウルへ行くことにした
まもなく離陸
帰国は21日の夜

ちなみにプロジェクト2の予定
1、笠置山の発掘調査と瓦器碗の編年
2、漆器椀の分類について
3、陶磁器の産地構成からみた中世の時代区分

2007年9月16日 (日)

走湯山の風景

大方の予想に反して、その日は朝から晴れだった
これもひとえに女王の魔力の賜と誰かがつぶやく

伊豆山神社は熱海駅の北東約2キロの尾根上に立つ
その北は谷で、南も谷である
熱海の駅から歩くとよくわかるが、ガードをくぐって西へ出て
ゆっくりと山麓をまいて登る道をゆき
ビクターの保養所をすぎたところが南の谷の入り口
2007 この谷を流れる川は伊豆山港へむかい、海に出る手前で滝のように激しく流れ落ちる
北の谷は、伊豆山神社の鳥居前を通るバス通りに沿って北西に深く延び、その向こうには高級なマンション群がそびえる
もちろんこの谷にも川が流れており、その水源に近い場所に本宮神社がおかれる

伊豆山神社からは角礫の転がる山道を約30分
傾斜がゆるやかになったところに出るとそこが本宮
伊豆山神社は、もとはこの本宮に鎮座したという
そして山の傾斜はここから角度を強め、その先の頂が岩戸山になっている

走湯山は、梁塵秘抄にも名高く、源氏の守護神であることでも有名だが
走湯山に関係する人物には、法名を鑁阿とした足利義兼もいる
彼は北条政子の妹と結婚し、頼朝とも関係の近かった彼は、建久7年(1196)に走湯山の理真を招いて栃木県足利市に鑁阿寺をひらいた
この寺は足利氏の氏寺として、尊氏以降厚い幕府の保護を受けることになる
走湯山は源氏と鎌倉にとって重要な神社であったが、足利氏にとっても同様な役割を果たしていたようである。
あたかも善光寺や浅草寺のようなものだったのだろうか
なお、ここの境内には貴重な経塚の遺跡があることも有名で
資料館には、出土した渥美の甕や壺、鉄製の経筒、中国製の青磁八耳壺などの見たことのない資料がならんでいる

そんなことも考えながら熱海の海を見下ろしていると
伊豆山神社にある資料館のパンフレットの写真にI君が気づいた
この神社を海から見たとき
その両側を滝のように(おそらく岩盤を)ふたつの川が海に流れ落ち
その中央にはその名の由来ともなった走湯がほとばしる
さらに目を上に転じれば
伊豆山の向こうに岩戸山が見え、さらにその向こうに富士がそびえる
伊豆山への道にはいたるところに岩が露出しており
コンクリートで覆われた海沿いも岩盤
そして言うまでもなく岩戸山には鎖場が
これ以上無い修験と聖地の条件がそこには備わっていた

若宮大路周辺の調査地点データの集約はほぼおさえたと思う
名古屋を出た頃から雲が厚くなり、一瞬窓に強い雨音が
これもひとえに女王の魔力の賜と誰かがつぶやく

2007年9月13日 (木)

ちょっと早いけれども卒論や修論への準備を始めている君たちへ

嵯峨天皇についての中村直勝さんの文章が頭から離れず
中村直勝著作集に目を通していたら第6巻で後鳥羽についての詳述があった

鎌倉時代の京都を説明するキーパーソンが後鳥羽であることはあまりにも有名な事実である
けれどもその後鳥羽についての史料があまりに少ないこともまた有名な事実である
数少ない史料の中で取り上げられることの多い「玉葉」もその初めには記述を終えてしまい
最も豊富なエピソードを与えてくれる「増鏡」は、その内容の精査が困難である

そのため、京都の歴史にとって、鎌倉時代はどうしても描きにくい時代が続いており
それが、都市史から見た京都をわかりにくくさせている大きな原因であることも
また多くの研究者にとっては常識とも言える事実である
しかし、そんな状況であっても、なんらかの仮説を打ち出さないことには
京都の都市史研究の新たな局面は見えてくることがない

そんな気持ちから、とある本の著述をはじめているが
さまざまな先行研究を紐解く度に新しい学びに接し、一進一退の状態が続いている
あたかも歴博の48集に河内鋳物師の論文を書いたときに2年模索を続けた様に

ともすれば分散してどこかへ行ってしまおうとする情報を
手足をばたばたさせながらなんとかたぐりよせ
どの糸とどの糸を結べばどうなるか
あっちこっちの記憶をたどりメンディングテープで仮留めする

少しも進んでいないのではと思う気持ちの一方で
わずかずつだが前に進んでいることを感じるのは歳のなせる技かと
自分を納得させる

中村さんが大覚寺について書いていた中に
大沢池は仙境だというフレーズがあった
ポイントはここにもある

予廿余季より以還、東西の二京を歴観るに、今夜猿楽見物許の見事なるは、古今に於て、未だ有らず。

右馬寮の史生、七条以南の保長なり。名は金集(かなつみ)、名は百成(ももなり)、鍛冶、鋳物師、ならびに銀金の細工なり。

五味文彦2007『王の記憶』新人物往来社

2007年9月10日 (月)

嵯峨野のもうひとつの風景

楽洛キャンパスで2回の講義と1回のフィールドワークをおこなう
1回目は4日に「嵯峨野のもうひとつの風景」、2回目の7日は「京中城有」でフィールドワークは「聚楽第を探せ」

嵯峨野については、2000年からおこなっている、文化史特論の「遺跡が語る京都の歴史」の中で、嵯峨天皇を調べていった時に、これまでと違う嵯峨野を見えた気がして、なんとか調べ直してみたかったテーマ
聚楽第についても、この数年聚楽第の復原案がいくつかだされたものに対して勉強しないといけないと思ったことから

この数年の文化史特論でも強調しているが、平安京の実質的な、あるいは本格的な整備をした天皇は嵯峨天皇であると思う
その嵯峨天皇がなにゆえに嵯峨野にこだわったのかについては授業での話になるが
そのひとつの手がかりに中村直勝さんの見方があることは間違い無いと考えている
その点で嵯峨野は現在の人気スポットである魅力とは別の魅力をもっていたことになる
ただこの魅力は嵯峨天皇が無くなるとまもなく力が失われた

そんな嵯峨野に再びこだわったのが鎌倉時代の後嵯峨上皇である
彼は亀山殿を築き、その系統のひとつは大覚寺に御所もおいた
その亀山殿がその後足利義満によって天竜寺となった
ゆえ、ここにも現在の人気スポットである嵯峨野の魅力とまた違った魅力が嵯峨野にあったことになる

それでは後嵯峨とその皇統は、なぜ嵯峨野にこだわったのだろうか
嵯峨野とはいったいどんな場所だったのだろうか
というのが、今回の授業のテーマである
少しだけタネを明かせば
嵯峨と後嵯峨が築いた嵯峨院の跡と亀山殿の跡に共通するあるものに注目することになるのだが

今回、聚楽第の痕跡を探すために、かなり研究史にこだわってみた
名倉希言という謎の人物については調べ尽くせなかったが
京都坊目誌をつくった碓井小三郎には、平凡社の歴史地名大系を通じてとてもお世話になった
調べることはまだまだたくさんある

そんなことを思い出しながら『徒然草』に目を通していたら、地名辞典にも引用されていたが、第207段以外にも第51段に亀山殿についてのエピソードがあった
「亀山殿の御池に大井川の水をまかせられむとて、大井の土民に仰せて、水車をつくらせられけり。多くのあしを賜ひて、数日にいとなみ出だしてかけたりけるに、大方めぐらざりければ、とかくなほしけれども、遂にまはらで、いたづらに立てりけり。さて、宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかにゆひて参らせたりけるが、思ふようにめぐりて、水を汲み入るることめでたかりけり。
 萬にその道を知れる者は、やんごとなきものなり」

亀山殿の池に大井川の水をひくために、大井の村人に金を払って水車を作らせたが、廻らない。そこで宇治の村人を呼んで直してもらったら、すぐに廻るようになって、池に水が入ったという

ポイントは池の造営にあたり水車で水をひく地形だったこと
有償で、職人ではなく地元民が水車をつくったこと
しかし、水車つくりの技は宇治の村人が秀でていてしかも有名だったこと
亀山殿の近くには芹川もあるのに水車で大堰川の水をひいたのか
宇治の村人が水車造りで有名だったのはなぜなのだろうか

ちなみにこの段の後が有名な仁和寺の僧の石清水参詣逸話である

さらに蛇足であるが、第207段は亀山殿を造成するときに、大きな蛇がたくさん出てきて
さて、どうしようと皆で相談していると
実基の大臣が心配ないから掘り捨てるようにと言い、祟りも無かったという話

この実基が誰かというと、さらにその前段の206に
徳大寺公孝が検非違使長官の時に、牛が役所に入って長官の座で反芻して横になっているので、なにかの前兆かとおろおろしていたら、父の太政大臣が「偶然のできごとに驚くな」と一喝
ことなきを得たという話があって
角川文庫では徳大寺公孝の父の徳大寺実基だとしている
合理的で剛胆な性格で頼もしい人物ともみえる

さて、この徳大寺実基であるが
岩波の日本史事典によれば、1201から1273の生没で、父は右大臣公継。院評定衆として後嵯峨院政を支え、徳大寺家で初めて太政大臣に登ったという。
実はこの徳大寺家、その祖は実能で、屋敷は衣笠。実能の妹の璋子は鳥羽天皇の中宮となって崇徳と後白河天皇を生み、兄の通季が西園寺家の祖となっている。
亀山殿の造営の代表は西園寺公経の子の洞院実雄がとっていることは古今著聞集に載っている
よって亀山殿は、いわば西園寺家とその眷属の総掛かりによるものだったということになる

しらべることは、いたるところに、まだまだたくさん眠っている

川崎保編『信濃国の考古学』雄山閣2007
原明芳2007「平安時代の集落変遷と「武士」の登場」『長野県考古学会誌』121

2007年9月 2日 (日)

開発と災害の研究会

関西から東海にかけての不安定な天気を感じながら
あらためて昨日(8月30日)は良く晴れたなものだと思う
五味文彦さんの『藤原定家の時代』を読みながら
新横浜から根岸線まわりで大船へ出て鎌倉の駅に降りると
曇天ながらもう少しで肌寒いと感じる直前の気候

鎌倉の遺跡と初めて関わったのはまだ80年代の初めだから
もうずいぶん長くなると思ってはいたが
こうして調査地点データベースを整備していると
あらためて鎌倉という町と遺跡のすごさを実感し
笹目遺跡の埋納遺構から青銅製の銚子がでていること初めとして
(富山と博多で出ていたように記憶しているが)
これまで、そのほんの一部しか知らなかったことを今更ながら思い知る

若宮大路を中心に、東は名越、南は大町と由比ヶ浜、西は長谷小路に広がる遺跡群
難解な地番に右往左往しながら、ジョージ・スマイリーの様に過去の記録をたどる
膨大な情報を目の前にして、なにをどのように料理したら
その本質をつかまえることができるのか
そもそもその本質とはなんなのか
思いの外しっかりできていた鎌倉の調査地点マップに自分で作りながら自分で感嘆しながら
頭の中にリアル資料を思い浮かべつつ報告書の文字と図面に目を走らせ、考えを巡らせる

マクロ的に見たときの方形竪穴の分布と鎌倉の都市の関係が従来言われているように前浜を中心としたものであることは違いないのだが
そうでもない事例もそこそこありそうだとか
こんなに木製品の人形が出ていたのかとか
やはり石鍋の密集度は鎌倉が一番だとか
たまたま連続して鶴岡八幡宮のちかくの調査地点を連続してみていたからだろうか
中国製の高級品がいたるところで目に入る
いや入りすぎるほど

9月1日は第14回の中世都市研究会が東京大学でひらかれる
テーマは「開発と災害」

最初は落合義明さんの「中世武蔵国における宿の形成」
鎌倉街道上道と入間川の交差地点をめぐる宿の形成とその背景について
街道と宿の設計と造営と維持について、その公権力と地域権力の関係についてが話題となったが
個人的には、この道の先につづく信濃の善光寺に思いが飛ぶ

先月に善光寺門前に歩きながら、1707年に現在の姿になった善光寺のそれ以前の風景を模索したが
もし、その姿が一遍聖絵の風景に一致していて
この3月の調査でみつかった古代の瓦を包含している層が
平安時代の善光寺が治承3年に焼けた後に
頼朝が復興したときの造成盛り土だとすれば
頼朝は善光寺の復興に際して本堂の南を拡張したかったことになる
それが何のためかと言えば、絵に従えば塔ということになる
ということは、平安時代の善光寺には塔は無かったことになるのだろうか
さらに想像をたくましくすれば、斜面地を造成して伽藍を拡充する手法は鎌倉的と言えるのだろうか

二人目は垣内光次郎さんの「中世北陸の港町と災害」
有名な普正寺遺跡や寺家遺跡や道下元町遺跡など
個人的には報告で少し紹介された気多大社の門前の遺跡に関心をもった
北陸も長いこと訪れていないので行ってみたいと思いながら
それにしても垣内さんと同い年とは思わなかった

三人目は福原圭一さんの「『越後国郡絵図』にみる河川・潟・橋と町」
絵図資料のもっている膨大なデータとその解釈について
臨場感あふれる報告ではあったが、なにぶん土地勘が乏しいため
それを頭の中で再構成して理解するのに一苦労
伊藤正義さんがコメントした絵画資料の背後にある意図についての見方が新鮮だった

四人目は山村亜紀さんの清水を題材にした「中近世移行期における都市景観と自然地形」
地理情報から道と街並みを再現した鮮やかな説明
個人的には、20年近く前におこなっていた大坂城下町の調査を思い出す
山村さんの図2も南北を入れ替えれば、上町台地の西端をはしる熊野街道とその北端におかれた渡辺津の関係にそっくり
さらに1598年の三の丸築造を境に、自然地形に従った街並みから人工的な街並みに姿を変える秀吉から秀頼時代の大坂の風景とも瓜二つ
小島道裕さんがコメントしていたが、慶長期の政権権力がもっていた全国的規模の都市に対する意図のようなものを感じたが
会場からの質問にもあったように、開発というものを公権力からの一方通行としてみているだけではなく、大坂城下町でも船場の開発にあわせて道頓が運河をひらくなど、官民一体でのあらたな都市作りがあったことも視野にいれておかなければならないだろうが
さらに大坂の場合は、その背景に慶長伏見の大地震があって、秀吉時代の大坂城下の外港だった堺が機能を停止し、大坂城下の港が船場の先に変更される出来事もあった
都市にとって避けられない災害と開発
上町台地の変遷をこのキーワードでもう一度見直すことも有効だろう

五人目は佐藤亜聖さんの「中世都市奈良と火災」
治承3年の南都焼き討ちについて
佐藤さんらしい精緻な検討によって、その焼亡範囲への疑問が投げかけられた
さまざまな手法で検討されているのでおそらくその結論は正しいと思う
しかし、それに対する安田先生の疑問もうなずけるもの
おもわず発言してしまったが、京都でも応仁の乱による家屋の焼失跡と皆が認める焼土層が見つかっていない。江戸時代以降の記録に残る焼土層はどこでも見つかるのだが、いったいなぜなのだろうか。
確かに、京都の中心部でみつかるのは16世紀末以降の遺構がほとんどで、それ以前の遺構は削平されたと思われ、あまり見つからないということもある
それにしても本調査・試掘調査・立会調査など膨大な数の調査が行われてきた中で、それだと比較的地震をもって言えるものが全くないというのはなぜなのだろうか

見つかっているけれど見えていないだけだとする見方もある
ただ、笠置の「城」のように、元弘の変の可能性の高いしっかりした焼土層もある
討論の時に、藤木久志さんが言っていたように文献も考古も、これまでの資料の読み方や見方を見直すきっかけになるだろうか

6人目は高橋慎一朗さんの「鎌倉幕府と災害」
見事な鎌倉の災害史データベースである」
先月の善光寺門前での踏査でも聞いたが、若宮大路の側溝は幅員が3mあるという
そんなと思ったが先日その資料をみて唖然
なるほど、もう溝ではなく川であると
数年前の夕立で烏丸今出川が水没したことを思い出す
そう言えば今出川も氾濫した記事があった
都市とは住みやすく整備すればするほどさまざまな災害と向き合うことになると
高橋さんの弁

7人目は早島大祐さんの「応仁の乱への道」
藤木さんの応仁の乱の背景としての社会史的な環境
とくに飢饉などの要因の問題提起に、足軽や牢人の存在を重ねる
思わず司馬遼太郎の『妖怪』を思いだし
なるほど足軽が跳梁した時代の背景にはこういった状況があったのかと思う
個人的には、足軽や牢人たちが住まいとしていたのが六条以南であり
油小路以東で六条以北が京の中心だったという報告にうなづく
以前に京都駅前の調査を整理したときに南北朝以降は六条以南が墓地などの京の周縁になるといたがそれと一致し
後に洛中洛外図に描かれる上京と下京の範囲にも対応する
ただし応仁の乱の時は一条大宮あたりも町家と武家屋敷があったことになるので
西の範囲は油小路よりひろがるとは思うが

内容の深いテーマと多彩なコンテンツを前にして
とくに詳細な地名や人物や位置関係をふまえた報告が多いので
メインテーマに即して個々の報告をどう位置付けたらいいか
頭の中を整理するのが大変
コメントを求められた際に、感想を言うことしかできなかったがそれもやむをえまい
しかし遺跡を歴史の中に読み込むためにはこういった研究が重要なわけで
その意味でもとても良い研究会だったと思う
総合学としての歴史研究の紹介として、いずれ大学院や学部でかみくだいで説明してみたい

去年あたりから東京東部を意識して蔵前に泊まる
屋形船の浮かぶ隅田川を見るために厩橋まで歩き大江戸線の蔵前駅まで戻ろうとして
ロンドンブリッジからシティ中心部を見たときのイメージが交錯する
蔵前は江戸の経済を支えた札差が拠点とした所というから
このイメージはあたらずとも遠からずか
小島道裕さんから興味深い話しを聞く。11月が楽しみである
しばらくの間、東京へ来る機会があったら隅田川沿いに泊まろうと思う

2007年9月 1日 (土)

後醍醐の微笑み

その日は天気予報では午後から降水確率が下がると言っているが
衛星写真で見た雲の動きは、これから悪くなっても、けっして良くはならないように見え、わずかに午後の数時間は雲が切れるかも、という感じだった

午前中に東大阪で落雷と大雨が降ったと聞き、早く通り過ぎてくれたら良いがと思っていたら
近鉄奈良駅前でMさんとTくんを拾う直前には天理方面に落ちる雷と土砂降りの雨
これはもう後醍醐の怒りかと
そう言えば北野社の縁起にかかわり、道真の怒りとして内裏に落雷があったエピソードを聞くが、あれは『口遊』にあるように、大極殿が平安京でも飛び抜けて高い建物だったからだろうかと、つまらないことが頭をよぎる

けれども大柳生を過ぎる頃から薄日が射しはじめ
現場に着いた時にはすっかり好天
(その後、MさんとTくんとおこなった3次元レーザースキャンとKさんにお願いした地中探査の作業が終わる17時まで結局雨は降らなかった)
後醍醐は怒っていなかったかと、今日のこれからの時間に対し、ほっと胸を撫で下ろす

今年の夏もあれこれ駆け回っている内に過ぎていった
前半は善光寺にからむさまざまな出来事があり
後半は笠置のお山
そして今日からは鎌倉についてやり残している仕事に取り組まなければならない
いずれも世界遺産級の遺跡と地域ばかりで、おろそかにできるところではない
そう思い、いつものことではあるが、あたふたしている日々を納得させる

今朝(8月31日)の京都新聞に載っているように
笠置山で14世紀にさかのぼる城塞遺構が発見された
よりリアルに言えば、後醍醐による元弘の変で焼失した火災層とそれに覆われた立派な僧房と関連施設および伽藍の構造が明らかになったと言える

場所は現在の笠置山の中心部から南に位置する六角堂のさらにその南
現在の笠置の風景は、JR駅のある木津川からの眺めが一般的で
実際に表参道も北にある
しかしこの道はとても大変な山登りで、それほどの高低差が無く笠置山の中心部にアプローチできるのは南の柳生からのルート
調査地点の場所は、この柳生から笠置に入る正面にあたる場所
一昨年の試掘調査でその一部が確認されていたが、今回の本調査で鞍部に造成された大規模な伽藍の様子を知る重要な資料が出現したことになる

以下、私見を交えながらその様子を見ていきたい
今回発見された遺構は、鞍部に複数の平坦面を造成して築かれた僧房伽藍
その山際には岩盤を削りだし、また平石を積んだ護岸がされ、幅50㎝ほどの間隔を空けて、角石で護岸し、上面をきれいな山土で叩き締めたカマボコ状の高まりが並行してめぐる
この僧房伽藍は鞍部に立地しているため、降雨時には両側の尾根から大量の雨水が流れ込む。この遺構はそのために設けられた排水路と言って良いだろう
(なお、石組の水路は鞍部の東端を南へのびるが、カマボコ状の高まりは途中で南へ折れ曲がる。これは、元々鞍部の南端まであった伽藍が、元弘の変の後の再築の際に規模を縮小したことを示すのだろうか)

建物はこの水路の内側で、現在も残る階段状の地形にあわせて築かれている
なかでもひとつのトレンチからは一辺が30~40㎝の石を並べた縁石や礎石もみつかり
一部には火を受けた痕跡も見える
大坂城下町で言えば大名屋敷クラスと言って良いだろう
そしてその上を厚い焼け土が覆っているのである
出土遺物からその年代が元弘の変にともなう可能性が高いという

またこれらの僧房伽藍の南には幅5mほどの壕が設けられ
笠置中心部に続く北にも岩盤を削りだした壕が設けられている

これまで太平記などに描かれている笠置山の攻防は
主に現在の表参道にあたる山の北側を中心に注目され
岩を削り壕を掘りというその描写も、現在も見ることのできる北の岩肌の風景からうかがわれてきた
もちろんそれも間違いではない
しかるに先に触れたように、高低差が少なく笠置の中心部にアプローチできるのは南の柳生からのルートであり、今回の調査地点はまさにその正面玄関にあたっている
そんな場所から、まさに岩を削ってつくられた壕が現れ、焼け落ちた建物の跡が現れたのである
太平記の記述をそのまま現した姿と言ってもけっして大袈裟ではないだろう
今回の調査の大きな成果のひとつはここにある

もうひとつ、前回の調査と合わせて注目されることがある
それは14世紀代という時期とこれらの遺構群の関係である
こういった山上の城塞施設は戦国時代になれば日本列島の各地で普通に見ることのできるものである
しかし14世紀代は極めて稀
数年間の鎌倉極楽寺のシンポジウムでも注目された一升枡と五合升も同様であるが
こういった風景は一般には戦国期とみられるのが普通
そしてその前代の鎌倉時代終わりから南北朝期についてはよくわからない状況が続いていたのである
しかしその一方で、とくに後醍醐については山上や山中を拠点とする記録が伝わっており14世紀代における山上の城塞施設についても検討しなければならない課題はあった

今回の調査は、その意味で、戦国時代に一般化する山上の城塞施設の出現に関わる問題としても重要な意味を持っていると思う
それではそれはどんな意味か
手がかりを整理しておきたい
まず今回発見された伽藍は、なぜ、雨が降ると大変なことにある鞍部に築かれたのか
実は戦国の山上の城塞施設には大きくふたつの流れがある
ひとつは純粋な戦国大名によったもので、もうひとつは山岳系寺院が姿を変えたもの
前者が一般的な山城で、後者は平泉寺や根来寺など
これらのふたつの流れにはその景観についても大きな違いがあって
前者が尾根開発型、後者が谷開発+尾根開発型だと考えている
(しばしば重複した最終景観を残すのでわかりにくいところもあるが)

この違いが何に起因するかというと、後者の場合
実は、古代中世の山岳寺院の基本的な風景が鞍部(谷部)開発型なのである
あまり多くの例をあげることはできないが、笠置に近い和束町の金胎寺、宮津の成相寺、近江の敏満寺石仏谷地点、おそらく大山寺も、そして基本的な景観は国東の寺院群も

一方笠置にもどれば、奈良時代にさかのぼる磨崖仏に代表されるように
この山は畿内でも有名な、古代以来の正統な山岳宗教寺院である
よって、今回みつかった僧房伽藍が鞍部にあることはいたって自然な姿だと言うことになる
したがって、今回の調査でみつかった鞍部の伽藍は後醍醐の時期をさかのぼって貞慶かそれ以前を起源とする可能性もある
その意味でこの鞍部だけの発見ならば、中世の山岳寺院の類例のひとつとして評価されることにとどまったかもしれない
(もちろんそれでも後醍醐という時代を変えた人物に関わっていることの重要性がそれに大きな意味を与えるが)

しかるに笠置の場合はそれだけでは無かった
一昨年の調査では、この鞍部を見下ろす東西の尾根にも平坦面が造成されていることがわかり、その一部は14世紀にさかのぼることもわかった
さらにこのエリアの南と北を壕が区切り明らかに城塞施設となっているのである
谷部と尾根部の両方を造成し、さらに防御施設を設けたもの
まさに平泉寺や根来寺の先駆形態である
こういった例はこの時期では他に無いと思う
(あるとすれば船上山か)

想像ではあるが
後醍醐が入る前、南都や醍醐寺との関係で貞慶によって拡充された笠置山の一部として鞍部の僧房伽藍があったが
後醍醐が入ったことによって、城塞化をすすめる必要が生まれ
その結果、尾根状の開発と壕の掘削がおこなわれたのではないだろうか
網野善彦さんの『異形の王権』で知られるように
なにより一番個性の強かったのが後醍醐であるが
彼の周辺には北条氏に対抗する従来からの武士に加えて
名和長年や楠正成のような海商や悪党や僧兵などを前身とする多彩な能力をあわせもった武士が集まっており
笠置の城塞化も、そういった人々によっておこなわれたと考えれば
うまく理解できるのではないだろうか
また出土している中国陶磁器の様子もそれを物語っていると考える

名和町を歩いた時にも感じたことだが、後醍醐は情報の収集と運用に優れた人物だったと思う
村上源氏につながる醍醐寺と南都と関係において、後醍醐にとっての笠置は、畿内で最も情報のネットワークの中枢にふさわしい場所だったのではないだろうか

とは言え笠置はひろい
谷を隔てた東の尾根を含めて未調査の地区は多く残されている
その全容の解明はまだ先の話

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