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2008年2月27日 (水)

宮崎快晴

宮崎快晴
風がなければ暖かい
宮崎のコンビニは楽しい
これからバスで1時間
MIYAKOバスセンターより

宮崎県のほぼ中央で日向灘に注ぐ一ツ瀬川は、実は宮崎を代表する大河川だと思う。河口付近には潟湖とまでは言わないが、まるで安濃津や難波津の様に砂碓をもち天然の良港の条件を持っている
西都市は、その一ツ瀬川によって形成されたひろい氾濫低地が高千穂の山の末端に接する、最後の広い平野部にひろがっている
その平野部があまりに広いために、バスで来てもほとんどそれを意識することはできないが、西都原古墳群の対岸にのびる長い段丘を見ればそれがわかる
西都原古墳群は、一ツ瀬川とほとんど高さの変わらない西都市の中心部から西へ河岸段丘を登った上にある
歩けない距離ではないが、時間を節約してタクシーで行く

もちろん中心は男狭穂塚(おさほづか)古墳と女狭穂塚(めさほづか)古墳
さらに女狭穂塚古墳は全長180mと、畿内の巨大古墳に匹敵する規模をもつ
けれどもそれ以外にも300にのぼる古墳や横穴墓が密集して
さながら古墳銀座の呈を成す
ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメという伝説をもち手塚治虫の火の鳥にも登場する記紀神話の故郷で
大正時代に大規模な発掘調査がおこなわれ、その後の古墳研究に大きな役割を果たした

新しくなった考古博物館の展示を堪能し、珍しい円筒埴輪型の土産を500円で買って、風がおさまり春の気配著しい公園を歩いて降りる
女狭穂塚古墳の正面にあるガイダンスセンターで宮崎野菜のかきあげうどんを食べて鬼の窟(おにのいわや)古墳へ
周庭帯だろうか、回りに土塁をもつ珍しい円墳で、横穴式石室の内部を見ることができる
西都原古墳群の最後の盟主の墓と推定されているが、コノハナサクヤヒメにちなむロマンチックな伝説がここでは似合う
酒元ノ上横穴墓の覆屋を見た後、耕耘機の動き出した段丘を降りる
地形を含めた全体で見ればよくわかるが
ひとくちに西都原古墳群と言っても、そのほとんどは一ツ瀬川の流れる西都中心部を見下ろす段丘の縁辺に分布する
全体図を見ると前方後円墳が見事に地形にそって向きを揃えてる
その中のひとつが箸墓に似た形の西都原古墳群で一番古いもの

とても自然だと思うが、一ツ瀬川の自然堤防などを拠点としていた人々にとって
最も良く見えるその背後の高台に自分たちの盟主の墓を築いたのだろう
西都原古墳群で最も多い古墳の位置尉がその関係にある
前期古墳の立地に近く、長安の背後に連なる王の墓の姿ともダブル
そして最後に築かれる小型の円墳群もこの段丘縁辺を意識して築かれている
しかし男狭穂塚と女狭穂塚は違う
この段丘の奥に入った場所を占め、もちろん下の平野部からは見えない
それ以前ともそれ以後とも異なった論理がそこにはあったことになる
いやそれは少し違うかもしれない
先の鬼の窟古墳もまた段丘の中程にある
男狭穂塚と女狭穂塚が造られた時代の論理とそれ以前の論理が違っていると言った方が良いだろう

そんなことを思っていたら
その過程が南山城の古墳の移り変わりと似ていることに気がついた
そして段丘を段丘をおりる途中に日向国分寺跡がある
国分尼寺も国府推定地も近くにあるという
背後の高台に伝説の王の墓をもつ由緒のある場所に
古代の政治の中枢がおかれるのもまたとても自然なことに思った
一ツ瀬川はやはり日向で最も大きな川だったことになる

段丘を完全におりて西都市の歴史民俗資料館をおとずれる
1190年に日向国地頭として下向した工藤左衛門尉祐経の子孫で、1335年に都於郡300町をもらい、伊豆から下向した伊東祐持の城で、都於郡(とのこおり)城跡という
川に臨み5つの郭から構成される丘陵上の城館である
祐持はここで日向一円を支配したという
西都の地はこの時も重要な位置にあった
東国原知事
ぜひ西都に注目を

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