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2008年2月

2008年2月28日 (木)

鹿男あをによし(第7回)

玉木宏がビブレに入っていった
極楽湯は柏木町の交差点のパケットのすぐ隣にある
ついつい喜んでしまう奈良県人

3月16日に予定しているJTB西日本の任天堂DS企画で
あらためて烏丸から千本までの二条界隈を調べていたら
面白いことに気がついた

学芸書林の京都の歴史の付図の室町時代の二条室町周辺に不思議な池が描かれている
これが一体なんなのかよくわからないでいた
ところで、今出川で発掘調査を始めた頃だから2003年くらい
御池の室町をあがったところで発掘調査があり中世の二条邸の庭園が発見された
それがとても深いところから見つかり不思議なことだと思っていた

ところが、今回ひとつの地図に平安時代から江戸時代までのコンテンツをおとしていったら
室町の夷川あたりに竹の水という千利休にも所縁の名水の井戸があり
御池の姉小路西に西行水というものがあったらしい
これらの水は、室町あたりを南北に連なっていることになる

平安京の前夜
地面の下に眠る細かな谷のひとつに烏丸の谷があったという
現地説明会の時にも話しに出ていたと思うが
二条邸でみつかった深い地点の池は、竜池の痕跡で
これらの水は、烏丸谷に沿った湧き水の「みずみち」の痕跡だったのである

小川通り沿いに裏千家・表千家・武者小路千家が並んでいるのは
堀川谷の東の斜面の湧き水だと言う
府庁の南西に滋野井の跡があるが
これがその南の続きを示すと思う

地質の専門家ではないので厳密なところはわからないが
西陣の観世水の南にあるのが、晴明神社の井戸と(伝)千代の井
つながるつながる

さあ、来週は「サンカク」の謎が解けるか

2008年2月27日 (水)

宮崎快晴

宮崎快晴
風がなければ暖かい
宮崎のコンビニは楽しい
これからバスで1時間
MIYAKOバスセンターより

宮崎県のほぼ中央で日向灘に注ぐ一ツ瀬川は、実は宮崎を代表する大河川だと思う。河口付近には潟湖とまでは言わないが、まるで安濃津や難波津の様に砂碓をもち天然の良港の条件を持っている
西都市は、その一ツ瀬川によって形成されたひろい氾濫低地が高千穂の山の末端に接する、最後の広い平野部にひろがっている
その平野部があまりに広いために、バスで来てもほとんどそれを意識することはできないが、西都原古墳群の対岸にのびる長い段丘を見ればそれがわかる
西都原古墳群は、一ツ瀬川とほとんど高さの変わらない西都市の中心部から西へ河岸段丘を登った上にある
歩けない距離ではないが、時間を節約してタクシーで行く

もちろん中心は男狭穂塚(おさほづか)古墳と女狭穂塚(めさほづか)古墳
さらに女狭穂塚古墳は全長180mと、畿内の巨大古墳に匹敵する規模をもつ
けれどもそれ以外にも300にのぼる古墳や横穴墓が密集して
さながら古墳銀座の呈を成す
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメという伝説をもち手塚治虫の火の鳥にも登場する記紀神話の故郷で
大正時代に大規模な発掘調査がおこなわれ、その後の古墳研究に大きな役割を果たした

新しくなった考古博物館の展示を堪能し、珍しい円筒埴輪型の土産を500円で買って、風がおさまり春の気配著しい公園を歩いて降りる
女狭穂塚古墳の正面にあるガイダンスセンターで宮崎野菜のかきあげうどんを食べて鬼の窟(おにのいわや)古墳へ
周庭帯だろうか、回りに土塁をもつ珍しい円墳で、横穴式石室の内部を見ることができる
西都原古墳群の最後の盟主の墓と推定されているが、コノハナサクヤヒメにちなむロマンチックな伝説がここでは似合う
酒元ノ上横穴墓の覆屋を見た後、耕耘機の動き出した段丘を降りる
地形を含めた全体で見ればよくわかるが
ひとくちに西都原古墳群と言っても、そのほとんどは一ツ瀬川の流れる西都中心部を見下ろす段丘の縁辺に分布する
全体図を見ると前方後円墳が見事に地形にそって向きを揃えてる
その中のひとつが箸墓に似た形の西都原古墳群で一番古いもの

とても自然だと思うが、一ツ瀬川の自然堤防などを拠点としていた人々にとって
最も良く見えるその背後の高台に自分たちの盟主の墓を築いたのだろう
西都原古墳群で最も多い古墳の位置尉がその関係にある
前期古墳の立地に近く、長安の背後に連なる王の墓の姿ともダブル
そして最後に築かれる小型の円墳群もこの段丘縁辺を意識して築かれている
しかし男狭穂塚と女狭穂塚は違う
この段丘の奥に入った場所を占め、もちろん下の平野部からは見えない
それ以前ともそれ以後とも異なった論理がそこにはあったことになる
いやそれは少し違うかもしれない
先の鬼の窟古墳もまた段丘の中程にある
男狭穂塚と女狭穂塚が造られた時代の論理とそれ以前の論理が違っていると言った方が良いだろう

そんなことを思っていたら
その過程が南山城の古墳の移り変わりと似ていることに気がついた
そして段丘を段丘をおりる途中に日向国分寺跡がある
国分尼寺も国府推定地も近くにあるという
背後の高台に伝説の王の墓をもつ由緒のある場所に
古代の政治の中枢がおかれるのもまたとても自然なことに思った
一ツ瀬川はやはり日向で最も大きな川だったことになる

段丘を完全におりて西都市の歴史民俗資料館をおとずれる
1190年に日向国地頭として下向した工藤左衛門尉祐経の子孫で、1335年に都於郡300町をもらい、伊豆から下向した伊東祐持の城で、都於郡(とのこおり)城跡という
川に臨み5つの郭から構成される丘陵上の城館である
祐持はここで日向一円を支配したという
西都の地はこの時も重要な位置にあった
東国原知事
ぜひ西都に注目を

2008年2月26日 (火)

雨の松浦党

080226_140001 昨日の夕方から降りだした雨はすっかり本降り
悔しいほどに天気予報が当たった
珍しいことだと思いながら松浦で降りる

 西園寺家と東アジア交易の関係については、『民経記』(『故一品記』)の仁治三年(一二四二)七月四日の記事が有名である。それによれば、公経が檜で三間四面の殿舎を造り解体して宋に贈ったところ、宋帝が喜び、銭貨一〇万貫と種々の珍宝がもたらされ、その中には人の言葉を一字違わず話す鳥と、普通の牛の二〇頭の力を持つ水牛がいたという。

 この点について注目されるのが、鎌倉時代末期に西園寺家領の一つとして登場する宇野御厨の存在である。宇野御厨は、現在の長崎県から佐賀県の北部を中心に、平安時代には福岡県から五島列島までの広い範囲におかれた贄所で、『肥前国風土記』によれば、古来より海産物を納め、また馬・牛に富むと伝える。西園寺家との関係は、公経より時代の下がる「西園寺実兼処分状」『雨森善四郎氏所蔵文書』の元亨二年(一三二二)八月一六日条に見え、年貢の小牛が今出川兼季と西園寺実衡に折半して与えられている。

 伊万里では伊万里牛が盛んに宣伝されていたが、これはまさか宇野御厨を起源とするものだろうか。閑話休題

 さらに注目される点は、康和四年(一一〇二)八月二九日の『宇野御厨検校源久譲状案』によって松浦党の祖と伝わる源久が「宇野御厨検校」と称されているように、その中心部が松浦党の勢力範囲と重なっていることである。松浦党は、『明月記』嘉禄二年(一二二六)一〇月一七日条にあるように、すでに公経の頃から海上交通に長けた集団として認知されていた。西園寺家にとっての宇野御厨は、二重に重要な意味を持っていたと考えられる。

 ところでは宇野御厨に関わる「御厨」地名は、現在の長崎県松浦市西部に所在するが、岬をはさんでその東の伊万里湾を望む場所に楼楷田遺跡がある。
 現在は火力発電所がその先に建っており、発掘調査された場所はその進入路となっている。当時の面影をそこから探すのは難しいが、階段状の耕作地の地形がそのまま残っており、それを手がかりトレンチの位置を甦らせることができる。

 発見された遺構は石敷の道路状遺構と墓、たたら状遺構、掘立柱建物跡などで、石敷の道路状遺構は海へ向かい長さは一三〇メートル以上におよぶ。遺物は大量の土器・陶磁器を中心に、滑石製鍋、鞴羽口(ふいごはぐち)やスラグなどの金属加工関連など約一七七〇〇点でを数える。なお土器・陶磁器の内訳では、中国製の白磁碗が最も多く、青磁・陶器・朝鮮製・青白磁と続く。また土器類は在地産の黒色土器や瓦器碗、土師器皿に加え、瀬戸内東部から持ち込まれた東播磨系捏鉢や、亀山系甕もみられる。時期は一二世紀から一三世紀を中心に一部は一四世紀におよぶ。
 遺跡の所在する志佐地区には、寛元二年(一二四四)四月二三日の「関東裁許状」『山代文書』に肥前国御家人の一人としてみえる「志佐六郎貞」が関係する。御厨の大崎には東防という地名が残る。服部英雄さんは楼楷田遺跡からみつかった墨書から、これを「唐坊」と推測する。あわせておそらく志佐氏に関係した「船泊り」周辺の施設ではないだろうか。

080226_144101  振り返ると、右手には悪太郎沢の谷が伸び、左前方に丘陵の先端が見える。そのすぐ脇を現在の国道の旧道が緩やかなカーブで丘陵の鞍部を選んで松浦の街へ向かう
 遺跡を例えば荷揚げ場のような市の様な所とすれば、この丘陵がその本拠となる
 想像を逞しくすれば、不揃いな掘立柱建物は、まさに一遍聖絵に登場する市の風景であり、墓もまたその象徴と言える

 ところで松浦の街を志佐川沿いに約二キロ遡った宮ノ下り遺跡からも中国陶磁器を多く含む古代・中世の遺物が出土し、ここからは緑釉陶器と東播磨系捏鉢および畿内系の瓦器碗がみつかっている。
 これらの資料が西園寺家との関係を直接示すとは言えないが、鎌倉時代において宇野御厨あるいは松浦と瀬戸内および畿内をつなぐ存在が、確実にそこにあったことを具体的に物語っている。

 松浦市の東端には松浦党の本拠と伝える梶谷城跡がある
 一見すると戦国の山城だが、実は海の城とも見える
 鎌倉時代の東アジア史を知るための資料が、この松浦にはいたるところに残っている

 半年ぶりの九州新幹線はやはり快適だった
 鹿児島はにぎやかでいたるところが篤姫だった
 思えば、九州島の北の海から西の海を見ながら南を海を経由して西の海まで来たことになる
080226_212401  なんと贅沢なことか

余談ですが
鹿児島中央駅ビルの地下にあるきびなご鮨で有名なとらや寿司はとても旨い
ちなみに相手は冠嶽山

2008年2月25日 (月)

松浦へ

080225_115201 東京駅にはモバイルコーナーが無いが、新大阪駅にはある
頑張れ東京駅

以前もそうだったが
どうも博多ラーメンとの相性はあまりよくないみたいで
間に合わないと思っていた西唐津行きに
6分の乗り換え時間で間に合ってしまった

080225_161601 080225_162001 唐津から1両編成のワンマンディーゼルに乗り換える
けれどもさすが、JR九州だけあって、黄色のお洒落な車両
唐津城の向こうに亀を見ながら松浦川を遡る


松浦は西園寺の宇野の御厨の中にある
火力発電所の建設に伴う調査で畿内系の遺物がみつかっている
その時は松浦党と中国陶磁器の関係で注目されたが
西園寺の関係も見直してみる必要があると思う

2008年2月24日 (日)

押小路をゆく

Sanjohigasi01_2  Sanjohigasi02 Sanjokarasu01 Sanjokarasu02 3月16日(日)に予定されている京都探索企画があって
今日はその下見
少し早く着いたので、新風館と三井ガーデンホテルの遺跡表示を確認した後

烏丸三条の交差点で合流して東へ

Takaku 東洞院三条を上がって姉小路へ出る直前にあるのが高倉宮の碑
姉小路を東へ曲がり、すぐの路を北へとって、御池に出る東の角にあるのが、在原業平碑Narihira
かつては三条坊門小路と呼ばれた御池通りを東に出ると高倉の向こうに足利尊氏の御所八幡神社Gohohatiman

そのまま御池を北へ渡れば等持寺碑がToujiji

北へ上がれば押小路で二条大路の一筋南
平安時代から鎌倉時代は
この二条大路が高級貴族の邸宅の密集地で、今で言うセレブ街
押小路はその一筋脇の道になる
平安京や京都のイメージはどうしても南北を軸にできてしまうが
この二条大路界隈に限っては軸は東西になる
それは摂関期に二条大路の東の先に頼通の邸宅があったことと
院政期にその跡を再開発して法勝寺を筆頭とする大寺院群と白河上皇の御所が造られたため
そして鎌倉時代から南北朝期も亀山上皇や後深草上皇の御所が二条大路の周辺に築かれるためその風景は続く
けれども室町時代には上京が政治の中心になって、戦国期は上京と下京の間のその他になってしまう
それが時を超えて江戸時代に復活する
Nijo 京都の中心二条城になりその大手からまっすぐ東へ続く二条の先に高瀬川の舟入が造られ、その先は伏見を経て難波の海につながっていく
二条通り界隈は、京都の中でもそんな不思議な歴史をもっているところ

というわけで押小路を西へ烏丸を渡り室町のあたりへ来ると
Higaisanjo 江戸時代は金座のあったところで、中世は二条殿とその池が見つかった場所
さらに西の新町を行けば東三条院跡の碑が
そしてさらにその先には閑院内裏跡の碑と
Kanindairi Myokenji 秀吉の妙顕寺城跡碑がならぶ

Mitui 堀川へ出る手前を北へ折れると全日空ホテルの三井家門
Horikawataki01 Horikawataki02 そして堀川院の滝口跡モニュメント
Horikawa そのまま堀川へ出ればHukui 堀河院の碑と福井藩邸の碑
二条城の大手にあたるこの場所にある福井藩が親藩だったとは気づかなかった

堀川を少し下がって地下鉄入り口に入る
京都は歴史の街なので、地下鉄は遺跡の調査が必須
その成果を展示している場所が烏丸線では丸太町、東西線では二条城駅
Dscn1047 神泉苑関係の展示を見た後
Soseki 3番出口から地上へ出て再び御池通へ
Soseki02 Kuromon 不思議な礎石と、秀吉の黒門の表示を横目で見て

西へ曲がればすぐに神泉苑
Sinsen Sinsen02 弘文院の碑を見ながら北へすすめば、その先はゴールの平安宮です
Kobun

今日は猫の目のように天気が変わり
時折雨や雪交じり突風が吹き抜けた
本番は天気が良いことを願います

2008年2月21日 (木)

鹿男あをによし(第6回)

玉木宏が近奈良の改札を通る姿になんの違和感も感じなくなった

080221_133801 毎月21日にひらかれる弘法市は近鉄東寺駅から西へ大宮を渡った先
起源は鎌倉時代に遡ると言われるが確証はまだ無い
今日は久しぶりに少し暖かい日差しが九条大路に降り注ぎ
東寺前はいつも通りの賑わい
たこ焼きの匂いに誘われながら南門を入り、人波に押されるように露店をのぞいていく
北門まで来てさて戻ろうとして案内板に目をひかれる
鎌倉時代創建で安土桃山時代に少し直しているとのこと
洛中で一番古い建物が上京区の大報恩寺本堂だということは有名で
080221_135501 それ以外は鎌倉時代に遡る建物はほとんど無いと聞くが
建仁寺の勅使門につづいてここもそのひとつとこと
道を戻りながら、三次元アーカイブ実験用に巫女埴輪の人形を500円で購入

今出川の会議が終わったらすっかり薄暗くなっていた
080221_180501 つい先日クラーク記念館の修復が終わって竣工式があったと聞いていたので
少しのぞく
思えばあれから5年たつ
今出川キャンパスの発掘調査の最終年にクラーク館の解体修理が始まり
基礎の確認と、覆屋の基礎工事にともなつ試掘調査をおこなった
クラーク館の床下にもぐった数少ない人間の一人である
貴重な解体修理工事の記録にもつとめた

080221_180601 すっかりきれいになったクラーク館を見上げて
時の流れの速さに感慨を少し
その周囲もきれいに整備されており
今出川7不思議のひとつである牛の石像と井戸もちゃんと戻されていた
噂によれば、牛は夜になると歩き回り、井戸は薩摩藩邸時代のものという
080221_180602 薩摩藩邸といえば今年の大河ドラマ
島津家が近衛家と関係があることはすでに書いたが
番組の中でも近衛家が登場した
そう言えば大丸の西の後に薩摩藩がここに屋敷をおいたは
近衛家の本邸が、すぐ南の現在の烏丸今出川南東の京都御苑内にあり
別邸が新町キャンパスの場所にあったことにもよるのだろうか

先週から『明月記』に少しだけ本気になっている
鳥羽もたくさん出てくるし、六波羅の様子も描かれている
数日前に公経関係の記事にひととおり目を通し
さて次を書こうとして、宇野御厨を見直していたら
その時に頭の隅に引っかかっていたエピソードがどうしても気になってしまい
再び最初から公経の記事を見ることに
迂闊迂闊
気になったことはすぐに記録化しなくては

玉木宏が一生懸命にキツネに話しかけていた京都市岡崎の動物園は
平安時代終わりには白河上皇の法勝寺がその壮大な伽藍を誇っていたが
文治元年の地震で大きな被害を受けたという

さて、堀田の正体は?

2008年2月20日 (水)

あたかも世界の中心は西園寺公経かと思われるような

Saionji

2008年2月18日 (月)

公経と定家

建久七年(一一九六)六月一三日 殿下今夜八条院に参ぜしめ給うと云々(明月記)
建久七年(一一九六)二六歳 蔵人頭
建久九年(一一九八)二八歳 院御厨別当 
建久九年(一一九八)正月一三日 八条殿に参じ、即ち退下す。(明月記)
建久九年(一一九八)正月二四・二五日 八条殿に参ず(明月記)
正治元年(一一九九)二月一七日 宰相中将公経卿・保家朝臣・隆保朝臣出仕を止められると云々(明月記)
正治元年(一一九九)七月一二日 二九歳 院御厨別当をやめる「七月一五日の条。去る一二日、信清卿を以て、御厨別当に補せらると云々。公経卿、遂に以て改めらるるか。籠居の間、猶綸言を蒙る。(明月記)」
正治元年(一一九九)一一月一二日 参議藤原公経の籠居を許す
正治二年(一二〇〇)正月三日 公国・宰相中将、今日出仕し、八条殿并に宮に参ず。(明月記)
正治二年(一二〇〇)正月六日 錦小路東洞院に於いて、雨皮張席等を徹す。(明月記)
正治二年(一二〇〇)閏二月一六日 三条坊門二日慈堂悲田北雅俊卿の堂(跡なり)供養と云々。門前市会おなす。源氏の跡と称し、押し取ると云々。公経宰相中将、輿を閑所に舁(か)き入る(明月記)
正治二年(一二〇〇)八月一〇日 雨猶注ぐが如し。終日蟄居。夜に入りて、北の方に火あり。塩小路万里小路と云々。即ち滅しおわんぬ。(明月記)
正治二年九月七日 御匣殿の里亭に向かい(五条坊城)、病を訪ね申す(腫れ物)。相次いで大宮宰相の許に向かう。(明月記)
正治二年(一二〇〇)一〇月二日 八条殿に参ず。宰相中将の亭に向かう(明月記)
正治二年(一二〇〇)一二月二三日 鳥羽殿に参ず。程無く御船におはします。殿上人の船に乗る。件の船、高屋形。風に向かいて□滞り、前途を遂げ難きの間、船に乗る。皆瀬殿の津に付く。騎馬して御所に参ず。山崎の油売りの小屋に宿す。(明月記)
正治二年(一二〇〇)一二月二四日 一条東洞院に焼亡ありと云々。(明月記)
正治二年(一二〇〇)一二月二五日 去る夜、三条の辺り京極に焼亡あり(明月記)
建仁元年(一二〇一)三月一九日 鳥羽殿に参ず。三人高屋形に乗る(板葺の船、是れ殿上人の船と称す)。下馬して騎馬。総門を入る、先々の如し。御船、釣殿につけ、御弘御所に下りおはします。(明月記)
建仁元年(一二〇一)四月二六日 更に東川原の路より、鳥羽に参ぜしめ給う。北殿なり。勝光明院の門を入り。大宮宰相中将公経(明月記)
建仁元年(一二〇一)一〇月五日 又、先陣、天王寺に参ず。西の門の鳥居の辺りを徘徊す(明月記)
建仁元年(一二〇一)一二月二日 御供して鳥羽に参ず。京に火あり。六条坊門坊城なり。宰相中将(公経)又退出しおわんぬ。大宮大納言の家、焼けおわんぬ。(明月記)
建仁元年(一二〇一)一二月一六日 鳥羽殿に参ず。(明月記)
建仁二年(一二〇二)正月一二日 東富小路を南、三条を東、延勝寺朱雀を北、南大路を東、例の如し。法勝寺西の大路を北し、西の大門より入る(明月記)
建仁二年(一二〇二)正月一八日 冷泉北の地の小家に行き向かい、之を見て帰宅す(明月記)
建仁二年(一二〇二)正月二八日 仍って八条殿に参ず。又左大臣殿(烏丸)に見参せずして退出し、高倉に帰る。(明月記)
建仁二年(一二〇二)三月一日 子の刻ばかりに、四条の町に火あり。四町五条院なりと云々。(明月記)
建仁二年(一二〇二)三月二六日 日出づるの程に鳥羽殿(南殿)に参ず。(明月記)
建仁二年(一二〇二)八月二二日 三二歳 権中納言藤原公経に帯剣を聴く
建仁二年(一二〇二)九月三日 新中納言卿か消息あり。乃ち一条亭に馳せ向かう(明月記)
建仁二年(一二〇二)九月一〇日 九条に於いて輿に乗る。閑宇多幾路(かうたきぢ)より直ちに水無瀬に参じ、宿h所に入る(明月記)
建仁三年二月二〇日 一条黄門の亭に向かう(明月記)
建仁三年(一二〇三)三月一〇日 三三歳 中納言藤原公経に伊予国を給う
建仁三年(一二〇三)九月一五日 黄門殿、御物を北野の辺りに儲くるにより、巳の時ばかりに御共して入道大納言の衣笠の亭に向かう。(明月記)
元久元年(一二〇四)正月五日 京極を南、二条を西、富小路を南、三条を南、東洞院を南し、八条院の東門を入る。(明月記)
元久元年(一二〇四)正月八日 左金吾亭に向かう。除目所望の事、示し合わせて申す。戌の時ばかりに退出し、五辻の小家に向かい、宮女房に謁す。(明月記)
元久元年(一二〇四)八月八日 殿下又御共して、院に参ず。五辻の新御所に御移徙。(明月記)
元久二年(一二〇五)三月二二日 今日、宇治の宝蔵を開かるることありと云々。仍って、大納言殿宇治に向はしめ給う。今夜、持明院宮の孫王(嫡)、初めて参じ給う(明月記)
建永元年(一二〇六)六月二〇日 滋野井泉に御幸おわりて退出(明月記)
建永元年(一二〇六)六月二八日 八条院、明日、歓喜光院より鳥羽殿に渡りおはします(明月記)
建永元年(一二〇六)八月五日 申の時ばかりに、城南寺におはします由を聞き、即ち参ず(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一〇日 牛の時、南殿に参ず。未の時ばかりに城南寺におはします(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一三日 申の時、城南寺におはします。又、御騎馬し、山の方を御覧じ、北殿におはします(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一五日 午の時に参上す。城南寺におはします。又船に乗りて、南殿に参ず。昼より成菩提院に参ず(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一六日 河原に於いて(南門の外、五町ばかり)、おいて御後に参ず。赤江を渡るの間、又馬を渡す遅々たり。相構えて淀の渡りに参ず。御船に乗り、渡りおわんぬ。予、先陣騎馬。本路、鳥羽の西北成菩提院、安楽寿院の北を経て川原に出づ。稲荷に御幸。(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一九日 午終、城南寺におはします。船に乗りて参ず。亥の時に、名謁。両少将・清範・秀能等招引し、月に乗じて左衛門督(かみ)の久我亭にむかう。(明月記)
建永元年(一二〇六)九月一日 馬場殿に於いて御琵琶おわんぬ。京に火有り。後に聞く、高辻室町より五条西洞院におよぶと。(明月記)
建永元年(一二〇六)九月二七日 今朝伝え聞く、官軍、近江の木戸に於いて堂衆を撃つ。小事ありて御方違へにより五辻殿に御幸。御輿なり。(明月記)
建永元年(一二〇六)九月二八日 辰の時に中納言の一条亭に向かう(明月記)
建永元年(一二〇六)一〇月八日 午の時ばかりに鳥羽殿に参ず(明月記)
建永元年(一二〇六)一〇月一九日 午終ばかりに、按察、北嵯峨の堂にむかう(明月記)
建永元年(一二〇六)一〇月二二日 中納言のもとに向かう(五条坊門西洞院。一昨日より、本所造作に渡らるる)(明月記)
承元元年(一二〇七)正月三日 次いで黄門の一条新亭に向かう(明月記)
承元元年(一二〇七)四月三〇日 坤に火有り。後に聞く、丹後二位の宅より(業兼、六条坊門町に居住)、大宮東、五条坊門南、皆以て焼亡すと云々。(明月記)
承元元年(一二〇七)五月二三日 八条院に参ず(明月記)
承元元年(一二〇七)一二月一五日 新大納言亭に向かう(一条亭)。(明月記)
承元二年(一二〇八)四月二一日 一条亜相の亭に向かう(明月記)
承元二年(一二〇八)四月二五日 三八歳 中納言藤原道家が公経の娘と結婚。公経の一条亜相亭
承元二年(一二〇八)四月二七日 今日皮堂に御幸(明月記)
承元二年(一二〇八)閏四月一五日 夕、中御門富小路に向かう(少将雅経朝臣の家なり。之を借る。帰京の始、必ず京中の家を用いるべしと)前左大弁、今日入洛。亥の時ばかり、南方に火あり。大風に炎上し尋常にあらず。後に聞く。火、北小路東洞院よりいず。七条の東西十二町(洞院の西、朱雀の東)、朱雀の南北十二町(七条以北)、六条東洞院より五条坊門朱雀の辺りに至る(明月記)
建暦二年(一二一二)正月二日 密かに八条の旧院に参じ、黄門に謁し奉るの間、少将来る。(明月記)
建暦二年(一二一二)正月一一日 午の時ばかり、南の方に火有り。六条の南、東洞院の東、佐女牛、高倉に及びて滅すと云々。(明月記)
建暦二年(一二一二)正月二一日~二月一日 天明に華洛を出て、孤舟に棹さす。漸く黄昏れに及びて神崎の小屋に着く。二二日未明、月に乗じて路に赴く。昆陽池を過ぎ武庫山に入る。武庫河大いに溢れ、遙かに下流を尋ね、申の刻に及び湯泉の孤館に着す。仲国朝臣の湯屋に宿す。二三日、終日沐浴。二九日、輿に乗りて路に起つ。田野を渉りて小林の庄に入る(資経領)。其所の堂に於いて食をはむ。次いで武庫川を渡る。小屋野にいでて池を過ぎず。申の時、神崎に於いて舟に乗る。昏に臨みて水田の小屋に着く。一日、未明船に乗り、未の時、赤江の下に於いて車に乗る(明月記)
建暦二年(一二一二)四月八日 伝え聞く、事明院宮御出家と(明月記)
建暦二年(一二一二)六月二八日 安楽寿院に於いて八条院のために一日八講あり(明月記)
建暦二年(一二一二)七月一二日 巳の時、南の方に火有り。人言う。綾小路町と云々。(明月記)
建暦二年(一二一二)一〇月七日 一条亜相の亭にむかう(明月記)
建保元年(一二一三)七月二一日 近日、住所坊門院に居て頓滅し給う。一条(南)室町の東なり。院よりこれを賜り、歳末より槐門となすと云々。(明月記)
建保元年(一二一三)一二月三日 一条亜相の亭に向かう(明月記)
建保五年(一二一七)二月八日 亜相、又水無瀬殿山上に新御所を造営(眺望をなすのみ)。此の前後の土木、そうじて海内の財力を尽くす。又北白川の白砂を引くと云々(遼遠耳を驚かす。件の白砂を振ひて之を運ぶと云々)。(明月記)
建保五年(一二一七)二月九日 河陽土木の功、せんかんの石、仁和寺宮庚申の御営み、毎事耳を驚かす。海内の財力、末世更に陵遅なきか。金銀錦繍、雲の如く、雨の如し。(明月記)
建保五年(一二一七)二月一三日 庚申、西郊の御営み、金銀、唐物山岳の如し。向後の親王達、兼ねて以て用意をいたすと云々。海内の富、更に上古に耻ぢざるか(明月記)
建保五年(一二一七)二月二四日 或者語りて云う。河陽の上下公私土木の営み、分かち給わる所の地、面々に経営す。魚市を移さる。上下ことさらに商賈の営み有り。亜相、新御所を造営さる。山上に池有り。池の上に滝を構えらる。河を塞ぎ山を掘り、一両日に水を引く。又件の滝に大石を引くためと云々。国家の費、只此の事にあるか。(明月記)
建保五年(一二一七)一一月八日 四七歳 権中納言公経、後鳥羽の勘により籠居
承久元年(一二一九)一一月一三日 四九歳 大納言兼右近衛大将兼右馬寮御監藤原公経
承久三年(一二二一)一〇月三日 五一歳 右近衛大将藤原公経の下亭(一条町)が焼亡
承久三年(一二二一)閏一〇月一〇日 公経五一才を内大臣に任ずる
貞応元年(一二二二)六月八日 五二歳 内大臣公経が高野山奥院拝殿に常燈を供える
貞応元年(一二二二)八月一三日 公経を太政大臣に任ずる
貞応二年(一二二三)正月一二日 五三歳 高陽院焼亡で後高倉院が公経の一条相国亭に御幸
貞応二年(一二二三)四月二日 公経、太政大臣を辞す
元仁元年(一二二四)一二月二日 五四歳 一条公経、北山堂供養西園寺と号す。北白川院と安嘉門院も臨御
嘉禄元年(一二二五)正月一三日 夜に入りて前相国亭に参ず。持明院御所を造営(二月事始め。六月上棟。八月御移徙)。(明月記)
嘉禄元年(一二二四)正月一四日 中将と相共に北山に向かう。勝地の景趣を見、新仏の尊容に礼す。毎時今案ずるを以て営み作さる。毎物珍重。四十五尺の瀑布の滝碧く、瑠璃の池水、又泉石の清澄、実に比類なし。未の時ばかりに、廬に帰る。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)二月二三日 五五歳 安嘉門院と公経が北山殿に御幸
嘉禄元年(一二二五)三月四日 夜半ばかり、南の方に火有り。下人を以て見しむ。七条坊門油小路より南に赴き、梅小路におよぶ(明月記)
嘉禄元年(一二二五)三月一一日 南の方に火有り。少将弁の辻子の内の火なり。辻子の内の湯屋より出て、南に赴き二条に出づ。室町に渡らず、東洞院を出でず。中将、北山に在り。火滅して帰り来たり(明月記)
嘉禄元年四月二日 夜に入りて大相国(公経)の亭に参じ(明月記)
嘉禄元年(一二二五)四月一一日 前太政大臣と右近衛大将の実氏の邸宅で連歌会を催す
嘉禄元年(一二二五)六月一五日 夜前、殿下一条室町に渡りおはしますと云々。京極寺の凶徒、猶勇気を示さんがため、三条を西に行き洞院の辺りを徘徊す。多く冑腹巻を着し、又白布を以て頭を結ぶ。又菖蒲、薦等を以て背に結び付く。古今、飛礫を打つ者有りと雖も、全く此の如き事無し。武士之を聞きながら制止せずと云々。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)六月三〇日 前太政大臣公経の一族を特に禁裏に近侍させる
嘉禄元年(一二二五)一一月五日 室町殿に参ず。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一一月一五日 南隣の地口二丈ばかり、鞍馬の住僧、北小路出雲の路地を以て取り替えんと欲す。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一一月一六日 伝え聞く、施薬院の使、夜々宣陽門院の御腹を取り奉る。此の事験あるに依り、六条殿の近き辺り忽ち諸々の御領をあて、華亭を造らる。又倉□を造り、海内の財宝を積まる。夜に入り中将来る(北山より)。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一一月一七日 先日の仰せにより、相具して室町殿に参ず。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月二日 夜前の火、六角堀川の東と云々(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月三日 中将(北山より)□。東大寺衆徒の訴訟嗷々(ごうごう)。大仏殿を閉し、火を放つべきの由披露すと云々。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月五日 日出づるの後、門を出て北山の勝地に向かうの間、相国過ぎ給う。総門の南に於いて中将馳せ来たる。堂前に参じて暫く眺望し、又所々を歴覧す。仙窟に入るが如し。暫く爐辺に休むべきの由、其れ有りと雖も、今明堪えざれば、心無きの思いを成す。室町殿に参会するの間、信実朝臣来臨。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月一六日 午の時ばかりに室町殿に参ず(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月二二日 亥終ばかり、東に火有り。隣家の如し。川崎門前の路の西なり。川崎の西の門焼けおわんぬ(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月二九日 大相国の亭に参ず。室町殿に参じ見参す(明月記)
嘉禄二年(一二二六)正月三日 朝陽、霞に映ゆ。今日、右幕下出仕に相具し給うの由を聞く。密かに一条空町(室町か)の辺りに出て之を見る(明月記)
嘉禄二年(一二二六)正月一九日 申の時ばかりに室町殿に参ず。(明月記)
嘉禄二年(一二二六)二月二五日 午の時ばかりに室町殿に参ず(明月記)
嘉禄二年(一二二六)三月一〇日 教成卿、一条の相国亭において、女院の(明月記)
嘉禄二年(一二二六)四月三日 冷泉の方大白の方に依り、吉田に宿せんがため、酉の時ばかりに河東に赴くの間、前行する使の者帰りて云う、大相国すでに渡りたまう(明月記)
嘉禄二年(一二二六)四月九日 晩頭、五辻の三位来臨(明月記)
嘉禄二年(一二二六)四月二三日 夜に入り、宰相北山帰路の次でに来臨(明月記)
嘉禄二年(一二二六)五月三日 午の時ばかりに室町殿に参ず。見参の後、相国参じ給う(北山より方違へのためと云々)(明月記)
嘉禄二年(一二二六)六月二二日 吉田の泉に参ず(相国渡りおはします)(明月記)
嘉禄二年(一二二六)七月三日 未の時ばかりに五辻三位(知家)卿来臨(明月記)
嘉禄二年(一二二六)七月二一日 両女院持明院殿修造するの後、御渡り。(明月記)
嘉禄二年(一二二六)八月二〇日 未の時ばかりに月輪殿に参ず。漸く晩頭に及びて武衛禅尼又参ず。南庭の岸水のために壊損。北山の土を引きて築かると云々。酉の時ばかりに東一条院に参ず(明月記)
嘉禄二年(一二二六)九月二日 夕に示し送り、西園寺に参ず(明月記)
嘉禄二年(一二二六)九月一七日 黄昏、大相国の亭に参じ(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一〇月一三日 室町殿に参ず。南の方に火有り。二条室町と云々。火、四条の南室町より出で来、西町の南に出で、五条坊門烏丸に至り、大政所旅所の北に於いて止まると云々。(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一〇月一七日 高麗と合戦一定と云々。鎮西の凶党等(松浦党と号す)、数十艘の兵船を構え、彼の国の別嶋に行きて合戦(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一〇月二三日 夜深く北小路の小屋に宿す(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一二月一〇日 西園寺八講の初日(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一二月一二日 午の時ばかりに一条殿に参ず。妙音院御対面の間に見参す(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一二月一六日 今出川の新所に向かいて謁し申す。月登りて家に帰る。今日始めて持明院御所に参ぜらるるの次で、女子の事申し出でらる(明月記)
安貞元年(一二二七)正月一九日 五七歳 相府河内の龍光寺(大東市?)に方違へ(明月記)
安貞元年(一二二七)二月二日 南の方に火有り。三条の町、室町の東におよぶと云々(明月記)
安貞元年(一二二七)二月三日 巳の時ばかりに鳴動大地震(明月記)
安貞元年(一二二七)三月九日 昨日、北山懺法結願(明月記)
安貞元年(一二二七)三月一〇日 前太政大臣公経を後院別当とする
安貞元年(一二二七)三月一二日 二条の壬生に於いて乗り替えの馬に騎す。赤江の大渡り組船を以て、御車并に出車を渡す。左宰相中将、南山に参詣。明暁に進発と云々。昨日相国(幕下)同車し給い、室町面の門にたたる。(明月記)
安貞元年(一二二七)三月二〇日 白き瑠璃の器六に梅桜の花を盛り、又唐綾の折敷に青き瑠璃の酒器を居え、傍らに小さき瓶子を置く(明月記)
安貞元年(一二二七)三月三〇日 別当の所々に於いて、件の年貢を停め、鳥羽の堤を築くべき由。鳥羽の修理を営むべし(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月三日 法性寺五大堂の鐘盗み取る。又七条院御堂の仏具等悉く之を取る(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月三日 夜に入り、宰相北山より来たる(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月二二日 信州の事、猶五万疋進め済すべきの由(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月二五日 今日、室町面に築垣を築かる。(明月記)
安貞元年(一二二七)七月一二日 炎旱盛んにして、草木枯槁す。昨日、相門吉田の泉造り改め、移徙さると云々。(明月記)
安貞元年(一二二七)七月二六日 相門室家の不例に依り、明旦西園寺に渡らる。(明月記)
安貞元年(一二二七)八月一日 北山に参向して謁し奉る(明月記)
安貞元年(一二二七)八月七日 前太政大臣公経夫人の全子赤痢で卒す
安貞元年(一二二七)八月九日 北山に詣づ。今日、堂上に昇る。泉の方に於いて謁し奉りて語る。(明月記)
安貞元年(一二二七)八月一九日 北山に詣づ(明月記)
安貞元年(一二二七)九月二五日 北山正日の仏事。又北政所の御仏事、今朝修せらると云々。信濃に下し遣わしし使者法師帰り来る。
安貞二年(一二二八)一〇月一一日 五八歳 前太政大臣公経に牛車宣旨あり
寛喜元年(一二二九)三月一四日 五九歳 稲荷祭の馬頭、毎年五月五日、六条以南の富有の下郎を指すと云々。(明月記)
寛喜元年(一二二九)五月一四日 後に聞く、今日持明院御八講結願。(明月記)
寛喜元年(一二二九)五月二一日 宰相の門、河尻の方に御共(方違えと云々)。(明月記)
寛喜元年(一二二九)五月二三日 一昨日、水田に方違え(小屋有り)。江口の遊女群参す。(明月記)
寛喜元年(一二二九)六月五日 去る夜、一条富小路の小屋に群盗入る。巳の時ばかりに宰相来たる。昨日、殿下吉田に渡りおはします。相門又北山(参ぜず)。明日、国通中納言西郊の家に堂を造りて供養す。(明月記)
寛喜元年(一二二九)六月九日 春の比より巷説、頻りに石を称す(これ隆石と云々、日来相坂の方にあり、雑人云う、此石霊有り、卿帰るにより、風雨を以て常に止まずと云々、相国其の石を運び取り、此の山に引かると云々)一日比、牛十七頭を以て引き取られ了んぬと云々、又云う、其の石に穴有り、獅子の頭に似ると云々、春の比の疾病又石の病と称す。是れ又虚言か。(明月記)
寛喜元年(一二二九)六月一二日 一条富小路の虚空蔵の堂、修理を相加えるためなり(明月記)
寛喜元年(一二二九)七月二日 昨日、相門見物。検非違使友景宅の小門に桟敷をなす。又吉田泉、猶一条河原の方に見物と云々。(明月記)
寛喜元年(一二二九)七月二八日 夜に入り宰相来る。吉田泉に於いて納涼(明月記)
寛喜元年(一二二九)八月一一日 夕に宰相来る。吉田(泉水絶えおわんぬと云々)より来る。殿下御雑熱軽忽の事、猶恐しく思うにより、押して大黄をつくるの由仰せらる。相門唯今参じ給うと云々。宰相、室町殿を去り、私に女房周防大炊御門の小屋におるべしと云々(明月記)
寛喜元年(一二二九)八月一八日 今日御霊の祭りと称し、上の辺りの下人経営。金銀錦繍を着して渡る。今出川に相門見物さる(明月記)
寛喜元年(一二二九)八月二五日 明後日、有馬湯に下向せしめ給う(一条相国新造の湯屋と云々)(明月記)
寛喜元年(一二二九)九月一三日 春日に参詣
寛喜元年(一二二九)一〇月一六日 昨日、北山室家墓所の小堂供養(明月記)
寛喜元年(一二二九)一〇月二〇日 従一位前太政大臣公経に左右近衛府生以下為随身(公卿補任)
寛喜元年(一二二九)一〇月二二日 午の時ばかりに今出川に詣づ。室町の亭に渡られおわんぬ。夕に室町殿御覧のため渡りおはしますと云々。(明月記)
寛喜元年(一二二九)一二月一五日 後に聞く、春日小路室町の辺りに火有りと云々。前大相国、兵仗辞退の表を上らると云々(明月記)
寛喜元年(一二二九)一二月二〇日 公経、兵仗を辞す
寛喜二年(一二三〇)正月一四日 六〇歳 公経、藤原為家の吉田第に赴く「相門行幸を経営。私に方違え、宰相の吉田に渡らると云々(明月記)」
寛喜二年(一二三〇)正月一五日 公経の第に行幸
寛喜二年(一二三〇)正月一七日 暁より吉田に会合(明月記)
寛喜二年(一二三〇)閏正月一一日 相門に詣づ、只今、西園寺に渡らると云々。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)閏正月一四日 夕に宰相来たりて言う、明暁相門水田に御座す。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)二月二八日 来る朔日に京を出て、二日始めに湯屋に宿すべし。一一日、又始めに水田新造の屋に宿し、一二日に帰るべし(明月記)
寛喜二年(一二三〇)三月一日 公経、有馬へ赴く、二月二四日 湯山へ下向、吹田新造屋
寛喜二年(一二三〇)三月一八日 侍来たりて言う、吉田に渡り給いおわんぬと(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月五日 明日、大相方違えのため、水田に向かう(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月六日 人々言う、水田御方違えの間、去る四日住吉の方を御覧ずと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月一七日 松尾西七条の神人、桂の供御人等を訴える。今夜御方違え、別当の家に行幸と云々。相国、又明暁水田に方違え。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月一八日 公経、方違により吹田へ
寛喜二年(一二三〇)四月三〇日 明日、西園寺故亡室千日追善(明月記)
寛喜二年(一二三〇)五月二日 公経、実氏と吉田西殿で会飲
寛喜二年(一二三〇)六月二一日 即ち馳せ出で、相具して円明寺を覧る(寛済法印譲り奉る)。未の時ばかりに直ちに吉田に帰らる(明月記)
寛喜二年(一二三〇)七月二七日 今暁、相門又円明寺に渡らる(明月記)
寛喜二年(一二三〇)七月三〇日 去る夜の夜半ばかりに女房局より送りていう、少女謬りて鏡を打ちわり(板に落としてわる)、禁忌あるの由之を聞く。只其の鏡を鋳改むべし。其の鏡鋳改め、螺(ら)に繋ぎ、日吉社に奉りおわんぬ(明月記)
寛喜二年(一二三〇)八月一五日 北山に詣でおわんぬ(明月記)
寛喜二年(一二三〇)八月二五日 相門又円明寺、宰相供奉す。暁更に京を出づと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)九月二七日 夜前大相・幕下、殿に参じ給うと云々・明日相門又円明寺。紅葉の盛りと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)九月三〇日 一昨日相門、円明寺より松尾・法輪・嵯峨等の紅葉を歴覧の遊びおわんぬ。嵯峨に於いて夜に入ると云々。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)一二月一二日 関白道家 公経の西園寺第へ赴く「宰相西園寺に入る(又新造の屋に移徙)。仁和寺に内々の御贈り物、相門調へ献ぜらる。錦を火桶に埋める(銀の鉢に砂金。紅の薄様を以て之を裏む)(明月記)」
寛喜二年(一二三〇)一二月二一日 但し今朝相門・幕下北山遊びと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)一二月二五日 宰相吉田に大相渡らる。青侍等言う、持明院殿に行幸。輦(くるま)路一条町(北に行き)、中宮御所の北路(東に行き)、室町を北と云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)正月一六日 六一歳 北山第に弓会をおこなう
寛喜三年(一三二一)二月七日 藤原定家に障子の絵に物語の和歌を書かせる
寛喜三年(一三二一)二月二七日 今暁、大相円明寺に方違(明月記)
寛喜三年(一三二一)三月三日 相門明後日湯山に下向の由、日来出で立たるるの由之を聞く(明月記)
寛喜三年(一三二一)三月五日 今夕、御方違え持明院殿になすべし(明月記)
寛喜三年(一三二一)三月一七日 公経、有馬へ赴く
寛喜三年(一三二一)三月二二日 慟哭すべく長大息すべき事耳目に満、間断なし。一の中納言中将を歴るの人、凡人のために超越され、一の執柄の息二位中将となし、卑賤の参議三人登用。一の左相府一旦非分の大将を授けらると雖も、同圏の牢に異ならず。即ちその両職を止められ、御父祖御自身並びに家の叔父子息、故無く四人を解却、耻辱(ちじよく)一時に計り会う。今度御摂籙の光華、椒房(しようぼう)寵愛の降誕、只、御一門の耻となす。大相一人の任意、福原平禅門に超過するか。賤老身上の事に於いては、更に世間の道理にあらず。又当時の謬挙にあらず。只、冥助なきに依り毎度障難あるか、悲しむべきの運なり。灸燗れ病侵し、憂い切に、魂消ゆ。眠らずして暁鐘を聞く(明月記)
寛喜三年(一二三一)七月一六日 公経病む
寛喜三年(一二三一)八月一日 南の方に微火有り。雑人説、尊勝寺残る所の塔と云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)八月一五日 公経、昨日吉田にて競馬を催す「昨日吉田泉 競馬と云々(明月記)」
寛喜三年(一二三一)八月三〇日 来る四日、太相湯山の儀やむ。しかも、内府相共に水田に行き、有馬湯を運びて浴せらるべし(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月三日 相門水田延引(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一一日 内府、追ひて水田に向かうと云々。湯治の名有りと雖も、其の本意只遊放をなすと云々。和泉の境、又葦屋、布引、すま、明石をみらるべしと云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一五日 明後日両殿下円明寺におはします。武衛、水田より馳せて参会。天下只遊放するか。おのおの海内の財力を尽くすと云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一六日 相門、十四日葦屋を歴覧の後、行寛房に宿せらる。その後水田に帰る。昨日湯を始めらる。ほかに出で行く有るべからずと云々。桶二百を以て毎日有馬の湯を運ぶと云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一七日 道家、公経の円明寺に赴く
寛喜三年(一二三一)一二月二二日 六一歳 公経病により出家する。法名は覚勝、准三宮
貞永元年(一二三二)三月九日 六二歳 公経、西園寺成就院で三十七壇愛染王供を修す
貞永元年(一二三二)五月二八日 道家夫妻と教実が公経の今出川新第へ赴く
天福元年(一二三三)正月二九日 六三歳 公経の今出川亭に方違
天福元年(一二三三)五月一九日 公経病む。腹病 今出川北亭
天福元年(一二三三)五月二一日 禅門一昨日例の方違え(河陽)。腹病発せられ、事のほか煩わさる。帰路より直ちに西園寺に渡られおわんぬ。禅門日来の如く今出川に座せらる(北亭)。(明月記)
天福元年(一二三三)五月二六日 公経、三浦光浦を河崎泉亭に招く
天福元年(一二三三)六月一三日 実任、無礼を咎めるか、飛礫をもって其の後ろを打つ(明月記)
天福元年(一二三三)七月九日 今日禅門・内府(公経・実氏)水田に方違(明月記)
天福元年(一二三三)七月一七日 堀河上皇、公経の吉田泉亭に御幸
天福元年(一二三三)八月二日 当時南都に猫胯という獣出で来。一夜に人七八人をくう(明月記)
天福元年(一二三三)八月八日 公経病む
天福元年(一二三三)八月一五日 西園寺に参ず(明月記)
天福元年(一二三三)八月一九日 今暁、禅門有馬に下向さると云々(明月記)
天福元年(一二三三)八月二一日 禅門の悲歎、今度又比類なし(明月記)
天福元年(一二三三)九月二六日 禅門の亭に参ず(明月記)
天福元年(一二三三)一二月二八日 公経の今出川第に方違
嘉禎元年(一二三五)正月九日 六五歳 公経の今出川第に方違
嘉禎元年(一二三五)正月一四日 節分の夜、両殿・北政所以下今出川に渡りおはします。昼より。後亭に御座す。海内の財力を尽くす(明月記)
嘉禎元年(一二三五)三月一二日 宇都宮頼綱、名馬を公経に贈る
嘉禎元年(一二三五)五月二七日 公経 吹田に方違
嘉禎元年(一二三五)六月三日 八幡(薪庄)と春日(大炭庄)隣を占め、耕作の水を論ず。(明月記)
嘉禎元年(一二三五)八月一七日 公経の今出川第焼亡
嘉禎元年(一二三五)一一月二三日 禅室温泉に今暁已に京を出でられおわんぬ(明月記)
嘉禎元年(一二三五)一二月四日 公経、吹田に赴く「暁更、吹田に赴くと云々(明月記)」
嘉禎元年(一二三五)一二月二〇日 禅室、日吉に参詣し一宿(明月記)
嘉禎二年(一二三六)二月二二日 六六歳 薩摩守小鹿島公業の所領の伊予宇和郡を公経の所領とする 常磐井入道太政大臣家
嘉禎三年(一二三七)正月一日 六七歳 道家、公経の今出川亭に方違
嘉禎三年(一二三七)一〇月二日 太政入道公経、四天王寺へ参詣
嘉禎三年(一二三七)一一月一四日 公経の北山西園寺へ行幸
暦仁元年(一二三八)二月二二日 六八歳 公経の第へ赴く
暦仁元年(一二三八)二月二三日 公経、泰時と会見
暦仁元年(一二三八)閏二月三日 公経、頼経を招請して饗す
暦仁元年(一二三八)三月一九日 公経、頼経を北山別業に招請する
暦仁元年(一二三八)一〇月一二日 頼経が父の道家の一条亭と公経の今出川亭を訪ねる
暦仁元年(一二三八)一〇月二八日 公経の今出川第に方違行幸
暦仁元年(一二三八)一一月一一日 公経の政所、安芸の国沼田荘地頭美作守小早川茂平の申請による
延応元年(一二三九)正月二六日 六九歳 公経、西園寺五大堂において天台座主
延応元年(一二三九)六月一四日 祇園御霊会により公経の一条今出川第に行幸
延応元年(一二三九)八月一四日 公経今出川第で競馬
仁治元年(一二四〇)正月四日 七〇歳 公経の西園寺に行幸
仁治元年(一二四〇)七月二〇日 公経、西園寺で逆修をおこなう
仁治元年(一二四〇)閏一〇月二八日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治二年(一二四一)四月四日 七一歳 公経第にて舞楽
仁治三年(一二四二)三月一日 七二歳 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)四月一五日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)五月一〇日 公経の今出川亭で舞楽
仁治三年(一二四二)五月二八日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)七月四日 あるものいわく、公経の唐船帰朝、銭貨一〇万貫、種々の珍宝、能言鳥一羽、水牛一頭、鳥は人の言葉を一字違わず言う、水牛は普通の牛の二〇頭の力、公経は檜で三間四面の館を造る、山城槇島に花亭を造営
仁治三年(一二四二)七月一〇日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)八月二二日 公経の今出川亭に方違行幸
寛元元年(一二四三)三月二七日 七三歳 公経、中宮の御産祈願
寛元元年(一二四三)四月八日 中宮、公経の今出川亭に退出
寛元元年(一二四三)六月二一日 公経病む、瘡病
寛元元年(一二四三)九月二日 公経、今出川第で五壇法を修す
寛元元年(一二四三)九月 公経、住吉社に参詣、槇島へ赴く 常磐井入道実氏
寛元元年(一二四三)一〇月七日 公経、熊野に参詣
寛元二年(一二四四)二月二三日 七四歳 公経、今出川亭で舞楽
寛元二年(一二四四)二月二六日 公経、西園寺五大堂で七仏薬師法
寛元二年(一二四四)八月四日 中宮、公経の今出川亭に方違行啓
寛元二年(一二四四)八月二九日 七四歳 公経 薨ず
宝治二年(一二四八)八月二九日 実氏、西園寺で公経のために法華八講

2008年2月17日 (日)

頭の中は西園寺

建久七年(一一九六)二六歳 蔵人頭
建久九年(一一九八)二八歳 院御厨別当 
正治元年(一一九九)七月一二日 二九歳 院御厨別当をやめる
正治元年(一一九九)一一月一二日 参議藤原公経の籠居を許す
建仁二年(一二〇二)八月二二日 三二歳 権中納言藤原公経に帯剣を聴く
建仁三年(一二〇三)三月一〇日 三三歳 中納言藤原公経に伊予国を給う
承元二年(一二〇八)四月二五日 三八歳 中納言藤原道家が公経の娘と結婚。公経の一条亜相亭
建保五年(一二一七)一一月八日 四七歳 権中納言公経、後鳥羽の勘により籠居
承久元年(一二一九)一一月一三日 四九歳 大納言兼右近衛大将兼右馬寮御監藤原公経
承久三年(一二二一)一〇月三日 五一歳 右近衛大将藤原公経の下亭(一条町)が焼亡
承久三年(一二二一)閏一〇月一〇日 公経五一才を内大臣に任ずる
貞応元年(一二二二)六月八日 五二歳 内大臣公経が高野山奥院拝殿に常燈を供える
貞応元年(一二二二)八月一三日 公経を太政大臣に任ずる
貞応二年(一二二三)正月一二日 五三歳 高陽院焼亡で後高倉院が公経の一条相国亭に御幸
貞応二年(一二二三)四月二日 公経、太政大臣を辞す
元仁元年(一二二四)一二月二日 五四歳 一条公経、北山堂供養西園寺と号す。北白川院と安嘉門院も臨御
嘉禄元年(一二二五)二月二三日 五五歳 安嘉門院と公経が北山殿に御幸
嘉禄元年(一二二五)四月一一日 前太政大臣と右近衛大将の実氏の邸宅で連歌会を催す
嘉禄元年(一二二五)六月三〇日 前太政大臣公経の一族を特に禁裏に近侍させる
安貞元年(一二二七)正月一九日 五七歳 前太政大臣公経が河内龍光寺(大東市?)に方違えする
安貞元年(一二二七)三月一〇日 前太政大臣公経を後院別当とする
安貞元年(一二二七)八月七日 前太政大臣公経夫人の全子赤痢で卒す
安貞二年(一二二八)一〇月一一日 五八歳 前太政大臣公経に牛車宣旨あり
寛喜元年(一二二九)春 五九歳 公経が北山第に巨石を運搬せしむ(明月記)六月九日自春比巷説、頻稱石(北隆石云々、日来在相坂方、雑人云、此石有霊、依帰郷以風雨常不止云々、相国運取其石、被引北山云々)一日比以牛十七頭被引取了云々、又云、其石有穴、似獅子頭云々、春比疾病又稱石病定又虚言歟
寛喜元年(一二二九)五月二一・二三日 吹田に方違え、小屋有り 江口遊女群参
寛喜元年(一二二九)九月一三日 春日に参詣
寛喜元年(一二二九)一〇月二〇日 従一位前太政大臣公経に左右近衛府生以下為随身(公卿補任)
寛喜元年(一二二九)一二月二〇日 公経、兵仗を辞す
寛喜二年(一二三〇)正月一四日 六〇歳 公経、藤原為家の吉田第に赴く
寛喜二年(一二三〇)正月一五日 公経の第に行幸
寛喜二年(一二三〇)閏正月一四日 公経、吹田へ方違え
寛喜二年(一二三〇)三月一日 公経、有馬へ赴く、二月二四日 湯山へ下向、吹田新造屋
寛喜二年(一二三〇)四月一八日 公経、方違えにより吹田へ
寛喜二年(一二三〇)五月二日 公経、実氏と吉田西殿で会飲
寛喜二年(一二三〇)六月二一日 円明寺へ行く
寛喜二年(一二三〇)一二月一二日 関白道家 公経の西園寺第へ赴く
寛喜三年(一二三一)正月一六日 六一歳 北山第に弓会をおこなう
寛喜三年(一三二一)二月七日 藤原定家に障子の絵に物語の和歌を書かせる
寛喜三年(一三二一)二月二七日 公経、円明寺に方違えする
寛喜三年(一三二一)三月一七日 公経、有馬へ赴く
寛喜三年(一二三一)七月一六日 公経病む
寛喜三年(一二三一)八月一四日 公経、吉田にて競馬を催す
寛喜三年(一二三一)九月一一日 公経、吹田へ行く、有馬の湯を運ぶ。海内財力 和泉、堺、桶二〇〇、毎日有馬の湯を運ぶ
寛喜三年(一二三一)九月一七日 公経の円明寺
寛喜三年(一二三一)一二月二二日 六一歳 公経病により出家する。法名は覚勝、准三宮
貞永元年(一二三二)三月九日 六二歳 公経、西園寺成就院で三十七壇愛染王供を修す
貞永元年(一二三二)五月二八日 道家夫妻と教実が公経の今出川新第へ赴く
天福元年(一二三三)正月二九日 六三歳 公経の今出川亭に方違え
天福元年(一二三三)五月一九日 公経病む。腹病 今出川北亭
天福元年(一二三三)五月二六日 公経、三浦光浦を河崎泉亭に招く
天福元年(一二三三)七月九日 公経、実氏、吹田に方違え
天福元年(一二三三)七月一七日 堀河上皇、公経の吉田泉亭に御幸
天福元年(一二三三)八月八日 公経病む
            一九日 有馬に下向
天福元年(一二三三)一二月二八日 公経の今出川第に方違え
嘉禎元年(一二三五)正月九日 六五歳 公経の今出川第に方違え
嘉禎元年(一二三五)正月一四日 今出川に渡御、海内財力
嘉禎元年(一二三五)三月一二日 宇都宮頼綱、名馬を公経に贈る
嘉禎元年(一二三五)五月二七日 公経 吹田に方違え
嘉禎元年(一二三五)八月一七日 公経の今出川第焼亡
嘉禎元年(一二三五)一一月二三日 公経、温泉に赴く
嘉禎元年(一二三五)一二月四日 公経、吹田に赴く
嘉禎元年(一二三五)一二月二〇日 公経、日吉社に参詣
嘉禎二年(一二三六)二月二二日 六六歳 薩摩守小鹿島公業の所領の伊予宇和郡を公経の所領とする 常磐井入道太政大臣家
嘉禎三年(一二三七)正月一日 六七歳 道家、公経の今出川亭に方違え
嘉禎三年(一二三七)一〇月二日 太政入道公経、四天王寺へ参詣
嘉禎三年(一二三七)一一月一四日 公経の北山西園寺へ行幸
暦仁元年(一二三八)二月二二日 六八歳 公経の第へ赴く
暦仁元年(一二三八)二月二三日 公経、泰時と会見
暦仁元年(一二三八)閏二月三日 公経、頼経を招請して饗す
暦仁元年(一二三八)三月一九日 公経、頼経を北山別業に招請する
暦仁元年(一二三八)一〇月一二日 頼経が父の道家の一条亭と公経の今出川亭を訪ねる
暦仁元年(一二三八)一〇月二八日 公経の今出川第に方違え行幸
暦仁元年(一二三八)一一月一一日 公経の政所、安芸の国沼田荘地頭美作守小早川茂平の申請による
延応元年(一二三九)正月二六日 六九歳 公経、西園寺五大堂において天台座主
延応元年(一二三九)六月一四日 祇園御霊会により公経の一条今出川第に行幸
延応元年(一二三九)八月一四日 公経今出川第で競馬
仁治元年(一二四〇)正月四日 七〇歳 公経の西園寺に行幸
仁治元年(一二四〇)七月二〇日 公経、西園寺で逆修をおこなう
仁治元年(一二四〇)閏一〇月二八日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治二年(一二四一)四月四日 七一歳 公経第にて舞楽
仁治三年(一二四二)三月一日 七二歳 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)四月一五日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)五月一〇日 公経の今出川亭で舞楽
仁治三年(一二四二)五月二八日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)七月四日 あるものいわく、公経の唐船帰朝、銭貨一〇万貫、種々の珍宝、能言鳥一羽、水牛一頭、鳥は人の言葉を一字違わず言う、水牛は普通の牛の二〇頭の力、公経は檜で三間四面の館を造る、山城槇島に花亭を造営
仁治三年(一二四二)七月一〇日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)八月二二日 公経の今出川亭に方違え行幸
寛元元年(一二四三)三月二七日 七三歳 公経、中宮の御産祈願
寛元元年(一二四三)四月八日 中宮、公経の今出川亭に退出
寛元元年(一二四三)六月二一日 公経病む、瘡病
寛元元年(一二四三)九月二日 公経、今出川第で五壇法を修す
寛元元年(一二四三)九月 公経、住吉社に参詣、槇島へ赴く 常磐井入道実氏
寛元元年(一二四三)一〇月七日 公経、熊野に参詣
寛元二年(一二四四)二月二三日 七四歳 公経、今出川亭で舞楽
寛元二年(一二四四)二月二六日 公経、西園寺五大堂で七仏薬師法
寛元二年(一二四四)八月四日 中宮、公経の今出川亭に方違え行啓
寛元二年(一二四四)八月二九日 七四歳 公経 薨ず
宝治二年(一二四八)八月二九日 実氏、西園寺で公経のために法華八講

2008年2月14日 (木)

鹿男あをによし(第5回)

明応7年(1498)8月25日、東海で大地震がおき、津波が沿岸を襲ったという。東海の中世後半の遺跡をみるときには、その痕跡を注意しないといけないと言われている。
峰岸純夫さんが2001年に著した『中世 災害・戦乱の社会史』吉川弘文館によれば、永仁元年(1293)4月13日に鎌倉を襲った地震は、治承元年(1177)に畿内でおきた地震に匹敵するものだったという。由比ヶ浜は被災者であふれた。そしてその直後、4月22日、平頼綱の乱がおこり、夏には大干魃となる。
仁治2年(1241)4月3日、『吾妻鏡』は「戌刻大地震、南風、由比浦大鳥居内拝殿、被引潮流失、着岸船十余艘破損」と記す
『新編相模国風土記』によれば、由比若宮は由比ノ浜大鳥居ノ東、辻町(大町村属)ニアリテ、下宮ノ原社ナリ、康平6年8月、頼義ノ勧請セシヨリ、治承4年十月、頼朝下宮ノ地ニ移セシ事ハ、社の総説ニ見エタリ
鎌倉時代もまた災害の中にあった
鎌倉が地震に襲われていた頃、京都では翌4日に西園寺公経の邸宅で舞楽がおこなわれていた
おそらくその場所は現在の烏丸一条あたり
公経は71才になっていた

先日、原稿の一文が気になって、今出川から七本松を経由して行願寺へ行ったとき
初めて奥まで入って驚いた
大型の五輪塔は北野・木津・石清水が有名だが、ここにあるとは知らなかった
やはり同じ時代だろうか
また別の気になることが出来てしまった
果たしてサンカクの実体とは如何に

2008年2月 9日 (土)

がんばれ受験生

田辺大雪

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2008年2月 7日 (木)

鹿男あをによし(第4回)

オープニングで思わず身を乗り出してしまった
平城京跡の先に見えるのは、多分、元々長屋王の邸宅で、その後そごうになって、今はイトーヨーカドーになっているショッピングセンターで
その向こうには奈良博と東大寺と興福寺
そうなると、玉木宏が立っているのは奈文研の屋上か?と

「これだけ大きなものをつくっても人間はみんな忘れてしまうんだ」

近鉄電車「飛鳥」駅は、「橿原神宮前」から吉野線で二駅
いつもはその手前の「岡寺」で降りる
そのまま東へひたすら歩いていくと大きなレンタサイクルのお店があって、南に天武・持統合葬陵と高松塚への標識がある
少し行くと亀石
そして中央公民館
そのまた先が川原寺跡
遠くに甘樫丘が見える
東の飛鳥川を渡ると、そのまままっすぐに東へ向かう集落の中の細い道とバス道に分かれ
バス道は南に緩やかに曲がっていってやがて石舞台に着く

道を北へ戻して飛鳥川に目を向けると「伝飛鳥板蓋宮跡」の石敷が見えてくる
さらに北へ行けば、あの酒船石と飛鳥池遺跡
まもなく左前方に飛鳥寺
その先の突き当たりを左に曲がって再び飛鳥川が見えたら
その手前が水落遺跡と村の歴史民俗資料館
ここで飛鳥川は甘樫丘の麓を大きく左に曲がり
そのまま細い道を西へ行けば豊浦寺と向原寺
もどれば飛鳥浄御原宮伝承地
飛鳥資料館はここから東へまたしばらく歩いた先
西へ向かえば近鉄の橿原神宮前駅
目をおこせば天香具山
7世紀後半には、その左手前方に藤原京の家並みがひろがっていた
思えば、これほど整ったシチュエーションはあまり他で見ない

「あんな錆び付いた鏡なんか見て、なにが面白いの」

黒塚古墳は、JR桜井線の柳本から東へすぐ
その先が崇神天皇陵と伝わる行燈山古墳
飛鳥からは、橿原神宮前から大阪線で桜井へ出てJR線に乗り換える
1997年から翌年におこなわれた調査で、竪穴式石室内から三角縁神獣鏡が33面と画文帯神獣鏡が1面出土した
邪馬台国論争に関わる発見としてニュースステーションでも中継された
当時担当していた「考古学」の授業でも急遽その話しをしたことを思い出す
このあたりは、前期の大型古墳が集中する有名な場所
そしてその南があの纏向遺跡群にあたる
少しかたい話しになるが
遺物が遺跡の中で語られるべきことがあらためて意識される機会ともなった

「先生、大和杯 獲りますから」

年明けから秋学期のおわるわずかな時間を縫って4つの現場をまわった
いずれも身近な場所
けれどもいずれも意外で驚きのエピソードの詰まった場所
そんな日頃の暮らしを支えているしっかりしたバックグラウンドのようなものを
できるだけ普通の目線で共感してもらえるような努力をこれからも

明日香村で真弓鑵子塚古墳の現地見学会が週末に開催されるとのこと
30年前に訪れた記憶がおぼろげに

2008年2月 3日 (日)

北山石不動

いつも言っているように、遺跡研究の対象は、土の中にあるものばかりではない
そのひとつの代表が石造品
川勝政太郎さんはその研究を牽引されてきた第一人者
「北山石不動とその信仰」は川勝さんが昭和34年に『史迹と美術』第29輯の1と2に書いた現在の金閣寺境内におかれる不動堂背後の石室内石造についての論攷

川勝さんによれば、その信仰は、貞享元年(1684)の『雍州府志』には「在大北山 本尊石地蔵弘法大師之所雕」とあり、元禄15年(1702)の『山城名勝志』には「在鹿園寺北林中 堂西向 本尊 不動明王」とあり、別に室町時代の『管見記』や『二水記』の北山石不動参詣の記事をひいているため、義持の鹿園寺移行、ひろく信仰を集めていたことがわかる

石不動は、不動堂裏の土蔵風に造られた岩窟におかれている
現在の扉の海老錠には寛永13年(1636)の銘があり、入口には立派な青石がたつ
さきの『管見記』永享5年(1433)6月11日に「岩屋不動」と見えるため、足利義教の時代には現在の状態に近い形で安置されていた可能性が高いとされる

川勝氏によれば、「不動明王立像は緻密な砂岩を丸彫したのもので、高さは5尺4寸」「一般の石仏にはみられない木彫風の石像で」「丸彫手法は完全に施されていて、両腕も胴から遊離している。一見しての感じは甚だ温雅である。勇猛さの誇張がなく、その点で藤原時代が濃厚である」と

また類例としては、群馬県宮田不動堂の建長3年(1251)銘の立像が、墨書から七条大宮仏所か六条万里小路仏所の流れをくむ木彫仏師によるものと推測されている

『明月記』嘉禄元年(1225)10月23日に「北山不動 愛染王 奉造被安置 各有一堂」、『増鏡』の大内やまに「瀧のもとには不動尊」とある
この西園寺の不動尊と現在の石不動の関係については、赤松俊秀さんはこれを異とし、川勝さんは同とする
現在の不動堂の背後には岩盤の高い崖がある
また不動堂の東も現在の駐車場に向かう緩やかな段差がある
西園寺の北山殿の「四十五尺瀑布瀧」がどこにあってどのようなものなのかは、東洋一さんの論攷も検討しなければならないが
この石不動が西園寺の時代に限りなく近いことに違いはない

2月3日の節分は、この石不動が御開帳される年に2度の日のうちの1日
11時から法要がおこなわれ、その後にお堂に入り、奥の石不動を拝むことができる
出町に着くと、覚悟していたより寒さは強くなく、北山は雪がすっかり溶けて、わずかに細かな雨が残る程度
少しだけ西園寺の空気に触れた気持ちになって四条に出る

昨日からいよいよ持明院大路に入る
奈良へ戻ると再び寒さが戻ってきていた
公経が温泉好きだったことが頭をよぎる

2008年2月 1日 (金)

鹿男あをによし(第3回)

枚方の国道1号線と国道307号線の交差点は、田辺から来るととてつもない渋滞に出会う。
その日も慌ただしく田辺を出てきたのは良いけれど、その渋滞にはまって時間をすっかりロスしてしまった

2007年12月22日の新聞各紙によれば、枚方市中宮西之町のその場所から奈良時代の大型多尊磚(本当は土偏)仏が見つかったという
百済から派遣されていた善光王は、白村江で祖国が滅んだ後、百済王(くだたのこにきし)として難波に土地をもらい永住を保証された
その後、高級官僚として朝廷で活躍し、敬福の時に交野に拠点をおき、摂津の百済寺と百済尼寺(大和路線に百済という駅がある)に続き寺その地に築いたと言われる
敬福は陸奥守に任ぜられそこで砂金を発見し、聖武天皇に献上して東大寺盧遮那仏造立に大きく貢献した
桓武の母の高野新笠は百済の武寧王の後裔とも言われ、桓武は百済王を外戚と呼んだ

今回見つかった大型多尊磚(本当は土偏)仏は、そんなこの寺と天皇のつながりの強さを物語るものだとも言われている
昭和8年に大阪府が史跡に仮指定し、16年に文部省によって史跡に指定されたことにより、市街地の中でありながらとてもよく保存されている
単純なことだが、やはり残っているということは偉大である

鼠と難波宮との関係は有名な日本書紀のエピソードのひとつ
正確に言うと
「(孝徳天皇の大化元年)冬十二月(ふゆしはす)の乙未(きのとひつじ)の朔(ついたち)癸(みずのとの)卯(うのひ)(9日のこと)に、天皇、都(みやこ)を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に遷(うつ)す。老人等(おきなら)、相謂(あひかた)りて曰く、「春より夏に至るまでに、鼠の難波に向(ゆ)きしは、都を遷す兆なりけり」といふ」(岩波書店『日本古典文学大系』279頁)

明けて翌年、あの有名なフレーズが続く
「二年春正月の甲子の朔に、賀正禮畢りて、即ち改新之詔(あたらしきにあらたむるみことのり)を宣ひて」
また
「畿内(うちつくに)は、東は名墾(なばり)の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、西は明石の櫛淵より以来、北は近江の狹狹波の合坂山より以来」とあり
三重県の名張、和歌山県の伊都郡かつらぎ町、西は明石、北は滋賀県大津市の逢坂山が当時の領域認識だったことがわかる

なお「天智5年冬、みやこの鼠、近江の国にむきてうつる」とあって、鼠は大津京移転に際しても活躍している

ちなみに長岡京遷都は、蝦蟇2万匹が難波市から四天王寺へ行進している、という和気清麻呂(当時の大阪府知事兼市長)の報告がきっかけとなっている

今も昔も、どんなに科学が進んでも、人が人以外の自然の「なにか」を畏れる気持ちに変わり無いし、とても大きな出来事に直面したとき、自分達を納得させるためにそれと上手につきあってきたひとつのエピソードだと
そんな話しを、以前に生協食堂の前で工学部の先生にしたら、とても面白がってくれたことを思い出した

『奈良県民だより』の2月号の表紙に玉木宏と綾瀬はるかが東大寺の正面を歩いているカットが載っている
やはり残っていることは偉大だと思う
そして4頁には知事がロケ現場を訪問したコラムが載っている
やはり少しだけ羨ましい

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