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2008年1月 8日 (火)

『新猿楽記』についてのメモ

年末に山崎と淀を経て石清水八幡宮までなんとか行けた
年明けに山を降りて鳥羽で五日間過ごした後で洛中に入る
寒梅研究会の後、嵯峨野帰りのマスターと本当に久しぶりの再会を祝い
Wくんと新田辺まで一緒に帰ってきた後『新猿楽記』について少し考える

予廿余季より以還、東西の二京を歴観るに、今夜猿楽見物許の見事なるは、古今に於て、未だ有らず

慶滋保胤の「池亭記」とうりふたつの書き出しをもつこの文章は、永承七年(一〇五二)頃、藤原明衡が書いた『新猿楽記』の冒頭である。この書は、西の京に住む右衛門尉一家が猿楽見物に来たという設定で、その三人の妻と十六人の娘とその夫または恋人、および九人の息子の容貌・性格や彼らの職業などをこと細かく記したものであるが、その描写から、通常の史料ではうかがい知れない平安時代後期の人々の臨場感あふれる姿や、現代社会にも通じるようなさまざまな芸能と職業が平安京の巷にあふれていたことを知ることができる。
そんな『新猿楽記』の主人公の四女の夫に次のような人物が登場する。

右馬寮の史生、七条以南の保長なり。名は金集、名は百成、鍛冶、鋳物師、ならびに銀金の細工なり。

馬寮とは、後に登場する西園寺氏とも関わるが、中央の政府が用いる馬の飼養を担当した役所で、軍事と交通にも関わったとも考えられている。保とは平安京の行政区画である「町」を四つ集めた単位で、保長とはその長官にあたる。従って「金集百成」とは、軍事や交通に関わった国の役所の役人であり、かつ七条の地区の代表でもある金属加工の職人だったということになる。しかも彼はかなり裕福な人物だったことが、その名前から推測される。
もちろんこのエピソードが当時の事実をそのまま伝えているものではないが、脇田晴子氏が言うように、手工業者と七条周辺との関わりは、多くの史料から知られる

興味を持ったのは、この一家の主人公が西京に家を持っていること
棚橋さんの意見ももっともだとは思うが

またもや少し足踏み

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