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2007年9月 2日 (日)

開発と災害の研究会

関西から東海にかけての不安定な天気を感じながら
あらためて昨日(8月30日)は良く晴れたなものだと思う
五味文彦さんの『藤原定家の時代』を読みながら
新横浜から根岸線まわりで大船へ出て鎌倉の駅に降りると
曇天ながらもう少しで肌寒いと感じる直前の気候

鎌倉の遺跡と初めて関わったのはまだ80年代の初めだから
もうずいぶん長くなると思ってはいたが
こうして調査地点データベースを整備していると
あらためて鎌倉という町と遺跡のすごさを実感し
笹目遺跡の埋納遺構から青銅製の銚子がでていること初めとして
(富山と博多で出ていたように記憶しているが)
これまで、そのほんの一部しか知らなかったことを今更ながら思い知る

若宮大路を中心に、東は名越、南は大町と由比ヶ浜、西は長谷小路に広がる遺跡群
難解な地番に右往左往しながら、ジョージ・スマイリーの様に過去の記録をたどる
膨大な情報を目の前にして、なにをどのように料理したら
その本質をつかまえることができるのか
そもそもその本質とはなんなのか
思いの外しっかりできていた鎌倉の調査地点マップに自分で作りながら自分で感嘆しながら
頭の中にリアル資料を思い浮かべつつ報告書の文字と図面に目を走らせ、考えを巡らせる

マクロ的に見たときの方形竪穴の分布と鎌倉の都市の関係が従来言われているように前浜を中心としたものであることは違いないのだが
そうでもない事例もそこそこありそうだとか
こんなに木製品の人形が出ていたのかとか
やはり石鍋の密集度は鎌倉が一番だとか
たまたま連続して鶴岡八幡宮のちかくの調査地点を連続してみていたからだろうか
中国製の高級品がいたるところで目に入る
いや入りすぎるほど

9月1日は第14回の中世都市研究会が東京大学でひらかれる
テーマは「開発と災害」

最初は落合義明さんの「中世武蔵国における宿の形成」
鎌倉街道上道と入間川の交差地点をめぐる宿の形成とその背景について
街道と宿の設計と造営と維持について、その公権力と地域権力の関係についてが話題となったが
個人的には、この道の先につづく信濃の善光寺に思いが飛ぶ

先月に善光寺門前に歩きながら、1707年に現在の姿になった善光寺のそれ以前の風景を模索したが
もし、その姿が一遍聖絵の風景に一致していて
この3月の調査でみつかった古代の瓦を包含している層が
平安時代の善光寺が治承3年に焼けた後に
頼朝が復興したときの造成盛り土だとすれば
頼朝は善光寺の復興に際して本堂の南を拡張したかったことになる
それが何のためかと言えば、絵に従えば塔ということになる
ということは、平安時代の善光寺には塔は無かったことになるのだろうか
さらに想像をたくましくすれば、斜面地を造成して伽藍を拡充する手法は鎌倉的と言えるのだろうか

二人目は垣内光次郎さんの「中世北陸の港町と災害」
有名な普正寺遺跡や寺家遺跡や道下元町遺跡など
個人的には報告で少し紹介された気多大社の門前の遺跡に関心をもった
北陸も長いこと訪れていないので行ってみたいと思いながら
それにしても垣内さんと同い年とは思わなかった

三人目は福原圭一さんの「『越後国郡絵図』にみる河川・潟・橋と町」
絵図資料のもっている膨大なデータとその解釈について
臨場感あふれる報告ではあったが、なにぶん土地勘が乏しいため
それを頭の中で再構成して理解するのに一苦労
伊藤正義さんがコメントした絵画資料の背後にある意図についての見方が新鮮だった

四人目は山村亜紀さんの清水を題材にした「中近世移行期における都市景観と自然地形」
地理情報から道と街並みを再現した鮮やかな説明
個人的には、20年近く前におこなっていた大坂城下町の調査を思い出す
山村さんの図2も南北を入れ替えれば、上町台地の西端をはしる熊野街道とその北端におかれた渡辺津の関係にそっくり
さらに1598年の三の丸築造を境に、自然地形に従った街並みから人工的な街並みに姿を変える秀吉から秀頼時代の大坂の風景とも瓜二つ
小島道裕さんがコメントしていたが、慶長期の政権権力がもっていた全国的規模の都市に対する意図のようなものを感じたが
会場からの質問にもあったように、開発というものを公権力からの一方通行としてみているだけではなく、大坂城下町でも船場の開発にあわせて道頓が運河をひらくなど、官民一体でのあらたな都市作りがあったことも視野にいれておかなければならないだろうが
さらに大坂の場合は、その背景に慶長伏見の大地震があって、秀吉時代の大坂城下の外港だった堺が機能を停止し、大坂城下の港が船場の先に変更される出来事もあった
都市にとって避けられない災害と開発
上町台地の変遷をこのキーワードでもう一度見直すことも有効だろう

五人目は佐藤亜聖さんの「中世都市奈良と火災」
治承3年の南都焼き討ちについて
佐藤さんらしい精緻な検討によって、その焼亡範囲への疑問が投げかけられた
さまざまな手法で検討されているのでおそらくその結論は正しいと思う
しかし、それに対する安田先生の疑問もうなずけるもの
おもわず発言してしまったが、京都でも応仁の乱による家屋の焼失跡と皆が認める焼土層が見つかっていない。江戸時代以降の記録に残る焼土層はどこでも見つかるのだが、いったいなぜなのだろうか。
確かに、京都の中心部でみつかるのは16世紀末以降の遺構がほとんどで、それ以前の遺構は削平されたと思われ、あまり見つからないということもある
それにしても本調査・試掘調査・立会調査など膨大な数の調査が行われてきた中で、それだと比較的地震をもって言えるものが全くないというのはなぜなのだろうか

見つかっているけれど見えていないだけだとする見方もある
ただ、笠置の「城」のように、元弘の変の可能性の高いしっかりした焼土層もある
討論の時に、藤木久志さんが言っていたように文献も考古も、これまでの資料の読み方や見方を見直すきっかけになるだろうか

6人目は高橋慎一朗さんの「鎌倉幕府と災害」
見事な鎌倉の災害史データベースである」
先月の善光寺門前での踏査でも聞いたが、若宮大路の側溝は幅員が3mあるという
そんなと思ったが先日その資料をみて唖然
なるほど、もう溝ではなく川であると
数年前の夕立で烏丸今出川が水没したことを思い出す
そう言えば今出川も氾濫した記事があった
都市とは住みやすく整備すればするほどさまざまな災害と向き合うことになると
高橋さんの弁

7人目は早島大祐さんの「応仁の乱への道」
藤木さんの応仁の乱の背景としての社会史的な環境
とくに飢饉などの要因の問題提起に、足軽や牢人の存在を重ねる
思わず司馬遼太郎の『妖怪』を思いだし
なるほど足軽が跳梁した時代の背景にはこういった状況があったのかと思う
個人的には、足軽や牢人たちが住まいとしていたのが六条以南であり
油小路以東で六条以北が京の中心だったという報告にうなづく
以前に京都駅前の調査を整理したときに南北朝以降は六条以南が墓地などの京の周縁になるといたがそれと一致し
後に洛中洛外図に描かれる上京と下京の範囲にも対応する
ただし応仁の乱の時は一条大宮あたりも町家と武家屋敷があったことになるので
西の範囲は油小路よりひろがるとは思うが

内容の深いテーマと多彩なコンテンツを前にして
とくに詳細な地名や人物や位置関係をふまえた報告が多いので
メインテーマに即して個々の報告をどう位置付けたらいいか
頭の中を整理するのが大変
コメントを求められた際に、感想を言うことしかできなかったがそれもやむをえまい
しかし遺跡を歴史の中に読み込むためにはこういった研究が重要なわけで
その意味でもとても良い研究会だったと思う
総合学としての歴史研究の紹介として、いずれ大学院や学部でかみくだいで説明してみたい

去年あたりから東京東部を意識して蔵前に泊まる
屋形船の浮かぶ隅田川を見るために厩橋まで歩き大江戸線の蔵前駅まで戻ろうとして
ロンドンブリッジからシティ中心部を見たときのイメージが交錯する
蔵前は江戸の経済を支えた札差が拠点とした所というから
このイメージはあたらずとも遠からずか
小島道裕さんから興味深い話しを聞く。11月が楽しみである
しばらくの間、東京へ来る機会があったら隅田川沿いに泊まろうと思う

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