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2007年11月26日 (月)

大隅正八幡

錦江湾の上には、これ以上ないほど青い空が広がっている
学生時代に初めて鹿児島を訪れた時には、鹿児島駅はとても終着駅の雰囲気が漂う旅情のかたまりだった
それがここなのだろうかと市電の終点を降り、鹿児島駅から休日のハイカーで賑わう日豊線に乗る
国道10号線とJRでいっぱいいっぱいの海岸線を抜け錦江に入るころから
桂林を思わせるような不思議な山並みと豊かな水田がひろがる
なるほどここなら大隅正八幡宮がおかれても不思議では無い

ひとまず霧島八幡宮へ
前日に調べておいた時刻表にしたがい
1時間に1本のバスにあわせて行動する
車が苦手になって以来、各地の公共の交通機関をよく利用するが
インターネットのおかげで時刻調べがすっかり便利になり
今や待ち時間も、まわりを見回す貴重な機会となっている
ただし駅前の足湯に入る余裕はなかった
1時間に1本でもバスがあれば幸いである

鹿児島を訪れるのは多分4度目だと思う
2度目の時は、不思議な4人組で熊本・加世田・鹿児島・都城・宮崎をまわった
とてつもなく楽しい旅だった
ただしやはり遺物見学が中心で、まだ周りを見る段階に達していなかった
今、またあの4人組で回ったら、きっと霧島神宮も必須のポイントになっただろう
いや、もっと上の古宮まで登っていたかもしれないと思いながら
神宮から錦江湾と桜島が見えるのを確認して、地形と史跡に注意しながら霧島歴史民俗資料館へ

昼過ぎに国分へもどる
ここには大隅国分寺と大隅国府がおかれ、城山山頂は隼人城と呼ばれている
今日は昼を食べようと心に決めながら国分寺跡へむかう
途中に黒豚のトンカツ屋があったが昼時でみごとに満員
気がつくと国分寺跡

現在その場所には12世紀代の紀年銘をもつ石造層塔が建っている
調査がおこなわれている最中で、トレンチが中央やや北に設けられている
道へもどると、その先が石垣のきれいな舞鶴城跡
道の向かいにあった遺跡案内の地図によれば
国分の歴史民俗資料館はこの先をうねうねと登った上にあるそうで
道のりはおよそ2キロ
見上げると山頂に展望台が見える
一瞬迷うが、まさかと思いながら、2キロなら登りでも30分でいけると歩き出す
1時間に1本でもバスがあればと思うが、無い
まさか歩いて登る人はいないだろうと思っているだろう車に何台も抜かれながら
それでもソウルの城壁巡りに較べたらかるいかるいと山頂へ

大汗をかいて登ったかいがあって
100円の展望台からは隼人と国分の平野部がすべて一望
北には霧島の山塊が淡くそびえ、南には錦江湾の上に桜島がただよう
西から北へシラス台地が巨大なテーブルのようにひろがる
なるほど上野原とは絶妙なネーミングだと思う
あたかも天竜川の河岸段丘上に形成された縄文集落のように

国分と隼人の平野部は、この巨大なテーブルに囲まれた中
中央を天降川がきらりとひかりながら流れる
これから行く大隅正八幡宮はこの先だと西のテーブルの麓にねらいをつける
国分の歴史民俗資料館で、意外にも多くの古墳時代の資料を見る
あわせて立派なV字溝や建物跡と瓦溜まりのみつかっている国分寺跡の企画展を見ていると
突如なにかの授業らしい大学生の集団が現れる
どこから来てどこを回ったのだろうかと来年のゼミ旅行に思いを馳せながら
5分で山を駆け下りて西へ向かう
ファミリーマートで霧島の水を買い、祓戸神社を通過して参宮橋で天降川を渡る

城山のふもとから大隅国分寺と大隅国府を通過して、天降川を参宮橋で渡った先の突き当たりが大隅正八幡宮である
まさかこのコースを歩いてまわった人はそういないと思うが
まったくこのとおりの配置である
そしてこれは薩摩国分寺と同じ構図
薩摩国分寺は川内川の河口を遡った陸路との交差点で、その海側に新田八幡があった
大隅国分寺は天降川の河口を遡った陸路との交差点で、陸路の反対側にあるのが大隅正八幡宮である
天降川は、ここから手籠川と分かれて細くなる
これは持躰松遺跡と同じ

智真がおとずれた大隅正八幡宮は台地の先端を利用して建てられており
台地の縁辺を流れる小河川が放生川となってまわりを囲み
境内へは石橋を渡って入るようになっている
本殿は、その先の石段をふたつ登った先にあり
さらに本殿の正面が神宮神幸地の浜之市を経て神造島と桜島を臨む南に向いているため
東から登ってきた参拝者は、ここで右に曲がって本殿に入ることになる
石清水八幡宮も五条の若宮八幡宮も本殿の正面は南で東に放生川と橋がある
同じ構図なのだろうか

大隅正八幡は現在の鹿児島神宮
すでに『延喜式』に「鹿児島神社」としてみえ、現在の社殿の北東に位置する石体寺が元の場所と伝える
祭神は天津日高彦穂穂出見尊
宇佐八幡と同様に巨石にちなむ縁起をもち、鹿児島神社の場合は、石体寺で藁薦に覆われた巨石の祀りがおこなわれるという
ただし桜島を意識した隼人にちなむ信仰がそれ以前からあったともいわれ、『今昔物語』や『水鏡』による八幡神に関わる起源伝説については、そのままうけとめるのは難しい

鹿児島神社の名称は10世紀中頃にみえなくなり、長元7年(1034)に石清水八幡宮別当の元命が大宰府から大隅の八幡別宮の支配を認められており、その頃には八幡神の合祀がおこなわれ、あわせて石清水八幡宮の支配下にあったことがわかる
11世紀前半である
淀川では淀が桂川右岸から左岸に中心を移し、石清水八幡の麓に宿院をはじめとする境内ができはじめ、そして瓦器碗が姿を現す頃である

大隅正八幡の発展には行賢という一人の人物が大きくかかわる
彼は、大隅国司だった惟宗氏と称し
(島津が頼朝から守護として任命される以前から、惟宗氏は大隅と関わっていたことになる)
父が国司で在任中の寛治元年(1087)に下向し、寛治2年に宇佐弥勒寺から正八幡宮執印職として補任されている
この行賢の行動が彼の自発的なものだったのかどうかわからないが、同じ年、宇佐八幡宮と共同して大宰大弐藤原実政を追放
惟宗氏による祭政一体となった大隅支配の拡大が始まる
天承2年(1132)、行賢は元の社殿の場所(石体宮)から「八幡」と記された2つの石が出土したと朝廷に報告
正八幡宮の正当性は、これによって確保されることになる

そして興味深い年がここに現れる
行賢は康治元年(1142)に寄進状を作成するが、その中で自らの履歴を述べている
実は、康治元年は大隅国分寺石塔の紀年銘であり、後に登場する大国寺石仏の紀年銘でもある
また隼人塚の場所は正八幡の御旅所と聞く
したがってこれらの石塔の造立は、大隅支配のために活動をはじめた惟宗氏と行賢による、国分寺・国府・正八幡をあわせたイベントの記念碑だった言えるのではないだろうか

そして祭政一致の力によって正八幡宮の所領はさらに拡大する

ところで大隅正八幡宮の一遍聖絵を見ると、左手に台地縁辺を流れる川が描かれており
本殿は右手を正面にして、その先に参籠する一遍がみられる
現在、一遍と同じ関係で本殿に向かおうとすると
本殿が角度を変えるか本殿南の台地先端で空中に浮くことになる
にわかにはこの関係を説明することができない

歴史民俗資料館は、本殿の北に隣接している
様々な資料のなかで、小田松木薗遺跡の墓に目が行く
白磁の大きな合子と滑石片と刀子と湖州鏡をもっている
ほかには須恵器が主だが骨蔵器も多くみつかっている
後で隼人塚の展示館でも宝塔を外容器にした青磁の壺の骨蔵器があり
古瀬戸の三筋の瓶子や13世紀代の白磁四耳壺の骨蔵器もある
関西では骨蔵器はあまり見ない
関東の関係なのだろうか

大隅正八幡宮を出て、駅へ向かいながら留守氏の館跡をたずねる
留守とは執印が不在の時におかれた職で
現在も土塁を残している中世の居館跡である
長野県の高梨氏館と同様
不思議なことに
留守氏の館は駅へ向かう道路から一段高い地形の上に立地している
そしてその一段高い地形が、駅へ向かう道路と並行してつづく
駅への道路はやがて緩やかな上りとなり、駅の手前で並行してきた高まりの地形と一緒になる
したがって、留守氏の館が高い場所にあるというより
駅へ向かう道路のうちの、大隅正八幡宮に近いあたりが
まわりより低い地形だったとも言える
振り返るとおおきな窪地の先に神宮の森が見える
高い地形は天降川右岸の広い自然堤防なのだろうか
不思議な立地だと思う
なお、留守は南北朝期以降、石清水八幡社家の善法寺家から紀氏が下向したという
とにかく畿内と関係の深いところである

駅前を通り過ぎて隼人塚史跡館へむかう
元、隼人塚の場所にあったと言われる正国寺の石仏が展示してある
弥勒仏など、大隅国分寺石塔と同じ康治元年(1142)の紀年銘をもつきわめて貴重な資料
展示にも紹介されていたが、隼人塚の石塔は独特の形をしている
一般に多くみられるような笠が連続する十三重塔とは違い
笠と笠の間に方形の軸をもつ
こういった様式の塔は、大隅国分寺塔、(見られなかったが)薩摩国分寺塔、人吉の永国寺塔、同じく人吉の願成寺塔、熊本県湯前町の城泉寺塔、坂東寺塔など
熊本南部と薩摩・大隅の一部に分布しており
時期は大隅国分寺塔との様式の共通性から12世紀を中心に考えられているが、沢家の資料は13世紀とも言われる
そしてこの塔の様式に一番近いのが朝鮮半島の塔とも

そういえばこの塔に良く似た塔を長野市篠ノ井にあるということを写真で見たような
共に平安時代終わり頃
朝鮮半島と北信濃と南九州と
なにがあったのだろうか
やはり今日も昼抜きとなった
今回は日程が限られていたためなにも連絡できなかったが
次回はぜひ南九州の知人と語り合いたい

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