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2007年9月 1日 (土)

後醍醐の微笑み

その日は天気予報では午後から降水確率が下がると言っているが
衛星写真で見た雲の動きは、これから悪くなっても、けっして良くはならないように見え、わずかに午後の数時間は雲が切れるかも、という感じだった

午前中に東大阪で落雷と大雨が降ったと聞き、早く通り過ぎてくれたら良いがと思っていたら
近鉄奈良駅前でMさんとTくんを拾う直前には天理方面に落ちる雷と土砂降りの雨
これはもう後醍醐の怒りかと
そう言えば北野社の縁起にかかわり、道真の怒りとして内裏に落雷があったエピソードを聞くが、あれは『口遊』にあるように、大極殿が平安京でも飛び抜けて高い建物だったからだろうかと、つまらないことが頭をよぎる

けれども大柳生を過ぎる頃から薄日が射しはじめ
現場に着いた時にはすっかり好天
(その後、MさんとTくんとおこなった3次元レーザースキャンとKさんにお願いした地中探査の作業が終わる17時まで結局雨は降らなかった)
後醍醐は怒っていなかったかと、今日のこれからの時間に対し、ほっと胸を撫で下ろす

今年の夏もあれこれ駆け回っている内に過ぎていった
前半は善光寺にからむさまざまな出来事があり
後半は笠置のお山
そして今日からは鎌倉についてやり残している仕事に取り組まなければならない
いずれも世界遺産級の遺跡と地域ばかりで、おろそかにできるところではない
そう思い、いつものことではあるが、あたふたしている日々を納得させる

今朝(8月31日)の京都新聞に載っているように
笠置山で14世紀にさかのぼる城塞遺構が発見された
よりリアルに言えば、後醍醐による元弘の変で焼失した火災層とそれに覆われた立派な僧房と関連施設および伽藍の構造が明らかになったと言える

場所は現在の笠置山の中心部から南に位置する六角堂のさらにその南
現在の笠置の風景は、JR駅のある木津川からの眺めが一般的で
実際に表参道も北にある
しかしこの道はとても大変な山登りで、それほどの高低差が無く笠置山の中心部にアプローチできるのは南の柳生からのルート
調査地点の場所は、この柳生から笠置に入る正面にあたる場所
一昨年の試掘調査でその一部が確認されていたが、今回の本調査で鞍部に造成された大規模な伽藍の様子を知る重要な資料が出現したことになる

以下、私見を交えながらその様子を見ていきたい
今回発見された遺構は、鞍部に複数の平坦面を造成して築かれた僧房伽藍
その山際には岩盤を削りだし、また平石を積んだ護岸がされ、幅50㎝ほどの間隔を空けて、角石で護岸し、上面をきれいな山土で叩き締めたカマボコ状の高まりが並行してめぐる
この僧房伽藍は鞍部に立地しているため、降雨時には両側の尾根から大量の雨水が流れ込む。この遺構はそのために設けられた排水路と言って良いだろう
(なお、石組の水路は鞍部の東端を南へのびるが、カマボコ状の高まりは途中で南へ折れ曲がる。これは、元々鞍部の南端まであった伽藍が、元弘の変の後の再築の際に規模を縮小したことを示すのだろうか)

建物はこの水路の内側で、現在も残る階段状の地形にあわせて築かれている
なかでもひとつのトレンチからは一辺が30~40㎝の石を並べた縁石や礎石もみつかり
一部には火を受けた痕跡も見える
大坂城下町で言えば大名屋敷クラスと言って良いだろう
そしてその上を厚い焼け土が覆っているのである
出土遺物からその年代が元弘の変にともなう可能性が高いという

またこれらの僧房伽藍の南には幅5mほどの壕が設けられ
笠置中心部に続く北にも岩盤を削りだした壕が設けられている

これまで太平記などに描かれている笠置山の攻防は
主に現在の表参道にあたる山の北側を中心に注目され
岩を削り壕を掘りというその描写も、現在も見ることのできる北の岩肌の風景からうかがわれてきた
もちろんそれも間違いではない
しかるに先に触れたように、高低差が少なく笠置の中心部にアプローチできるのは南の柳生からのルートであり、今回の調査地点はまさにその正面玄関にあたっている
そんな場所から、まさに岩を削ってつくられた壕が現れ、焼け落ちた建物の跡が現れたのである
太平記の記述をそのまま現した姿と言ってもけっして大袈裟ではないだろう
今回の調査の大きな成果のひとつはここにある

もうひとつ、前回の調査と合わせて注目されることがある
それは14世紀代という時期とこれらの遺構群の関係である
こういった山上の城塞施設は戦国時代になれば日本列島の各地で普通に見ることのできるものである
しかし14世紀代は極めて稀
数年間の鎌倉極楽寺のシンポジウムでも注目された一升枡と五合升も同様であるが
こういった風景は一般には戦国期とみられるのが普通
そしてその前代の鎌倉時代終わりから南北朝期についてはよくわからない状況が続いていたのである
しかしその一方で、とくに後醍醐については山上や山中を拠点とする記録が伝わっており14世紀代における山上の城塞施設についても検討しなければならない課題はあった

今回の調査は、その意味で、戦国時代に一般化する山上の城塞施設の出現に関わる問題としても重要な意味を持っていると思う
それではそれはどんな意味か
手がかりを整理しておきたい
まず今回発見された伽藍は、なぜ、雨が降ると大変なことにある鞍部に築かれたのか
実は戦国の山上の城塞施設には大きくふたつの流れがある
ひとつは純粋な戦国大名によったもので、もうひとつは山岳系寺院が姿を変えたもの
前者が一般的な山城で、後者は平泉寺や根来寺など
これらのふたつの流れにはその景観についても大きな違いがあって
前者が尾根開発型、後者が谷開発+尾根開発型だと考えている
(しばしば重複した最終景観を残すのでわかりにくいところもあるが)

この違いが何に起因するかというと、後者の場合
実は、古代中世の山岳寺院の基本的な風景が鞍部(谷部)開発型なのである
あまり多くの例をあげることはできないが、笠置に近い和束町の金胎寺、宮津の成相寺、近江の敏満寺石仏谷地点、おそらく大山寺も、そして基本的な景観は国東の寺院群も

一方笠置にもどれば、奈良時代にさかのぼる磨崖仏に代表されるように
この山は畿内でも有名な、古代以来の正統な山岳宗教寺院である
よって、今回みつかった僧房伽藍が鞍部にあることはいたって自然な姿だと言うことになる
したがって、今回の調査でみつかった鞍部の伽藍は後醍醐の時期をさかのぼって貞慶かそれ以前を起源とする可能性もある
その意味でこの鞍部だけの発見ならば、中世の山岳寺院の類例のひとつとして評価されることにとどまったかもしれない
(もちろんそれでも後醍醐という時代を変えた人物に関わっていることの重要性がそれに大きな意味を与えるが)

しかるに笠置の場合はそれだけでは無かった
一昨年の調査では、この鞍部を見下ろす東西の尾根にも平坦面が造成されていることがわかり、その一部は14世紀にさかのぼることもわかった
さらにこのエリアの南と北を壕が区切り明らかに城塞施設となっているのである
谷部と尾根部の両方を造成し、さらに防御施設を設けたもの
まさに平泉寺や根来寺の先駆形態である
こういった例はこの時期では他に無いと思う
(あるとすれば船上山か)

想像ではあるが
後醍醐が入る前、南都や醍醐寺との関係で貞慶によって拡充された笠置山の一部として鞍部の僧房伽藍があったが
後醍醐が入ったことによって、城塞化をすすめる必要が生まれ
その結果、尾根状の開発と壕の掘削がおこなわれたのではないだろうか
網野善彦さんの『異形の王権』で知られるように
なにより一番個性の強かったのが後醍醐であるが
彼の周辺には北条氏に対抗する従来からの武士に加えて
名和長年や楠正成のような海商や悪党や僧兵などを前身とする多彩な能力をあわせもった武士が集まっており
笠置の城塞化も、そういった人々によっておこなわれたと考えれば
うまく理解できるのではないだろうか
また出土している中国陶磁器の様子もそれを物語っていると考える

名和町を歩いた時にも感じたことだが、後醍醐は情報の収集と運用に優れた人物だったと思う
村上源氏につながる醍醐寺と南都と関係において、後醍醐にとっての笠置は、畿内で最も情報のネットワークの中枢にふさわしい場所だったのではないだろうか

とは言え笠置はひろい
谷を隔てた東の尾根を含めて未調査の地区は多く残されている
その全容の解明はまだ先の話

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