« 鹿男あをによし(第5回) | トップページ | 公経と定家 »

2008年2月17日 (日)

頭の中は西園寺

建久七年(一一九六)二六歳 蔵人頭
建久九年(一一九八)二八歳 院御厨別当 
正治元年(一一九九)七月一二日 二九歳 院御厨別当をやめる
正治元年(一一九九)一一月一二日 参議藤原公経の籠居を許す
建仁二年(一二〇二)八月二二日 三二歳 権中納言藤原公経に帯剣を聴く
建仁三年(一二〇三)三月一〇日 三三歳 中納言藤原公経に伊予国を給う
承元二年(一二〇八)四月二五日 三八歳 中納言藤原道家が公経の娘と結婚。公経の一条亜相亭
建保五年(一二一七)一一月八日 四七歳 権中納言公経、後鳥羽の勘により籠居
承久元年(一二一九)一一月一三日 四九歳 大納言兼右近衛大将兼右馬寮御監藤原公経
承久三年(一二二一)一〇月三日 五一歳 右近衛大将藤原公経の下亭(一条町)が焼亡
承久三年(一二二一)閏一〇月一〇日 公経五一才を内大臣に任ずる
貞応元年(一二二二)六月八日 五二歳 内大臣公経が高野山奥院拝殿に常燈を供える
貞応元年(一二二二)八月一三日 公経を太政大臣に任ずる
貞応二年(一二二三)正月一二日 五三歳 高陽院焼亡で後高倉院が公経の一条相国亭に御幸
貞応二年(一二二三)四月二日 公経、太政大臣を辞す
元仁元年(一二二四)一二月二日 五四歳 一条公経、北山堂供養西園寺と号す。北白川院と安嘉門院も臨御
嘉禄元年(一二二五)二月二三日 五五歳 安嘉門院と公経が北山殿に御幸
嘉禄元年(一二二五)四月一一日 前太政大臣と右近衛大将の実氏の邸宅で連歌会を催す
嘉禄元年(一二二五)六月三〇日 前太政大臣公経の一族を特に禁裏に近侍させる
安貞元年(一二二七)正月一九日 五七歳 前太政大臣公経が河内龍光寺(大東市?)に方違えする
安貞元年(一二二七)三月一〇日 前太政大臣公経を後院別当とする
安貞元年(一二二七)八月七日 前太政大臣公経夫人の全子赤痢で卒す
安貞二年(一二二八)一〇月一一日 五八歳 前太政大臣公経に牛車宣旨あり
寛喜元年(一二二九)春 五九歳 公経が北山第に巨石を運搬せしむ(明月記)六月九日自春比巷説、頻稱石(北隆石云々、日来在相坂方、雑人云、此石有霊、依帰郷以風雨常不止云々、相国運取其石、被引北山云々)一日比以牛十七頭被引取了云々、又云、其石有穴、似獅子頭云々、春比疾病又稱石病定又虚言歟
寛喜元年(一二二九)五月二一・二三日 吹田に方違え、小屋有り 江口遊女群参
寛喜元年(一二二九)九月一三日 春日に参詣
寛喜元年(一二二九)一〇月二〇日 従一位前太政大臣公経に左右近衛府生以下為随身(公卿補任)
寛喜元年(一二二九)一二月二〇日 公経、兵仗を辞す
寛喜二年(一二三〇)正月一四日 六〇歳 公経、藤原為家の吉田第に赴く
寛喜二年(一二三〇)正月一五日 公経の第に行幸
寛喜二年(一二三〇)閏正月一四日 公経、吹田へ方違え
寛喜二年(一二三〇)三月一日 公経、有馬へ赴く、二月二四日 湯山へ下向、吹田新造屋
寛喜二年(一二三〇)四月一八日 公経、方違えにより吹田へ
寛喜二年(一二三〇)五月二日 公経、実氏と吉田西殿で会飲
寛喜二年(一二三〇)六月二一日 円明寺へ行く
寛喜二年(一二三〇)一二月一二日 関白道家 公経の西園寺第へ赴く
寛喜三年(一二三一)正月一六日 六一歳 北山第に弓会をおこなう
寛喜三年(一三二一)二月七日 藤原定家に障子の絵に物語の和歌を書かせる
寛喜三年(一三二一)二月二七日 公経、円明寺に方違えする
寛喜三年(一三二一)三月一七日 公経、有馬へ赴く
寛喜三年(一二三一)七月一六日 公経病む
寛喜三年(一二三一)八月一四日 公経、吉田にて競馬を催す
寛喜三年(一二三一)九月一一日 公経、吹田へ行く、有馬の湯を運ぶ。海内財力 和泉、堺、桶二〇〇、毎日有馬の湯を運ぶ
寛喜三年(一二三一)九月一七日 公経の円明寺
寛喜三年(一二三一)一二月二二日 六一歳 公経病により出家する。法名は覚勝、准三宮
貞永元年(一二三二)三月九日 六二歳 公経、西園寺成就院で三十七壇愛染王供を修す
貞永元年(一二三二)五月二八日 道家夫妻と教実が公経の今出川新第へ赴く
天福元年(一二三三)正月二九日 六三歳 公経の今出川亭に方違え
天福元年(一二三三)五月一九日 公経病む。腹病 今出川北亭
天福元年(一二三三)五月二六日 公経、三浦光浦を河崎泉亭に招く
天福元年(一二三三)七月九日 公経、実氏、吹田に方違え
天福元年(一二三三)七月一七日 堀河上皇、公経の吉田泉亭に御幸
天福元年(一二三三)八月八日 公経病む
            一九日 有馬に下向
天福元年(一二三三)一二月二八日 公経の今出川第に方違え
嘉禎元年(一二三五)正月九日 六五歳 公経の今出川第に方違え
嘉禎元年(一二三五)正月一四日 今出川に渡御、海内財力
嘉禎元年(一二三五)三月一二日 宇都宮頼綱、名馬を公経に贈る
嘉禎元年(一二三五)五月二七日 公経 吹田に方違え
嘉禎元年(一二三五)八月一七日 公経の今出川第焼亡
嘉禎元年(一二三五)一一月二三日 公経、温泉に赴く
嘉禎元年(一二三五)一二月四日 公経、吹田に赴く
嘉禎元年(一二三五)一二月二〇日 公経、日吉社に参詣
嘉禎二年(一二三六)二月二二日 六六歳 薩摩守小鹿島公業の所領の伊予宇和郡を公経の所領とする 常磐井入道太政大臣家
嘉禎三年(一二三七)正月一日 六七歳 道家、公経の今出川亭に方違え
嘉禎三年(一二三七)一〇月二日 太政入道公経、四天王寺へ参詣
嘉禎三年(一二三七)一一月一四日 公経の北山西園寺へ行幸
暦仁元年(一二三八)二月二二日 六八歳 公経の第へ赴く
暦仁元年(一二三八)二月二三日 公経、泰時と会見
暦仁元年(一二三八)閏二月三日 公経、頼経を招請して饗す
暦仁元年(一二三八)三月一九日 公経、頼経を北山別業に招請する
暦仁元年(一二三八)一〇月一二日 頼経が父の道家の一条亭と公経の今出川亭を訪ねる
暦仁元年(一二三八)一〇月二八日 公経の今出川第に方違え行幸
暦仁元年(一二三八)一一月一一日 公経の政所、安芸の国沼田荘地頭美作守小早川茂平の申請による
延応元年(一二三九)正月二六日 六九歳 公経、西園寺五大堂において天台座主
延応元年(一二三九)六月一四日 祇園御霊会により公経の一条今出川第に行幸
延応元年(一二三九)八月一四日 公経今出川第で競馬
仁治元年(一二四〇)正月四日 七〇歳 公経の西園寺に行幸
仁治元年(一二四〇)七月二〇日 公経、西園寺で逆修をおこなう
仁治元年(一二四〇)閏一〇月二八日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治二年(一二四一)四月四日 七一歳 公経第にて舞楽
仁治三年(一二四二)三月一日 七二歳 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)四月一五日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)五月一〇日 公経の今出川亭で舞楽
仁治三年(一二四二)五月二八日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)七月四日 あるものいわく、公経の唐船帰朝、銭貨一〇万貫、種々の珍宝、能言鳥一羽、水牛一頭、鳥は人の言葉を一字違わず言う、水牛は普通の牛の二〇頭の力、公経は檜で三間四面の館を造る、山城槇島に花亭を造営
仁治三年(一二四二)七月一〇日 公経の今出川亭に方違え行幸
仁治三年(一二四二)八月二二日 公経の今出川亭に方違え行幸
寛元元年(一二四三)三月二七日 七三歳 公経、中宮の御産祈願
寛元元年(一二四三)四月八日 中宮、公経の今出川亭に退出
寛元元年(一二四三)六月二一日 公経病む、瘡病
寛元元年(一二四三)九月二日 公経、今出川第で五壇法を修す
寛元元年(一二四三)九月 公経、住吉社に参詣、槇島へ赴く 常磐井入道実氏
寛元元年(一二四三)一〇月七日 公経、熊野に参詣
寛元二年(一二四四)二月二三日 七四歳 公経、今出川亭で舞楽
寛元二年(一二四四)二月二六日 公経、西園寺五大堂で七仏薬師法
寛元二年(一二四四)八月四日 中宮、公経の今出川亭に方違え行啓
寛元二年(一二四四)八月二九日 七四歳 公経 薨ず
宝治二年(一二四八)八月二九日 実氏、西園寺で公経のために法華八講

« 鹿男あをによし(第5回) | トップページ | 公経と定家 »

京都」カテゴリの記事