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2007年10月19日 (金)

平戸オランダ商館と松浦氏

平戸市の松浦史料博物館に平戸から江戸までの行程を描いたものが展示してあるが、そのルートは、西日本は、あくまで海上である。
陸上交通が前提になっている現代社会において、平戸へのルートは鉄路ならばとても時間がかかり、佐世保からのバスが速くて便利なものになっている。
けれどもやはり平戸は、博多から唐津をまわる海上ルートでのアプローチが自然だろうと
西園寺や大内の身になって思ってしまう

佐世保から1時間半、浦と浦をつなぐかたちで川沿いの国道を走ると
平戸大橋の架かる平戸島が現れる
平戸は静かな町である
市役所前のバス停で降りるときに運転手さんに市役所の場所を聞くと
一緒に降りてきたおばさん丁寧にその場所を教えてくれる
目印はアーチ形の石橋で、港の一番奥まったところにある

オランダ商館は、平戸の湾が外海に出る一方の端
ちょうどその反対側に湾をはさんで平戸城が建つ
ただし、元の本拠は商館側の山手に立つ松浦史料博物館の裏の山だったという
Hさんの詳しい説明を聞きながら商館跡を歩く
1610年代の護岸の石垣と1630年代の石垣と1640年の石垣がのこる
1609年に当初既存の建物を利用してはじまったオランダ商館は
すぐに改築と新築をはじめ、同時に数メートルの深さの海を埋め立て、敷地の拡張を3回から4回にわたっておこなったという

年表に従えば
1609年にオランダ船が2艘平戸に入り商館を設置
その時は土蔵の付属した住宅1軒で
1611年から23年にかけて諸施設の増改築をおこなう
商館の時期時期区分としては1612年から1636年で、海岸を埋め立て、石垣や石塀をつくり住宅や番小屋や果樹園もあったという
ただし1628年にはタイオワン事件で1632年まで閉鎖を命ぜられている
つづく1637年から1641年は2棟の石造倉庫を新築し、2棟の住宅も増改築した
しかし1641年には禁教令によって住宅と倉庫などが破壊されてしまう
有名な大量の中国陶磁器はこれらの増改築にともなう土層に含まれていたそうで
1980年代末におこなわれた調査は大きな注目を集めた

商館の敷地内で町によったところに
海に面して江戸時代の絵画資料にも見える石段がある
その石段を登ったさきに水門があったとされ、さらにその先に
オランダ井戸と呼ばれる二連の井戸が残されている
中はひとつだが、井戸枠をふたつに仕切ってある不思議な井戸だ
商館の敷地境はそこからすぐ西にいったところで
道をはさんだ南には、平石を積み重ねて築かれた境界の壁が残されている
上には瓦が乗っていたようで、表面にもコーティングが残っている
この平石が平瓦ならば築地塀だと思いながら敷地の外へ出る

オランダ商館の敷地の内部には、最終的に2棟の倉庫と住居の建物
それにいくつかの小屋があったようだが
それらが海岸部の平地を埋め立てて並べられていただけでなく
ブロック状の砂岩と平石で組まれた境界壁は西の入口から裏の尾根にむかっているため
この尾根の上にも関係した施設があった可能性がある
発掘で見つかった地下の遺構と、現在も残る当時の施設
奇跡的に保存された景観とあわせて
江戸時代初期の平戸の繁栄を偲ばせる要素をふんだんに体感できる場所である

それにつけても、オランダ商館の成立と平戸の繁栄の背景にあったのは
やはり松浦の人々の中世にあるいは古代末にさかのぼる活躍だったのだろうか
西園寺は伊予と共に松浦の宇野御厨をおさえたという
伊予は西部瀬戸内の要で、松浦は五島と壱岐とあわせて東アジアへの玄関口になる
その松浦氏の本拠がこの平戸
佐世保から平戸への間で八幡神社が目立つことにも気がつく
松浦史料館の展示に蝦夷の史料があるという
以前に松浦市の楼楷田遺跡で、中国陶磁器と共に東播磨の捏鉢や瓦器碗がみつかったことがある

佐世保に着いたら40分ほど時間があったので
市の博物館へ行く
伊万里行きの松浦鉄道という1両の列車で一駅
当時千葉大学の麻生優さんが調査した有名な泉福寺洞穴の豆隆文土器が展示してある
古代以降では滑石を外容器にした三島山経塚や飯盛経塚の資料があり、室町期の井手平城が紹介されている
遣唐使も含めて五島も含めて古代・中世における西肥地域が果たした役割の大きさについて
もう一度考えてみなければ

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