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2007年10月

2007年10月27日 (土)

主張する博多

19時35分ののぞみに乗って伊勢丹で買ったおこわ弁当を食べながら
淀と鳥羽の文章をチェックしていたら窓の外は徳山
そうでなくてもトンネルの多い山陽新幹線の夜は、どこが山やら海やら

博多駅はあちこちが工事現場
博多は先週来たばかり
ただし先週はすぐに佐世保へ向かったので街に降りたのは久しぶり
まったく個人的なことだが
博多駅に降りるとチューリップの曲が頭に浮かんでしまう
それもあの哀愁漂う「博多っ子純情」のメロディ
ついでに
さっき久しぶりに会った懐かしい博多男の顔も浮かぶ
東京の生活にも慣れたようで落ち着きが戻っていた

山国生まれなのに、山国生まれだからだろうか
港町が好きで、なかでも博多の街はとても懐かしい気持ちになるところ
学生時代は、博多や大宰府の資料を見るために何度も瀬戸内海を渡った
それを思い出し
ラーメンを食べたいなあと思いながら
週末ということもあってまだまだ人通りが多い23時前の博多駅前を出る
明日は朝から天神で会議
ラーメンはそれからということで

2007年10月21日 (日)

石清尾八幡宮

現在の天竜寺と重なる後嵯峨上皇の亀山殿の名前の由来は
対岸の法輪寺あたりから見た後の山の形が
横から見た亀のシルエットに似ていることによる
したがって、その時の視点は桂川の右岸にあったことになる
その前の時代にあたる後白河院の『梁塵秘抄』に登場する嵯峨野は
霊験所としての法輪寺や遊興の場としての桂川だったので
当時の人々の感覚として、常識的な視点だったのだろう
これは『洛中洛外図』を見るときも必要な見方

20日と21日は
香川県立歴史博物館で
現在の高松城の前の時代の地名である
「野原」をめぐる港町のシンポジウムが開催された

昨日遅く着いたので、初日は参加できなかったが
2日目に参加するためにホテルから会場へ向かう
高松はアーケード街が有名で、会場までのルートもそれをとる
日曜でまだ朝が早く、多くの店は開いておらず人も少ない
のんきにあたりを見回しながら歩いていて思わず立ち止まる
石清尾八幡宮の大きな文字と船の形をした山車のポスター
昨日と今日はその祭りとのこと
この一週間ほど、石清水八幡宮のところで筆が停まっているが
「船かあ、これは、大変だなあ」と思いながら通り過ぎる

今回のシンポジウムは、四国村落遺跡研究会の主催である
この研究会は
遺跡から離れた遺物だけの検討にとどまるのではなく
場所にこだわり、現地を歩き、風景や景観を気にして
もちろん遺跡以外の歴史情報もできるかぎりとりこんで
臨場感あふれる歴史の再現と叙述をめざす
そんな理想的な研究会で
そのひとつの段階のまとめのシンポジウムである

日頃、現場や業務に追われながら
熱心に研究と調整をすすめた関係各位の努力は
ぜひ学生君たちの学びの姿勢につなげたいと思う

古代以来の地理条件を整理し、遺跡情報をまとめ
文献史料とつきあわせ、さらに今の風景との対応を考える
港町や都市といった「言葉」にとらわれず
思いこみを冷静に相対化して
ニュートラルにデータの関連を整理し
それが示すものが何であるかと考える
これも理想的な学問の進め方で
学生君たちに学んでほしい姿

そんないくつもの報告の中で
石清尾八幡宮の存在と瓦器碗の関係についての報告があり
おもわずうなってしまった
高松平野が終わる南西山麓ちかくの低い尾根の麓に
石清水八幡宮から勧請された石清尾八幡宮があり
かつて、と言っても12世紀とか15世紀の頃
その東を川が流れて、それがそのまま海に出て
そこに荷揚げの港があったという
石清尾八幡宮はそのバックの存在で、和泉型の瓦器碗が多いのはその関係ではないかという

今年の4月に広島県立歴史博物館でも話をしたように
以前から、西日本の土器碗の流行には石清水八幡宮がかかわっており
摂河泉の瓦器碗と北部九州の瓦器碗がその象徴だと考えている
今回の報告は、まさにそれを支持するもので心強く思った
ただ、地元の人にとってはあまりに有名な事実関係だっただろうが
うかつにも石清尾八幡宮のことは知らなかった

思わず、今朝見た大きな祭りのポスターが頭をよぎる
たまらず、予定を変更して帰りに石清尾八幡宮へ向かう
瓦町から南西へ1キロ足らず
鳥居からまっすぐ西へ向かう参道は、途中から祭りで歩行者天国になっていて
いくつもの山車が宮から帰ってくる
遠くに鳥居と尾根が見える
あたかも石清水のように
鳥居をくぐりアーチの石橋を渡ると、その下をよどんでいるのが、かつての川の跡で
放生川にあたるのだろうか
祭りでにぎわう境内を探索した後
小蛸がまるまる入っているたこ焼きを、勢いで一船買って
昔の川に沿って北西にまわる
背後の山は岩山のようで、岩盤が露出している
川は途中から北へ向かい、現代の町並みの中に姿を消す
さあ帰ろうか、とそのまましばらく北へ歩くとその先が市の歴史資料館
残念ながら時間が無いので左へ折れて昭和町からJRに乗る
単線でホームは無人
列車は1時間に2本で、今はちょうど2分前
やれやれと思って石清尾八幡宮のある南をみると、そこに亀がいた

石清尾八幡宮は、亀ノ尾山の山裾の赤塔山の上に鎮座している
石清尾の名前は、この亀ノ尾と石清水が一緒になったものだという
まわりにも亀にちなむ地名があるという
ただ、境内を探索したときに、どこが亀の山かと探したがわからなかった
鳥居のむこうに見えた姿がそうだったかもしれないが
亀は海から見た時の姿だったと思った
今回のシンポジウムの中で、石清尾八幡宮の役割は皆認めるが
なぜここなのかは、古代史の闇に紛れていた
瀬戸内海と海上交通と石清水だと、亀を見て思った

亀は神仙思想の象徴である
日本列島におけるその起源は古墳時代前期にさかのぼるが
明確な定着は7世紀で、ひろく浸透を始めるのが平安時代後期である
丹後がそのイメージをもたれたのが何時かはわからないが
鳥羽殿建設を描写した『扶桑略記』にはその表現がみえる
和鏡のデザインもしかり
鎌倉時代には東海が蓬莱に近い場所とイメージされる
鳥羽殿の造営は11世紀後半で、実はその時期が石清水八幡宮の発展期なのである

一昨日いた、佐世保を代表する神社が亀山八幡宮だった
やはり行っておくべきだった
くやしいけれど、また行く理由ができた
遺跡は見るもの歩くもの
そして歴史はその時代の人間になりきるもの

本郷和人2007『武士から王へ』ちくま新書
鈴木康之2007『中世瀬戸内の港町』新泉社

2007年10月20日 (土)

善光寺仁王門西元善町遺跡探索

共同通信の配信記事によると
善光寺の仁王門東に位置する元善町遺跡の調査で、鎌倉時代にさかのぼる造成の跡を確認したという、長野市教育委員会文化財課の埋蔵文化財センターの発表がありました

みつかった遺構は、調査区の南側で、直径60~90センチの自然石を数段積んだものと、その北側の締め固められた盛土で
写真を見ると、石の大きさや形は不揃いだが、南に面をもち、東西を軸としています
盛土の高さは1mほどでしょうか
また、盛土の上面には、礎石と思われる直径60センチほどの平石もおかれ、規模や構造はわかりませんが、建物がたっていたことも考えられます。

出土遺物は、盛土内から多量の瓦片と共に数点の軒丸と軒平瓦がみつかり、その特徴から平安時代後期から鎌倉時代のものと考えられています。
また、盛土内には焼けた跡の土もあり、その中から漆喰の残る壁の破片や素焼きの土器の破片などもみつかっています。

昨年の3月に鎌倉時代のV字溝に出会って以来、これまで何度も善光寺について考えてきましたが、今年の3月には7世紀にさかのぼる可能性のある「湖東式」の軒丸瓦がみつかり、今回は再び鎌倉時代の遺構と遺物がみつかりました。
善光寺の歴史は、一般に『扶桑略記』に代表される古代の姿が有名ですが、源頼朝や名越朝時の復興と修造および藤原定家の信濃経営に代表される中世の姿もまた重要です。
あるいは、現在の善光寺の直接の源流を語るのであれば、後者の中世の善光寺にまつわるエピソードがもっと注目されて良いと思います。
その点でこの1年は、この善光寺の歴史に関わる重要な遺跡の発見がたてつづきにあったという、なにかとても衝撃的な1年だったように思います

遺跡の情報というものは、基本的に本来あったものの断片なので、常に慎重に総合化を心がけながら考えていかないといけないのですが
みつかった断片から仮説を組み立てていくことも必要なことなので、今回の調査の結果について、少しだけ想像を働かせてみたいと思います

まず最初の想像は、この造成の意味です
見つかっている遺物の時期が平安時代後期から鎌倉時代ですので
この造成は、それらの遺物の時期の後におこなわれたことになります
また鎌倉時代より新しい時期の遺物が見つかっていないので
この造成の時期もそれより新しくならないことになります
それから、盛土に焼け土があって、漆喰の付いた壁の破片があって、軒瓦があるので
この造成の前に、瓦を葺いた建築物があって、それが焼けたことがわかります
そして、この造成はその建物の建て替えによるものと考えられます
そこでこの時期に関わる記録をみれば、有名な頼朝の復興や名越朝時の修造供養があります
今の時点で、そのどちらかを特定することはできませんが
鎌倉幕府が力を入れた善光寺造営にかかわるものと考えて良いのではと思います
一遍上人絵伝に描かれた善光寺の姿は、これ以降のものになります
それから、善光寺の屋根の歴史は
湖東式や川原寺系など→巴文→檜皮葺?ということになりそうです

次に想像するのは、石積みの意味です
みっつの可能性が考えられます
ふたつは、一遍上人絵伝が正しく描かれたものとするならば
この石積みが善光寺境内の全体の区画の南にあたるか、あるいは内側の区画の南にあたるかで
もうひとつは、独自の建物にともなうものか、です
今年の3月に大本願地点の調査があり、調査区の南東から斜面を埋めたような包含層と
現在の築地に沿って東西に走る溝状の遺構がみつかりました
包含層からは古代の瓦がみつかり、溝状の遺構からは中世の遺物がみつかりました
したがって、ここに中世にさかのぼる境界線があった可能性が考えられます
そうすると、今回見つかった石積みの軸は、それより内側の中世の時代のなにかの敷地境界だということになります
また、現在の仁王門は宿坊から石段を登った上にあります
一方、今回の調査区の面は、そこから下がった高さにあります
この差がどのような意味をもってくるかも考えたいところです
それから今回の石積みの軸線と現在の町並みの関係も興味深いところです

3番目に想像するのは、見つかった土器の意味です
大門町や西町遺跡からは、多彩な土器や陶磁器がみつかりましたが
大本願地点や今回の調査地点からはあまりみつかっていません
これは大本願地点や今回の調査地点が境内の中だということを意味するのでしょうか
できれば鎌倉の支援を物語るような資料がみつかればとも思いますが
今後の調査での関心事のひとつです

4番目に想像するのは、建物についてです
が、これはさすがにまだ何も言えません

この1年で、善光寺史研究の新しい扉が開かれたと思います

高松の午後8時は肌寒い
駅前で夢を追う若者二人が別々にギターを奏でている

2007年10月19日 (金)

平戸オランダ商館と松浦氏

平戸市の松浦史料博物館に平戸から江戸までの行程を描いたものが展示してあるが、そのルートは、西日本は、あくまで海上である。
陸上交通が前提になっている現代社会において、平戸へのルートは鉄路ならばとても時間がかかり、佐世保からのバスが速くて便利なものになっている。
けれどもやはり平戸は、博多から唐津をまわる海上ルートでのアプローチが自然だろうと
西園寺や大内の身になって思ってしまう

佐世保から1時間半、浦と浦をつなぐかたちで川沿いの国道を走ると
平戸大橋の架かる平戸島が現れる
平戸は静かな町である
市役所前のバス停で降りるときに運転手さんに市役所の場所を聞くと
一緒に降りてきたおばさん丁寧にその場所を教えてくれる
目印はアーチ形の石橋で、港の一番奥まったところにある

オランダ商館は、平戸の湾が外海に出る一方の端
ちょうどその反対側に湾をはさんで平戸城が建つ
ただし、元の本拠は商館側の山手に立つ松浦史料博物館の裏の山だったという
Hさんの詳しい説明を聞きながら商館跡を歩く
1610年代の護岸の石垣と1630年代の石垣と1640年の石垣がのこる
1609年に当初既存の建物を利用してはじまったオランダ商館は
すぐに改築と新築をはじめ、同時に数メートルの深さの海を埋め立て、敷地の拡張を3回から4回にわたっておこなったという

年表に従えば
1609年にオランダ船が2艘平戸に入り商館を設置
その時は土蔵の付属した住宅1軒で
1611年から23年にかけて諸施設の増改築をおこなう
商館の時期時期区分としては1612年から1636年で、海岸を埋め立て、石垣や石塀をつくり住宅や番小屋や果樹園もあったという
ただし1628年にはタイオワン事件で1632年まで閉鎖を命ぜられている
つづく1637年から1641年は2棟の石造倉庫を新築し、2棟の住宅も増改築した
しかし1641年には禁教令によって住宅と倉庫などが破壊されてしまう
有名な大量の中国陶磁器はこれらの増改築にともなう土層に含まれていたそうで
1980年代末におこなわれた調査は大きな注目を集めた

商館の敷地内で町によったところに
海に面して江戸時代の絵画資料にも見える石段がある
その石段を登ったさきに水門があったとされ、さらにその先に
オランダ井戸と呼ばれる二連の井戸が残されている
中はひとつだが、井戸枠をふたつに仕切ってある不思議な井戸だ
商館の敷地境はそこからすぐ西にいったところで
道をはさんだ南には、平石を積み重ねて築かれた境界の壁が残されている
上には瓦が乗っていたようで、表面にもコーティングが残っている
この平石が平瓦ならば築地塀だと思いながら敷地の外へ出る

オランダ商館の敷地の内部には、最終的に2棟の倉庫と住居の建物
それにいくつかの小屋があったようだが
それらが海岸部の平地を埋め立てて並べられていただけでなく
ブロック状の砂岩と平石で組まれた境界壁は西の入口から裏の尾根にむかっているため
この尾根の上にも関係した施設があった可能性がある
発掘で見つかった地下の遺構と、現在も残る当時の施設
奇跡的に保存された景観とあわせて
江戸時代初期の平戸の繁栄を偲ばせる要素をふんだんに体感できる場所である

それにつけても、オランダ商館の成立と平戸の繁栄の背景にあったのは
やはり松浦の人々の中世にあるいは古代末にさかのぼる活躍だったのだろうか
西園寺は伊予と共に松浦の宇野御厨をおさえたという
伊予は西部瀬戸内の要で、松浦は五島と壱岐とあわせて東アジアへの玄関口になる
その松浦氏の本拠がこの平戸
佐世保から平戸への間で八幡神社が目立つことにも気がつく
松浦史料館の展示に蝦夷の史料があるという
以前に松浦市の楼楷田遺跡で、中国陶磁器と共に東播磨の捏鉢や瓦器碗がみつかったことがある

佐世保に着いたら40分ほど時間があったので
市の博物館へ行く
伊万里行きの松浦鉄道という1両の列車で一駅
当時千葉大学の麻生優さんが調査した有名な泉福寺洞穴の豆隆文土器が展示してある
古代以降では滑石を外容器にした三島山経塚や飯盛経塚の資料があり、室町期の井手平城が紹介されている
遣唐使も含めて五島も含めて古代・中世における西肥地域が果たした役割の大きさについて
もう一度考えてみなければ

2007年10月18日 (木)

平戸へ

そもそも、その歴史は明が洪武16年(1383)に始めた勘合にさかのぼる。明はこの年から外国船の管理のための行政制度を制定し、永楽2年(1404)から日本にも適用した。おなじみの義満の時代である。
日本に対しては、日本の「本」を割符にして、皇帝の代替わり毎に100通発行し、遣明船は浙江の市舶司でそれを調べられた。明船が日本へ行く場合は、「日」の割符が用いられたと言われるが、実際に使われたかどうかは不明という。

この割符を持った遣明船は、細川・大内と有力寺院が派遣した朝貢形式の船だが、応永8年(1401)から天文16年(1547)までの間、19回の記録があり、五山僧らの使節は、堺や博多の商人を乗せ、五島列島から寧波へ向かったという。
そこで運ばれたのが、日本からは刀剣・硫黄・扇で、中国からは絹布や銅銭だったと言われる。中世後半になって各地で多くみつかる大量の埋蔵銭は、こういった交易にもよる。
ただしこれは正規の交流である勘合貿易によるもので、そうでない私的な交易では、1533年に石見銀山で灰吹法による精錬が成功して以降、多く算出されるようになった銀が対象になり、中国からは繊維・工芸品・薬などがもたらされたという

しかし、この日本と明との交易は1547年に中絶する。ちなみにこの年の2年後、天文18年(1549)6月に摂津江口の戦いによって足利義晴を擁する細川氏の室町政権が崩壊している。

これに代わって登場するのが、南蛮貿易である。
ポルトガルは天文19年(1550)に平戸に来航し、永禄7年(1564)まで交易をおこなった後、
元亀元年(1570)に長崎に向かい、マカオから定期的な航路をひらいた。
彼らは日明間の中継貿易をおこない、明の生糸や絹織物をもって日本の銀を買った。
さらに元亀2年(1571)年にはフィリピンマニラを建てたスペインが中国から生糸を買い、日本へ運んだ。

日本が中世から近世へ大きく変わろうとしていた時である。
しかるにその大きなうねりは、極東東アジアを含んだ全世界的なうねりでもあった。
東アジアがどうして銀を求めたのかは、当時の金と銀のレートの違いに起因する有名な脇田晴子さんの論文がある
けれども当時の日本は、そんなグローバルな経済活動に関わっているどころではなく、平安時代以来とも思える頑強な官僚制の確立に向けて、あちこちで立ち登る戦乱の煙の中にあった。

そんな当時の日本の中にあって、唯一国際化の波をもろに受けていたのが平戸だった
平戸は、領主の松浦氏のもと、16~17世紀ヨーロッパ船との貿易で繁栄した港町である。
天文19年(1550)にポルトガル船が初めて来航し、その後永禄7年(1564)まで入港。天正12年(1584)からはスペイン船が来航。また慶長14年(1609)にはオランダが、1613年にはイギリスが幕府より貿易を許され商館を設立した。

長崎は元亀2年(1571)に大村純忠がポルトガル船に対して開港した町で、天正8年(1580)にはイエズス会に寄進されたが、1588年に豊臣秀吉がそれを収公して、鍋島直茂を長崎代官に任命されたという歴史をもつ町。
つい、この時期の対外拠点としては長崎を強くイメージしてしまうが、五島列島に続く平戸は、日明貿易にさかのぼるその地勢的な背景から、日本の対外拠点として最もふさわしい場所だったことになる。

中世から近世への長い戦いが終わった慶長9年(1604)、ようやく日本政府は外交に目を向ける。
幕府は京都・堺・長崎3か所の有力町人によって結成された糸割符仲間を設け、ポルトガル船がおこなっていた中国製生糸の輸入価格を決定して一括購入をはじめる。
一方、慶長14年(1609)、平戸では幕府の通商許可が下り、オランダ東インド会社の日本商館が設置される。
そして元和2年(1616)には平戸が長崎と並んで黒船とイギリス船の貿易港に指定される。

その結果、オランダ商館は、当初インドネシアのモルッカ諸島進出の戦略基地だったが、1620年代以降は対日貿易基地に転換する。
その後幕府の管理貿易にあたる糸割符仲間の制度は1631年に中国船に適用され、寛永18年(1641)にはオランダ船にも適用され、また寛永10年(1633)にはオランダ商館長の江戸参府がきまり、それは嘉永3年(1850)まで166回続くことになると言う。

中世にさかのぼる歴史をもつ対外拠点の場である平戸は、その意味で幕府の管理貿易には都合のよくない場所だったのだろうか
糸割符制がオランダ船に適用された寛永18年(1641)には、オランダ商館がポルトガル人追放後の長崎出島に移転させられ、平戸は対外貿易港としての活動に幕を閉じることになる。
その後の長崎の繁栄については、多くの人の知るところである。

博多は快晴である
JR九州の列車のデザインは誰が手がけているのだろうか、いずれもセンスが良いと思う
佐世保行きのみどりに乗り換えるために新幹線を降り
コンコースのカフェのメニューに高菜ピラフと皿うどんがあるのを確かめながら九州線のホームに上がると隣のつばめリレーのホームにラーメン屋が見える
乗り換え時間が20分であることが惜しくてたまらない

2007年10月 5日 (金)

ぜひ読んでもらいたい本

7月の『京都の歴史を足元からさぐる』[洛東の巻]に続いて
森浩一先生の新刊がこの5日に出た
タイトルは『古代史おさらい帖』筑摩書房である
副題は考古学・古代学課題ノートとなっており
「古代史の入門書」としての位置づけとされている
けれども
「はじめに」をみると
森先生の古代学と考古学、さらには歴史研究に対する真摯で熱い思いが伝わってくる
帯にもある文章だが引用したい

「考古学や古代学の入門書とはいえ
型どおりの入門書にするのでは堅苦しすぎる。
それと名の通った研究者が暗黙のうちに使っている基礎知識のなかにも
実は未証明のうえに出来上がった脆弱さをもつものさえある。
このように考えると
入門書とはいえ
既成の学問成果を列挙するだけではなく
一見学問の成果(到達点)のようにみえる事柄についても
それが強固な資料を咀嚼したうえに出来上がっているのか
まだそこまで至っていないのかを
一人一人が自ら会得してほしいというのが
ぼくのねらいである。」

そしてキーワードは
「土地の見方」「年代の見方」「人の見方」の三つ

思い起こせば学生時代以来
この三つのキーワードと
強固な資料を咀嚼して出来上がっているものかどうかの自らの会得の鍛錬を
学び続けている
その凝縮をこの本で、また新しい形で学ぶことができる
来年の授業では、これを重要参考図書としてすすめることを目標に
なお、一層の鍛錬を重ねたい

さすがに森先生らしいタイトルの付け方で
そのコンセプトは
くる日もくる日も、あれこれの事を頭のなかで反芻している者のイメージだという
そして
きちんとした見方と自分なりに解釈することを身につけることの大事さ

表紙は大川の船渡御である
森先生の人柄が盛り込まれており
これがまた良い

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