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2007年10月18日 (木)

平戸へ

そもそも、その歴史は明が洪武16年(1383)に始めた勘合にさかのぼる。明はこの年から外国船の管理のための行政制度を制定し、永楽2年(1404)から日本にも適用した。おなじみの義満の時代である。
日本に対しては、日本の「本」を割符にして、皇帝の代替わり毎に100通発行し、遣明船は浙江の市舶司でそれを調べられた。明船が日本へ行く場合は、「日」の割符が用いられたと言われるが、実際に使われたかどうかは不明という。

この割符を持った遣明船は、細川・大内と有力寺院が派遣した朝貢形式の船だが、応永8年(1401)から天文16年(1547)までの間、19回の記録があり、五山僧らの使節は、堺や博多の商人を乗せ、五島列島から寧波へ向かったという。
そこで運ばれたのが、日本からは刀剣・硫黄・扇で、中国からは絹布や銅銭だったと言われる。中世後半になって各地で多くみつかる大量の埋蔵銭は、こういった交易にもよる。
ただしこれは正規の交流である勘合貿易によるもので、そうでない私的な交易では、1533年に石見銀山で灰吹法による精錬が成功して以降、多く算出されるようになった銀が対象になり、中国からは繊維・工芸品・薬などがもたらされたという

しかし、この日本と明との交易は1547年に中絶する。ちなみにこの年の2年後、天文18年(1549)6月に摂津江口の戦いによって足利義晴を擁する細川氏の室町政権が崩壊している。

これに代わって登場するのが、南蛮貿易である。
ポルトガルは天文19年(1550)に平戸に来航し、永禄7年(1564)まで交易をおこなった後、
元亀元年(1570)に長崎に向かい、マカオから定期的な航路をひらいた。
彼らは日明間の中継貿易をおこない、明の生糸や絹織物をもって日本の銀を買った。
さらに元亀2年(1571)年にはフィリピンマニラを建てたスペインが中国から生糸を買い、日本へ運んだ。

日本が中世から近世へ大きく変わろうとしていた時である。
しかるにその大きなうねりは、極東東アジアを含んだ全世界的なうねりでもあった。
東アジアがどうして銀を求めたのかは、当時の金と銀のレートの違いに起因する有名な脇田晴子さんの論文がある
けれども当時の日本は、そんなグローバルな経済活動に関わっているどころではなく、平安時代以来とも思える頑強な官僚制の確立に向けて、あちこちで立ち登る戦乱の煙の中にあった。

そんな当時の日本の中にあって、唯一国際化の波をもろに受けていたのが平戸だった
平戸は、領主の松浦氏のもと、16~17世紀ヨーロッパ船との貿易で繁栄した港町である。
天文19年(1550)にポルトガル船が初めて来航し、その後永禄7年(1564)まで入港。天正12年(1584)からはスペイン船が来航。また慶長14年(1609)にはオランダが、1613年にはイギリスが幕府より貿易を許され商館を設立した。

長崎は元亀2年(1571)に大村純忠がポルトガル船に対して開港した町で、天正8年(1580)にはイエズス会に寄進されたが、1588年に豊臣秀吉がそれを収公して、鍋島直茂を長崎代官に任命されたという歴史をもつ町。
つい、この時期の対外拠点としては長崎を強くイメージしてしまうが、五島列島に続く平戸は、日明貿易にさかのぼるその地勢的な背景から、日本の対外拠点として最もふさわしい場所だったことになる。

中世から近世への長い戦いが終わった慶長9年(1604)、ようやく日本政府は外交に目を向ける。
幕府は京都・堺・長崎3か所の有力町人によって結成された糸割符仲間を設け、ポルトガル船がおこなっていた中国製生糸の輸入価格を決定して一括購入をはじめる。
一方、慶長14年(1609)、平戸では幕府の通商許可が下り、オランダ東インド会社の日本商館が設置される。
そして元和2年(1616)には平戸が長崎と並んで黒船とイギリス船の貿易港に指定される。

その結果、オランダ商館は、当初インドネシアのモルッカ諸島進出の戦略基地だったが、1620年代以降は対日貿易基地に転換する。
その後幕府の管理貿易にあたる糸割符仲間の制度は1631年に中国船に適用され、寛永18年(1641)にはオランダ船にも適用され、また寛永10年(1633)にはオランダ商館長の江戸参府がきまり、それは嘉永3年(1850)まで166回続くことになると言う。

中世にさかのぼる歴史をもつ対外拠点の場である平戸は、その意味で幕府の管理貿易には都合のよくない場所だったのだろうか
糸割符制がオランダ船に適用された寛永18年(1641)には、オランダ商館がポルトガル人追放後の長崎出島に移転させられ、平戸は対外貿易港としての活動に幕を閉じることになる。
その後の長崎の繁栄については、多くの人の知るところである。

博多は快晴である
JR九州の列車のデザインは誰が手がけているのだろうか、いずれもセンスが良いと思う
佐世保行きのみどりに乗り換えるために新幹線を降り
コンコースのカフェのメニューに高菜ピラフと皿うどんがあるのを確かめながら九州線のホームに上がると隣のつばめリレーのホームにラーメン屋が見える
乗り換え時間が20分であることが惜しくてたまらない

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