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2007年9月10日 (月)

嵯峨野のもうひとつの風景

楽洛キャンパスで2回の講義と1回のフィールドワークをおこなう
1回目は4日に「嵯峨野のもうひとつの風景」、2回目の7日は「京中城有」でフィールドワークは「聚楽第を探せ」

嵯峨野については、2000年からおこなっている、文化史特論の「遺跡が語る京都の歴史」の中で、嵯峨天皇を調べていった時に、これまでと違う嵯峨野を見えた気がして、なんとか調べ直してみたかったテーマ
聚楽第についても、この数年聚楽第の復原案がいくつかだされたものに対して勉強しないといけないと思ったことから

この数年の文化史特論でも強調しているが、平安京の実質的な、あるいは本格的な整備をした天皇は嵯峨天皇であると思う
その嵯峨天皇がなにゆえに嵯峨野にこだわったのかについては授業での話になるが
そのひとつの手がかりに中村直勝さんの見方があることは間違い無いと考えている
その点で嵯峨野は現在の人気スポットである魅力とは別の魅力をもっていたことになる
ただこの魅力は嵯峨天皇が無くなるとまもなく力が失われた

そんな嵯峨野に再びこだわったのが鎌倉時代の後嵯峨上皇である
彼は亀山殿を築き、その系統のひとつは大覚寺に御所もおいた
その亀山殿がその後足利義満によって天竜寺となった
ゆえ、ここにも現在の人気スポットである嵯峨野の魅力とまた違った魅力が嵯峨野にあったことになる

それでは後嵯峨とその皇統は、なぜ嵯峨野にこだわったのだろうか
嵯峨野とはいったいどんな場所だったのだろうか
というのが、今回の授業のテーマである
少しだけタネを明かせば
嵯峨と後嵯峨が築いた嵯峨院の跡と亀山殿の跡に共通するあるものに注目することになるのだが

今回、聚楽第の痕跡を探すために、かなり研究史にこだわってみた
名倉希言という謎の人物については調べ尽くせなかったが
京都坊目誌をつくった碓井小三郎には、平凡社の歴史地名大系を通じてとてもお世話になった
調べることはまだまだたくさんある

そんなことを思い出しながら『徒然草』に目を通していたら、地名辞典にも引用されていたが、第207段以外にも第51段に亀山殿についてのエピソードがあった
「亀山殿の御池に大井川の水をまかせられむとて、大井の土民に仰せて、水車をつくらせられけり。多くのあしを賜ひて、数日にいとなみ出だしてかけたりけるに、大方めぐらざりければ、とかくなほしけれども、遂にまはらで、いたづらに立てりけり。さて、宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかにゆひて参らせたりけるが、思ふようにめぐりて、水を汲み入るることめでたかりけり。
 萬にその道を知れる者は、やんごとなきものなり」

亀山殿の池に大井川の水をひくために、大井の村人に金を払って水車を作らせたが、廻らない。そこで宇治の村人を呼んで直してもらったら、すぐに廻るようになって、池に水が入ったという

ポイントは池の造営にあたり水車で水をひく地形だったこと
有償で、職人ではなく地元民が水車をつくったこと
しかし、水車つくりの技は宇治の村人が秀でていてしかも有名だったこと
亀山殿の近くには芹川もあるのに水車で大堰川の水をひいたのか
宇治の村人が水車造りで有名だったのはなぜなのだろうか

ちなみにこの段の後が有名な仁和寺の僧の石清水参詣逸話である

さらに蛇足であるが、第207段は亀山殿を造成するときに、大きな蛇がたくさん出てきて
さて、どうしようと皆で相談していると
実基の大臣が心配ないから掘り捨てるようにと言い、祟りも無かったという話

この実基が誰かというと、さらにその前段の206に
徳大寺公孝が検非違使長官の時に、牛が役所に入って長官の座で反芻して横になっているので、なにかの前兆かとおろおろしていたら、父の太政大臣が「偶然のできごとに驚くな」と一喝
ことなきを得たという話があって
角川文庫では徳大寺公孝の父の徳大寺実基だとしている
合理的で剛胆な性格で頼もしい人物ともみえる

さて、この徳大寺実基であるが
岩波の日本史事典によれば、1201から1273の生没で、父は右大臣公継。院評定衆として後嵯峨院政を支え、徳大寺家で初めて太政大臣に登ったという。
実はこの徳大寺家、その祖は実能で、屋敷は衣笠。実能の妹の璋子は鳥羽天皇の中宮となって崇徳と後白河天皇を生み、兄の通季が西園寺家の祖となっている。
亀山殿の造営の代表は西園寺公経の子の洞院実雄がとっていることは古今著聞集に載っている
よって亀山殿は、いわば西園寺家とその眷属の総掛かりによるものだったということになる

しらべることは、いたるところに、まだまだたくさん眠っている

川崎保編『信濃国の考古学』雄山閣2007
原明芳2007「平安時代の集落変遷と「武士」の登場」『長野県考古学会誌』121

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