« 善光寺仁王門西元善町遺跡探索 | トップページ | 主張する博多 »

2007年10月21日 (日)

石清尾八幡宮

現在の天竜寺と重なる後嵯峨上皇の亀山殿の名前の由来は
対岸の法輪寺あたりから見た後の山の形が
横から見た亀のシルエットに似ていることによる
したがって、その時の視点は桂川の右岸にあったことになる
その前の時代にあたる後白河院の『梁塵秘抄』に登場する嵯峨野は
霊験所としての法輪寺や遊興の場としての桂川だったので
当時の人々の感覚として、常識的な視点だったのだろう
これは『洛中洛外図』を見るときも必要な見方

20日と21日は
香川県立歴史博物館で
現在の高松城の前の時代の地名である
「野原」をめぐる港町のシンポジウムが開催された

昨日遅く着いたので、初日は参加できなかったが
2日目に参加するためにホテルから会場へ向かう
高松はアーケード街が有名で、会場までのルートもそれをとる
日曜でまだ朝が早く、多くの店は開いておらず人も少ない
のんきにあたりを見回しながら歩いていて思わず立ち止まる
石清尾八幡宮の大きな文字と船の形をした山車のポスター
昨日と今日はその祭りとのこと
この一週間ほど、石清水八幡宮のところで筆が停まっているが
「船かあ、これは、大変だなあ」と思いながら通り過ぎる

今回のシンポジウムは、四国村落遺跡研究会の主催である
この研究会は
遺跡から離れた遺物だけの検討にとどまるのではなく
場所にこだわり、現地を歩き、風景や景観を気にして
もちろん遺跡以外の歴史情報もできるかぎりとりこんで
臨場感あふれる歴史の再現と叙述をめざす
そんな理想的な研究会で
そのひとつの段階のまとめのシンポジウムである

日頃、現場や業務に追われながら
熱心に研究と調整をすすめた関係各位の努力は
ぜひ学生君たちの学びの姿勢につなげたいと思う

古代以来の地理条件を整理し、遺跡情報をまとめ
文献史料とつきあわせ、さらに今の風景との対応を考える
港町や都市といった「言葉」にとらわれず
思いこみを冷静に相対化して
ニュートラルにデータの関連を整理し
それが示すものが何であるかと考える
これも理想的な学問の進め方で
学生君たちに学んでほしい姿

そんないくつもの報告の中で
石清尾八幡宮の存在と瓦器碗の関係についての報告があり
おもわずうなってしまった
高松平野が終わる南西山麓ちかくの低い尾根の麓に
石清水八幡宮から勧請された石清尾八幡宮があり
かつて、と言っても12世紀とか15世紀の頃
その東を川が流れて、それがそのまま海に出て
そこに荷揚げの港があったという
石清尾八幡宮はそのバックの存在で、和泉型の瓦器碗が多いのはその関係ではないかという

今年の4月に広島県立歴史博物館でも話をしたように
以前から、西日本の土器碗の流行には石清水八幡宮がかかわっており
摂河泉の瓦器碗と北部九州の瓦器碗がその象徴だと考えている
今回の報告は、まさにそれを支持するもので心強く思った
ただ、地元の人にとってはあまりに有名な事実関係だっただろうが
うかつにも石清尾八幡宮のことは知らなかった

思わず、今朝見た大きな祭りのポスターが頭をよぎる
たまらず、予定を変更して帰りに石清尾八幡宮へ向かう
瓦町から南西へ1キロ足らず
鳥居からまっすぐ西へ向かう参道は、途中から祭りで歩行者天国になっていて
いくつもの山車が宮から帰ってくる
遠くに鳥居と尾根が見える
あたかも石清水のように
鳥居をくぐりアーチの石橋を渡ると、その下をよどんでいるのが、かつての川の跡で
放生川にあたるのだろうか
祭りでにぎわう境内を探索した後
小蛸がまるまる入っているたこ焼きを、勢いで一船買って
昔の川に沿って北西にまわる
背後の山は岩山のようで、岩盤が露出している
川は途中から北へ向かい、現代の町並みの中に姿を消す
さあ帰ろうか、とそのまましばらく北へ歩くとその先が市の歴史資料館
残念ながら時間が無いので左へ折れて昭和町からJRに乗る
単線でホームは無人
列車は1時間に2本で、今はちょうど2分前
やれやれと思って石清尾八幡宮のある南をみると、そこに亀がいた

石清尾八幡宮は、亀ノ尾山の山裾の赤塔山の上に鎮座している
石清尾の名前は、この亀ノ尾と石清水が一緒になったものだという
まわりにも亀にちなむ地名があるという
ただ、境内を探索したときに、どこが亀の山かと探したがわからなかった
鳥居のむこうに見えた姿がそうだったかもしれないが
亀は海から見た時の姿だったと思った
今回のシンポジウムの中で、石清尾八幡宮の役割は皆認めるが
なぜここなのかは、古代史の闇に紛れていた
瀬戸内海と海上交通と石清水だと、亀を見て思った

亀は神仙思想の象徴である
日本列島におけるその起源は古墳時代前期にさかのぼるが
明確な定着は7世紀で、ひろく浸透を始めるのが平安時代後期である
丹後がそのイメージをもたれたのが何時かはわからないが
鳥羽殿建設を描写した『扶桑略記』にはその表現がみえる
和鏡のデザインもしかり
鎌倉時代には東海が蓬莱に近い場所とイメージされる
鳥羽殿の造営は11世紀後半で、実はその時期が石清水八幡宮の発展期なのである

一昨日いた、佐世保を代表する神社が亀山八幡宮だった
やはり行っておくべきだった
くやしいけれど、また行く理由ができた
遺跡は見るもの歩くもの
そして歴史はその時代の人間になりきるもの

本郷和人2007『武士から王へ』ちくま新書
鈴木康之2007『中世瀬戸内の港町』新泉社

« 善光寺仁王門西元善町遺跡探索 | トップページ | 主張する博多 »

遺跡の見方」カテゴリの記事