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2007年11月

2007年11月27日 (火)

筑紫道記

福岡市立博物館で「1480年の博多」と題して宗祇の日記をもとにした企画展をおこなっている
地下鉄空港線の西陣でおりて、百道の西南学院の前を通っていった先のあの有名な金印が展示されている博物館である
中世の陶磁器を学ぶものは、必ず見ておかなければならない博多の多彩な資料群
その実際をみごとに表現した展示で、博多を訪れた際には、開館以来何度となく足を運んでいる
もっとも最初に訪れたときには、天神の駅から北東へ5分ほどの赤煉瓦の建物がそれだった
ちなみに西新は学生の街ということもあって美味しいラーメン屋も多い

なにが気に入ったかというと1480年の博多というキャッチ
おもわず新幹線の時間を気にしながら見入ってしまった
<余談だが、JR九州の企画をプロデュースしている人には機会があれば会ってみたい。列車のセンスが抜群なだけでははなく、クルーもみな洗練されていて、イベントのキャッチも今年は博多スイッチと鹿児島スイッチという粋なもの。九博も、いろいろな工夫をして、頑張っている。九州が魅力的なのは、東国原さんだけの力ではないような>

宗祇は1421年から1502年に生きた人物で、室町後期の連歌師。あるいは古典学者とも。和歌を飛鳥井雅親に学び、ということは、今出川堀川近くにも顔を見せていたのだろうか。そして故実は一条兼良から会得し、さらに古今伝授を東常縁から教授したという。将軍家師範で東山時代の代表的文化人と言える。有名な作品として「新撰菟玖波集」が知られている。古典学者とされるのは「古今和歌集」などの注釈書を書いたことにおよる

その宗祇が山口の大内政弘に招かれていた時、文明12年(1480)9月6日に山口を出て、大宰府・博多をめぐって10月12日に山口にもどる旅行をおこなっており
その日記が『筑紫道記』として残されている
1480年といえば応仁の乱が終わって間もない頃
解説によれば、乱の後に、豊前と筑前を平定した大内の領国を、60になった宗祇がめぐったことになっている

旅は大内氏の手配によって山口から下関、門司をへて山に入り、直方、飯塚から峠を越えて大宰府天満宮の安楽寺に入り、観世音寺、政庁、水城を経て博多へ、生の松原や志賀島をおとずれた後、筥崎、香椎、古賀、宗像大社と有名な芦屋などの海岸沿いを北九州へもどり、下関からは山を越えて山口へ戻っている
大内氏の思惑によるものだろうか、大宰府へ北東の峠越えで入っている
うかつにも西鉄電車で入るルートしか頭になかったので勉強になる
天満宮から観世音寺を通って政庁へは約2キロ
さっき歩いた路を宗祇も馬に乗ったと思うとなんとなく風景も違って見える
ただし宗祇は都府楼前から西鉄には乗らず水城を越えて博多に入っている

博多はどうかというと、9月20日ついて竜宮寺を宿所として、10日間、博多とその周辺の名所をめぐっている
竜宮寺は現在
その時の博多は、大きな船が港に入り、町は民家や町家が軒を並べる賑わいだったという
ただし、住吉は楼門がくずれ、筥崎宮は再建途中だったともいう
古代末から中世前半の博多については、二つの砂碓と代表的な寺院を核とした都市的な風景が描かれているが、中世後半においてもおおいに発展した港湾都市の姿を想像できると思う
きっとこの情報に遺跡情報を重ね合わせると
もっとリアルな室町時代の博多が目の前に姿を現すと思うが
智真に導かれ、これまであまり注目されてこなかった歴史情報の活用が見えてきたと思う

それにしても博多は面白い
コンパクトな空間の中に、文献も絵画も遺跡も建築も民俗も
古代から近世まで、東国も西国も、いや東アジア的な視野を含めて
ありとあらゆる種類の日本の歴史のコンテンツがつまっている
卒業研究の研修旅行にうってつけではないかと思うのだが

2007年11月26日 (月)

大隅正八幡

錦江湾の上には、これ以上ないほど青い空が広がっている
学生時代に初めて鹿児島を訪れた時には、鹿児島駅はとても終着駅の雰囲気が漂う旅情のかたまりだった
それがここなのだろうかと市電の終点を降り、鹿児島駅から休日のハイカーで賑わう日豊線に乗る
国道10号線とJRでいっぱいいっぱいの海岸線を抜け錦江に入るころから
桂林を思わせるような不思議な山並みと豊かな水田がひろがる
なるほどここなら大隅正八幡宮がおかれても不思議では無い

ひとまず霧島八幡宮へ
前日に調べておいた時刻表にしたがい
1時間に1本のバスにあわせて行動する
車が苦手になって以来、各地の公共の交通機関をよく利用するが
インターネットのおかげで時刻調べがすっかり便利になり
今や待ち時間も、まわりを見回す貴重な機会となっている
ただし駅前の足湯に入る余裕はなかった
1時間に1本でもバスがあれば幸いである

鹿児島を訪れるのは多分4度目だと思う
2度目の時は、不思議な4人組で熊本・加世田・鹿児島・都城・宮崎をまわった
とてつもなく楽しい旅だった
ただしやはり遺物見学が中心で、まだ周りを見る段階に達していなかった
今、またあの4人組で回ったら、きっと霧島神宮も必須のポイントになっただろう
いや、もっと上の古宮まで登っていたかもしれないと思いながら
神宮から錦江湾と桜島が見えるのを確認して、地形と史跡に注意しながら霧島歴史民俗資料館へ

昼過ぎに国分へもどる
ここには大隅国分寺と大隅国府がおかれ、城山山頂は隼人城と呼ばれている
今日は昼を食べようと心に決めながら国分寺跡へむかう
途中に黒豚のトンカツ屋があったが昼時でみごとに満員
気がつくと国分寺跡

現在その場所には12世紀代の紀年銘をもつ石造層塔が建っている
調査がおこなわれている最中で、トレンチが中央やや北に設けられている
道へもどると、その先が石垣のきれいな舞鶴城跡
道の向かいにあった遺跡案内の地図によれば
国分の歴史民俗資料館はこの先をうねうねと登った上にあるそうで
道のりはおよそ2キロ
見上げると山頂に展望台が見える
一瞬迷うが、まさかと思いながら、2キロなら登りでも30分でいけると歩き出す
1時間に1本でもバスがあればと思うが、無い
まさか歩いて登る人はいないだろうと思っているだろう車に何台も抜かれながら
それでもソウルの城壁巡りに較べたらかるいかるいと山頂へ

大汗をかいて登ったかいがあって
100円の展望台からは隼人と国分の平野部がすべて一望
北には霧島の山塊が淡くそびえ、南には錦江湾の上に桜島がただよう
西から北へシラス台地が巨大なテーブルのようにひろがる
なるほど上野原とは絶妙なネーミングだと思う
あたかも天竜川の河岸段丘上に形成された縄文集落のように

国分と隼人の平野部は、この巨大なテーブルに囲まれた中
中央を天降川がきらりとひかりながら流れる
これから行く大隅正八幡宮はこの先だと西のテーブルの麓にねらいをつける
国分の歴史民俗資料館で、意外にも多くの古墳時代の資料を見る
あわせて立派なV字溝や建物跡と瓦溜まりのみつかっている国分寺跡の企画展を見ていると
突如なにかの授業らしい大学生の集団が現れる
どこから来てどこを回ったのだろうかと来年のゼミ旅行に思いを馳せながら
5分で山を駆け下りて西へ向かう
ファミリーマートで霧島の水を買い、祓戸神社を通過して参宮橋で天降川を渡る

城山のふもとから大隅国分寺と大隅国府を通過して、天降川を参宮橋で渡った先の突き当たりが大隅正八幡宮である
まさかこのコースを歩いてまわった人はそういないと思うが
まったくこのとおりの配置である
そしてこれは薩摩国分寺と同じ構図
薩摩国分寺は川内川の河口を遡った陸路との交差点で、その海側に新田八幡があった
大隅国分寺は天降川の河口を遡った陸路との交差点で、陸路の反対側にあるのが大隅正八幡宮である
天降川は、ここから手籠川と分かれて細くなる
これは持躰松遺跡と同じ

智真がおとずれた大隅正八幡宮は台地の先端を利用して建てられており
台地の縁辺を流れる小河川が放生川となってまわりを囲み
境内へは石橋を渡って入るようになっている
本殿は、その先の石段をふたつ登った先にあり
さらに本殿の正面が神宮神幸地の浜之市を経て神造島と桜島を臨む南に向いているため
東から登ってきた参拝者は、ここで右に曲がって本殿に入ることになる
石清水八幡宮も五条の若宮八幡宮も本殿の正面は南で東に放生川と橋がある
同じ構図なのだろうか

大隅正八幡は現在の鹿児島神宮
すでに『延喜式』に「鹿児島神社」としてみえ、現在の社殿の北東に位置する石体寺が元の場所と伝える
祭神は天津日高彦穂穂出見尊
宇佐八幡と同様に巨石にちなむ縁起をもち、鹿児島神社の場合は、石体寺で藁薦に覆われた巨石の祀りがおこなわれるという
ただし桜島を意識した隼人にちなむ信仰がそれ以前からあったともいわれ、『今昔物語』や『水鏡』による八幡神に関わる起源伝説については、そのままうけとめるのは難しい

鹿児島神社の名称は10世紀中頃にみえなくなり、長元7年(1034)に石清水八幡宮別当の元命が大宰府から大隅の八幡別宮の支配を認められており、その頃には八幡神の合祀がおこなわれ、あわせて石清水八幡宮の支配下にあったことがわかる
11世紀前半である
淀川では淀が桂川右岸から左岸に中心を移し、石清水八幡の麓に宿院をはじめとする境内ができはじめ、そして瓦器碗が姿を現す頃である

大隅正八幡の発展には行賢という一人の人物が大きくかかわる
彼は、大隅国司だった惟宗氏と称し
(島津が頼朝から守護として任命される以前から、惟宗氏は大隅と関わっていたことになる)
父が国司で在任中の寛治元年(1087)に下向し、寛治2年に宇佐弥勒寺から正八幡宮執印職として補任されている
この行賢の行動が彼の自発的なものだったのかどうかわからないが、同じ年、宇佐八幡宮と共同して大宰大弐藤原実政を追放
惟宗氏による祭政一体となった大隅支配の拡大が始まる
天承2年(1132)、行賢は元の社殿の場所(石体宮)から「八幡」と記された2つの石が出土したと朝廷に報告
正八幡宮の正当性は、これによって確保されることになる

そして興味深い年がここに現れる
行賢は康治元年(1142)に寄進状を作成するが、その中で自らの履歴を述べている
実は、康治元年は大隅国分寺石塔の紀年銘であり、後に登場する大国寺石仏の紀年銘でもある
また隼人塚の場所は正八幡の御旅所と聞く
したがってこれらの石塔の造立は、大隅支配のために活動をはじめた惟宗氏と行賢による、国分寺・国府・正八幡をあわせたイベントの記念碑だった言えるのではないだろうか

そして祭政一致の力によって正八幡宮の所領はさらに拡大する

ところで大隅正八幡宮の一遍聖絵を見ると、左手に台地縁辺を流れる川が描かれており
本殿は右手を正面にして、その先に参籠する一遍がみられる
現在、一遍と同じ関係で本殿に向かおうとすると
本殿が角度を変えるか本殿南の台地先端で空中に浮くことになる
にわかにはこの関係を説明することができない

歴史民俗資料館は、本殿の北に隣接している
様々な資料のなかで、小田松木薗遺跡の墓に目が行く
白磁の大きな合子と滑石片と刀子と湖州鏡をもっている
ほかには須恵器が主だが骨蔵器も多くみつかっている
後で隼人塚の展示館でも宝塔を外容器にした青磁の壺の骨蔵器があり
古瀬戸の三筋の瓶子や13世紀代の白磁四耳壺の骨蔵器もある
関西では骨蔵器はあまり見ない
関東の関係なのだろうか

大隅正八幡宮を出て、駅へ向かいながら留守氏の館跡をたずねる
留守とは執印が不在の時におかれた職で
現在も土塁を残している中世の居館跡である
長野県の高梨氏館と同様
不思議なことに
留守氏の館は駅へ向かう道路から一段高い地形の上に立地している
そしてその一段高い地形が、駅へ向かう道路と並行してつづく
駅への道路はやがて緩やかな上りとなり、駅の手前で並行してきた高まりの地形と一緒になる
したがって、留守氏の館が高い場所にあるというより
駅へ向かう道路のうちの、大隅正八幡宮に近いあたりが
まわりより低い地形だったとも言える
振り返るとおおきな窪地の先に神宮の森が見える
高い地形は天降川右岸の広い自然堤防なのだろうか
不思議な立地だと思う
なお、留守は南北朝期以降、石清水八幡社家の善法寺家から紀氏が下向したという
とにかく畿内と関係の深いところである

駅前を通り過ぎて隼人塚史跡館へむかう
元、隼人塚の場所にあったと言われる正国寺の石仏が展示してある
弥勒仏など、大隅国分寺石塔と同じ康治元年(1142)の紀年銘をもつきわめて貴重な資料
展示にも紹介されていたが、隼人塚の石塔は独特の形をしている
一般に多くみられるような笠が連続する十三重塔とは違い
笠と笠の間に方形の軸をもつ
こういった様式の塔は、大隅国分寺塔、(見られなかったが)薩摩国分寺塔、人吉の永国寺塔、同じく人吉の願成寺塔、熊本県湯前町の城泉寺塔、坂東寺塔など
熊本南部と薩摩・大隅の一部に分布しており
時期は大隅国分寺塔との様式の共通性から12世紀を中心に考えられているが、沢家の資料は13世紀とも言われる
そしてこの塔の様式に一番近いのが朝鮮半島の塔とも

そういえばこの塔に良く似た塔を長野市篠ノ井にあるということを写真で見たような
共に平安時代終わり頃
朝鮮半島と北信濃と南九州と
なにがあったのだろうか
やはり今日も昼抜きとなった
今回は日程が限られていたためなにも連絡できなかったが
次回はぜひ南九州の知人と語り合いたい

2007年11月24日 (土)

島津の中世

南海ラピートに似た雰囲気の光線が注ぐウッディなキャビンの九州新幹線は
クルーの丁寧なアナウンスと揺れを感じさせない快適な空間だが
新八代を出てすぐにトンネルに入り、その後もトンネルが続くのが
やむを得ないことだがやはり少し哀しい
このまま博多まで不知火を見ながら乗る日の来るのが待ち遠しい
(平成22年とのこと)
薩摩国分寺は、その九州新幹線に乗って
新八代から20分ほどで渡る川内川の右手前にある

川内川は、さすがに九州第2の河川だけあって堂々として流れる
この川に架かり川内の街をつなぐ太平橋は
明治8年の架橋で、西南戦争で落ちたという生きた歴史の証人でもある
この橋を北へ渡り、東へいったところに泰平寺があり
その脇に秀吉の薩摩で島津との講和を記した石が建つ

薩摩国分寺は、その泰平寺をすぎ、済世会病院と消防署を越えた先の
川内川を見下ろす右岸の段丘上に建つ
<ちょうど金峰町の万之瀬川の持躰松遺跡の場所が同じで、河口を少し遡った陸路との交差点>
道を渡って坂を登ると南門で
少し軸を異にした中門を入ると、その先に回廊にかこまれて
右に塔、左に西金堂、奥に金堂、そしてその裏に講堂がおかれる
川原寺式の伽藍配置で
オーソドックスだがきれいに整備されており
その全貌がよくわかる

薩摩川内市の歴史資料館は、国分寺の段丘を降りたすぐその東脇にあり
入口で、国府跡の調査でみつかった
「ばか?」という文字と踊る女性を描いた土師器碗の大型レプリカが迎える
古墳時代では薩摩に特有な、箱式石棺のような平石をもちいた積石石室がある
大隅は地下式横穴とのこと
ちなみに鹿児島以南はまた別の葬法
古代は国府跡と国分寺跡
1980年代はひたすら古代から中世の土器を調べていたが
国府跡からは、当時を思い出させる黒色土器や高台付きの皿が出ている
10世紀から11世紀だろう
国分寺跡からは錫杖の鋳型が出ている
これは驚き
国分寺瓦をアーカイブしたいなあと思いながら隣の展示を見ると
薩摩一の宮の新田八幡が示され、その位置は神亀(しんき)山の上という
おもわず笑みがこぼれる
もちろん永仁2年銘の花鳥文鏡である

100円均一のくるくるバスで駅へもどる
なにがくるくるバスかと思ったら
なるほど、目的地へ直接向かわず
生活に必要な場所をくるくるまわるバスだった

鹿児島中央駅で指宿枕崎線に乗り換え慈眼寺へ
慈眼寺の駅を降りて山側を見ると巨大な岩壁(のように見える崖)が目に飛び込んでくる
この山が南北朝期に島津氏と覇権を競った谷山氏の谷山本城であることは後で知った

鹿児島市のふるさと考古資料館は平成9年開館
丹青の設計による、ハイテクだけでなく当時の先端のさまざまな工夫と学芸員の意図が活かされた内容の濃い博物館である
なじみのマンローが出迎えてくれ縄文時代の丁寧な展示がつづく
古代の遺跡はまだ少ないのだろうか弥生や古墳もあるが
縄文の次の大きなテーマが室町時代以降である

幕末に一躍脚光を浴びることになる島津氏の登場は
平家の流れをくんでこの地を支配していた矢上氏の後
頼朝に守護として任命されたことに始まる
もともと島津氏は惟宗姓を名乗っていたと言われるが
惟宗氏は、9世紀に讃岐国香河郡とする秦宿禰永原らが惟宗朝臣と賜姓されたことに始まるとされる
(そういえば1165年に河内鋳物師が蔵人所に支配された時の人物が小舎人惟宗兼宗だった。意外なところで登場)
島津の初代忠久が惟宗広言の子で、広言は比企氏と親戚だったために
(母が比企能員の妹の丹後局)
比企氏の乱に際して一時守護を停められたともなるけれど
詳細は不明(惟宗忠康との関係とも)

ただし、いずれにしても島津氏の出自は京および鎌倉にあって(近衛家の家司とも)薩摩との関連は鎌倉時代以降のことになる
<今、九州の若者は関西を飛び越えて東京を目指すという。これが鎌倉時代に遡る関東とのつながりによるものかどうかわからないが、それでは鹿児島の若者はどうだろうか)

島津氏は初代の忠久と二代の忠時は鎌倉で有力御家人として過ごし、蒙古襲来に備えて1275年に3代の久経から九州へ赴く
実は1239年に生まれた智真が32才で再出家して諸国を遍歴する中で大隅正八幡を訪れるのはちょうどその時にあたる
ただし4代の忠宗までは川内の碇山城で
鹿児島市に入ったのは5代の貞久で1341年、場所は現在の多賀山公園にあたる鹿児島駅北の東福寺城だったという
14世紀中頃、南北朝期である
その後、室町初期に、その西の清水城へ移り城下町をもつと言われ、さらに1550年にはその南の内城に移る
内城は現在の大龍小学校で平城である

南北朝期の城郭はきわめて稀である
極楽寺関係の五合桝と一升桝か笠置城くらいしか知られていない
東福寺城とは一体
というわけで一路多賀山公園へ
鶴丸城の黎明館から鹿児島駅の西を抜けて北へ
稲荷川をわたり東へ回り込むと東福寺城の表示がある
登れば稜線を利用した平場がある
掲示板には11世紀半ばに純友の末裔を名乗る長谷場永純が築き、その後矢上氏も利用したというが、これは平安末に遡る風景だろうかと逡巡

山を降り、海側へ出てると桜島が目の前にそびえる
感動して振り向くと多賀山公園がどこかで見た風景にだぶった
稲荷川を狩野川に代えて多賀山を守山に代えれば
ありえないことではない
展示資料を見ると
清水城からは16世紀初め頃の土師器皿のほかに12世紀の白磁碗が出土している
内城の調査では13世紀の青磁蓮弁文碗がみつかっている
一遍の見た風景の時代である
これは面白くなってきた

川上町の川上城は16世紀前半にちなむ
苦辛城(これを「くらら」城と読める人はそうはいない)も16世紀前半
御所ケ原城に近い上福元町の菊池城では12世紀の白磁や黒色土器、土師器、滑石が出土している
下福元町の谷山本城は島津に対抗した地元の谷山氏の本拠で鎌倉から室町時代という
南北朝期の城塞を明らかにする手がかりは鹿児島にたくさんある
これは面白くなってきた

2007年11月23日 (金)

鳥羽離宮の方法

以前に書いた鳥羽離宮の文章を見直しながら再び話しをしている
基本的な見方を変える必要は無いものの
伝えるべきことの本質への流れと
曖昧な説明をチェックする
先日の勉強会では、Mさんが実に的確なコメントをくれた
日々逞しくなっている姿を実感でき、とても嬉しかった

いまさら繰り返すまでもないが
歴史研究でもちいるデータは、あくまで本来あった出来事の痕跡のほんの一部である
しかもそれも往々にしてその出来事をそのまま伝えているとは限らない場合もある
そんな制限付きのデータをいかにしてより合理的に結びつけて説明するか

これまでさまざまに試みられてきた歴史の方法に対する模索であり格闘である
さまざまな資料や史料の研究はそのために鍛えられ現在にいたっている
ゆえ
これからの研究も、当然その経験のうえですすめなければ意味がない

一方でこの20年ほどで急速にすすんだ数量的な取り組みは
これまでの資料や史料の研究の方法では、それが望ましいと思いながら
物理的な限界から出来なかったもので
さまざまな歴史情報がデータベースとして公開されるようになって
大いに期待されている分野である

ただし注意しないと
この方法は、数値がもっている特性によって
より、その本来の使われ方を意識しようとすればするほど
歴史叙述のリアリティを減らしてしまうきらいもある
さきに言ったように
歴史情報というものは、あくまで本来の出来事のほんの一部にすぎないのだから

それではどうしたらいいのか
資料や史料に対する科学的な姿勢と、その解釈における豊かな創造力
これまでも多くの先学がめざしてきた
この両者の美しい調和、あるいは合理的な調和
を支援するための
歴史研究にふさわしい、あるいは歴史研究にあった数量分析の考え方を
提案する必要があるのだろう

それを読み、あるいはその話しを聞く多くの読者や聴衆が納得してくれるのは
やはりこの合理的な調和を創りあげることができる
歴史の見方と考え方にたいする経験力である
それにはもちろん以前に南河内でおこなった
複雑にみえる全体をミクロとマクロの視野で合理的に説明する方法も必要

鳥羽離宮の方法は実に大きな可能性を秘めていると思う

余談だが
山陽新幹線はネットワーク使いにとってとても悩ましい路線
つながったと思ったらすぐ切れる
関門海峡に入る手前で時速300キロのアナウンスが流れる
3連休の初日の瀬戸内は快晴
相変わらず淀と石清水と鳥羽をさまよいながら薩摩へ

2007年11月20日 (火)

文化史特論遠足

気持ちよく晴れ上がった日曜日
午後1時の京都市内は思ったより暖かく絶好の遠足日和となった
例によって北大路駅に集合して船岡山へ
これまで何度も来た場所であるが、その度に新しい発見がある
前回は南斜面の岩盤を多く見ることができた
また毎回、遙か南に京田辺の神南備山が見えないかと気をつけているのだが
今回も雲の向こうに隠れていた
また、京都盆地の西方を望み、嵯峨野の話しもするのだが
今回は木の葉が茂り仁和寺の塔が見えなかった
今後はどうなるのだろうか

東へ建勲神社の石段を降り、最大の白木の大鳥居から参道へ向かう
少し道が折れ曲がるところで北を見ると大徳寺の東築地がみえる
大鏡で有名な雲林院がその先にあった
後でまた登場するので、雲林院の場所を覚えておくように言って東へ進み大宮に出る
今宮神社の御旅所である
目印は有名な御旅飯店
船岡山は平安京と異界の境界線だった
その後、その役割を今宮神社が果たす
その御旅所が船岡山の真東におかれているのは意味のあることで
さらにここが大宮通の延長上に位置しているのも意味のあること
東隣が玄武神社
言うまでもなく平安京の北の象徴である

ここで地図を見ると気がつくのだが
玄武神社と御旅所の間を、緩やかに蛇行しながら北西から南東に斜めにはしる道がある
平安京内では、そんな道はありえず
平安京外の近くでもあまり見かけない
うねうねとはしり、紫明通と堀川の交差点につづく
なんだろうと思いながら東の路地に入ると地面ががくっと下がり谷になっている
今思えば堀川の旧流路の右岸にできた自然堤防だったのだろうか

島津製作所の南の築地のそとをめぐって堀川にでて
ちょっとした用事で紫式部と小野篁の墓を訪ねる
資料によれば、「雲林院の南東数百歩」にあたるという
なるほど

堀川を紫明まで下がって西へ折れ、途中からさっきの自然堤防を下がり西法寺へ出る
安居井である
京都であまり注目されていない鎌倉時代の話しをして大宮へもどり
ふと思いついて櫟谷七野社へ
知る人ぞ知る、やはり鎌倉時代の重要ポイントである
今日の予定は、この後、京都市考古資料館から京都アスニーなのだが
こんなことをしていたらいつたどり着けるかとなるが
まあ、きままな遠足ゆえ、たんきり飴をなめながら
静かな大宮商店がをすぎ、五辻をすぎ、観世井をすぎる

京都市考古資料館では「みやこのうつわ」展が今月まで
ちょうど次回は「かわらけ」の話しなので
大急ぎだがしっかり見学
資料館を出ると3時をまわり風が冷たくなってきている
大宮一条で聚楽第の説明をして
ちょっとした都合で智恵光院で小野篁制作の地蔵尊を拝む
中立売を下がり、下長者から裏門にまわり
出水から浄福寺をとおって内裏を抜ける

承明門跡と内裏内郭回廊跡を通過して下立売を千本に出
縁石に記された朝堂院の施設表示に驚きながら4時半前になんとか京都アスニーへ
以前にタイムマシンナビで来て以来だが
その後、模型の残りが加わり、展示も充実して
京都の歴史を知る絶好の場所となっている
今日歩いた所を、模型と洛中洛外図で確かめ、平安京の地勢を知る
できれば、天井にビデオカメラを付けて、自由に操作して平安京の各地が見られればとも思うが
ちょうど、別室のホールで院政期のパネル展と資料展示が開催されている
日頃見る機会の少ない白河や鳥羽の資料を学ぶ
お疲れさまでした

5時前、暗くなりかけた千本を出世稲荷や朱雀門跡を確認しながら二条駅まで下がる
できれば神泉苑も行きたかったがと思いながら

2007年11月11日 (日)

日本の活力の本質は多様性にあるという話しに深く感銘を

この週末に、愛知県春日井市で、第15回の春日井シンポジウムが開催された
今年のテーマは「日本の食」である

18時40分の奈良駅前は、男性二人の若いグループのミニコンサート
ギターと二胡だろうかとても琴線に触れるメロディーが広場に響く
と、ここまで書いて気がついた
余談だが、ワープロを使うようになってもう20年以上になる
最初は確か富士通のオアシスかその次の機種だったと思う
その間、漢字を忘れるとか色々なことを言われながら今日に至っている
が最近、気になってきたことに文字と表現の関係がある
この数年は、みんなで共感できるように
できるだけやさしい表現を使うように努めてきており
ひらがなにも気を配るようにしてきているが
「きんせん」とか「ひびく」は、やはり、「琴線」や「響く」だと

世界史的な視野の中で日本文化を伝えるという仕事は森先生以来のコンセプトであるが
懐古的でなくとも本来の日本文化を伝え、活かすためには譲れないところがあると思う
ワープロの普及の一方で、これまで以上に意識されるべき時期になったかとも
そんなことを考えながら東名阪から名古屋高速を降りて駅に着くと
そこは、今日本で一番元気な街名古屋
先端のファッションに身を包んだ若者達が歩き、踊り、主張する
これもまた、これまで何度も繰り返されてきた日本文化だとも思いながら
閑話休題

講師は、八賀晋先生、鳥羽市教育委員会の野村隆さん、岩手大学の名久井文明さん、名古屋経済大学の日比野光敏さん、和田萃先生、野本寛一先生、小泉武夫先生、そして森先生
八賀先生は、棗というとても覚えられない漢字の果実について、古墳時代以前に遡るお話しを
野村さんは鯨、名久井さんは木の実、日比野さんはすし文化のお話を
和田先生は主に近世の紀行文にみられる食のお話を
やはり大学の先生として、学部学生に手ほどきされた資料をふまえ幅の広い視野を
野本先生は、昨今注目されてきている「山」のお話豊富な調査経験に基づいた「山」へのアプローチは、さすが学問の深さを感じさせるもの
一番印象的だったのが、このタイトルにもなってることで、先生の表現を借りたもの

同様な言葉は色々な分野で色々な人によって語られてきたが
日本だけにとどまらず、これから先の人類史を導く一番本質的なキーワードだと思う
そしてうちの学部のコンセプトを象徴するキーワードでもある

森先生は日本文化の深層への問題提起を粟から解き明かす
野本先生と同じように、蓄積の学問の重さを実感しながら
いつのころだろうかいくつもの大きな問題が議論され、高まり、注目された
しかし、それもいつのまにか過去のことになった
けれども考えて、見直さなければならないことは少しも減っていないということを思い知らされる
いつもと変わることのない刺激的なお話である
「生涯不熟」という、良い言葉をつくっていただいたことに感謝しながらメモに必死

小泉先生は東海の地域の特質を地形と環境と食から解き明かす
饂飩と蕎麦、鮪と鰤、豚肉と牛肉、雑煮の具、うすくちとこいくち、納豆などなど
さまざまな東西の文化圏の境界にある東海の特質を解き明かす
その代表がやはり東海の食文化を代表するあの食材だと
そしてその訳はと
納得の話しだった

シンポジウムの中で野本先生や小泉先生、そして森先生が言われた
日本文化と食につながる危機感を強く共感し
あらためて森先生の食の記録の偉大さに密かな闘志を燃やしながら
久しぶりに会った二人の卒業生の元気さにほっと安心

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