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2007年11月24日 (土)

島津の中世

南海ラピートに似た雰囲気の光線が注ぐウッディなキャビンの九州新幹線は
クルーの丁寧なアナウンスと揺れを感じさせない快適な空間だが
新八代を出てすぐにトンネルに入り、その後もトンネルが続くのが
やむを得ないことだがやはり少し哀しい
このまま博多まで不知火を見ながら乗る日の来るのが待ち遠しい
(平成22年とのこと)
薩摩国分寺は、その九州新幹線に乗って
新八代から20分ほどで渡る川内川の右手前にある

川内川は、さすがに九州第2の河川だけあって堂々として流れる
この川に架かり川内の街をつなぐ太平橋は
明治8年の架橋で、西南戦争で落ちたという生きた歴史の証人でもある
この橋を北へ渡り、東へいったところに泰平寺があり
その脇に秀吉の薩摩で島津との講和を記した石が建つ

薩摩国分寺は、その泰平寺をすぎ、済世会病院と消防署を越えた先の
川内川を見下ろす右岸の段丘上に建つ
<ちょうど金峰町の万之瀬川の持躰松遺跡の場所が同じで、河口を少し遡った陸路との交差点>
道を渡って坂を登ると南門で
少し軸を異にした中門を入ると、その先に回廊にかこまれて
右に塔、左に西金堂、奥に金堂、そしてその裏に講堂がおかれる
川原寺式の伽藍配置で
オーソドックスだがきれいに整備されており
その全貌がよくわかる

薩摩川内市の歴史資料館は、国分寺の段丘を降りたすぐその東脇にあり
入口で、国府跡の調査でみつかった
「ばか?」という文字と踊る女性を描いた土師器碗の大型レプリカが迎える
古墳時代では薩摩に特有な、箱式石棺のような平石をもちいた積石石室がある
大隅は地下式横穴とのこと
ちなみに鹿児島以南はまた別の葬法
古代は国府跡と国分寺跡
1980年代はひたすら古代から中世の土器を調べていたが
国府跡からは、当時を思い出させる黒色土器や高台付きの皿が出ている
10世紀から11世紀だろう
国分寺跡からは錫杖の鋳型が出ている
これは驚き
国分寺瓦をアーカイブしたいなあと思いながら隣の展示を見ると
薩摩一の宮の新田八幡が示され、その位置は神亀(しんき)山の上という
おもわず笑みがこぼれる
もちろん永仁2年銘の花鳥文鏡である

100円均一のくるくるバスで駅へもどる
なにがくるくるバスかと思ったら
なるほど、目的地へ直接向かわず
生活に必要な場所をくるくるまわるバスだった

鹿児島中央駅で指宿枕崎線に乗り換え慈眼寺へ
慈眼寺の駅を降りて山側を見ると巨大な岩壁(のように見える崖)が目に飛び込んでくる
この山が南北朝期に島津氏と覇権を競った谷山氏の谷山本城であることは後で知った

鹿児島市のふるさと考古資料館は平成9年開館
丹青の設計による、ハイテクだけでなく当時の先端のさまざまな工夫と学芸員の意図が活かされた内容の濃い博物館である
なじみのマンローが出迎えてくれ縄文時代の丁寧な展示がつづく
古代の遺跡はまだ少ないのだろうか弥生や古墳もあるが
縄文の次の大きなテーマが室町時代以降である

幕末に一躍脚光を浴びることになる島津氏の登場は
平家の流れをくんでこの地を支配していた矢上氏の後
頼朝に守護として任命されたことに始まる
もともと島津氏は惟宗姓を名乗っていたと言われるが
惟宗氏は、9世紀に讃岐国香河郡とする秦宿禰永原らが惟宗朝臣と賜姓されたことに始まるとされる
(そういえば1165年に河内鋳物師が蔵人所に支配された時の人物が小舎人惟宗兼宗だった。意外なところで登場)
島津の初代忠久が惟宗広言の子で、広言は比企氏と親戚だったために
(母が比企能員の妹の丹後局)
比企氏の乱に際して一時守護を停められたともなるけれど
詳細は不明(惟宗忠康との関係とも)

ただし、いずれにしても島津氏の出自は京および鎌倉にあって(近衛家の家司とも)薩摩との関連は鎌倉時代以降のことになる
<今、九州の若者は関西を飛び越えて東京を目指すという。これが鎌倉時代に遡る関東とのつながりによるものかどうかわからないが、それでは鹿児島の若者はどうだろうか)

島津氏は初代の忠久と二代の忠時は鎌倉で有力御家人として過ごし、蒙古襲来に備えて1275年に3代の久経から九州へ赴く
実は1239年に生まれた智真が32才で再出家して諸国を遍歴する中で大隅正八幡を訪れるのはちょうどその時にあたる
ただし4代の忠宗までは川内の碇山城で
鹿児島市に入ったのは5代の貞久で1341年、場所は現在の多賀山公園にあたる鹿児島駅北の東福寺城だったという
14世紀中頃、南北朝期である
その後、室町初期に、その西の清水城へ移り城下町をもつと言われ、さらに1550年にはその南の内城に移る
内城は現在の大龍小学校で平城である

南北朝期の城郭はきわめて稀である
極楽寺関係の五合桝と一升桝か笠置城くらいしか知られていない
東福寺城とは一体
というわけで一路多賀山公園へ
鶴丸城の黎明館から鹿児島駅の西を抜けて北へ
稲荷川をわたり東へ回り込むと東福寺城の表示がある
登れば稜線を利用した平場がある
掲示板には11世紀半ばに純友の末裔を名乗る長谷場永純が築き、その後矢上氏も利用したというが、これは平安末に遡る風景だろうかと逡巡

山を降り、海側へ出てると桜島が目の前にそびえる
感動して振り向くと多賀山公園がどこかで見た風景にだぶった
稲荷川を狩野川に代えて多賀山を守山に代えれば
ありえないことではない
展示資料を見ると
清水城からは16世紀初め頃の土師器皿のほかに12世紀の白磁碗が出土している
内城の調査では13世紀の青磁蓮弁文碗がみつかっている
一遍の見た風景の時代である
これは面白くなってきた

川上町の川上城は16世紀前半にちなむ
苦辛城(これを「くらら」城と読める人はそうはいない)も16世紀前半
御所ケ原城に近い上福元町の菊池城では12世紀の白磁や黒色土器、土師器、滑石が出土している
下福元町の谷山本城は島津に対抗した地元の谷山氏の本拠で鎌倉から室町時代という
南北朝期の城塞を明らかにする手がかりは鹿児島にたくさんある
これは面白くなってきた

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