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2008年2月18日 (月)

公経と定家

建久七年(一一九六)六月一三日 殿下今夜八条院に参ぜしめ給うと云々(明月記)
建久七年(一一九六)二六歳 蔵人頭
建久九年(一一九八)二八歳 院御厨別当 
建久九年(一一九八)正月一三日 八条殿に参じ、即ち退下す。(明月記)
建久九年(一一九八)正月二四・二五日 八条殿に参ず(明月記)
正治元年(一一九九)二月一七日 宰相中将公経卿・保家朝臣・隆保朝臣出仕を止められると云々(明月記)
正治元年(一一九九)七月一二日 二九歳 院御厨別当をやめる「七月一五日の条。去る一二日、信清卿を以て、御厨別当に補せらると云々。公経卿、遂に以て改めらるるか。籠居の間、猶綸言を蒙る。(明月記)」
正治元年(一一九九)一一月一二日 参議藤原公経の籠居を許す
正治二年(一二〇〇)正月三日 公国・宰相中将、今日出仕し、八条殿并に宮に参ず。(明月記)
正治二年(一二〇〇)正月六日 錦小路東洞院に於いて、雨皮張席等を徹す。(明月記)
正治二年(一二〇〇)閏二月一六日 三条坊門二日慈堂悲田北雅俊卿の堂(跡なり)供養と云々。門前市会おなす。源氏の跡と称し、押し取ると云々。公経宰相中将、輿を閑所に舁(か)き入る(明月記)
正治二年(一二〇〇)八月一〇日 雨猶注ぐが如し。終日蟄居。夜に入りて、北の方に火あり。塩小路万里小路と云々。即ち滅しおわんぬ。(明月記)
正治二年九月七日 御匣殿の里亭に向かい(五条坊城)、病を訪ね申す(腫れ物)。相次いで大宮宰相の許に向かう。(明月記)
正治二年(一二〇〇)一〇月二日 八条殿に参ず。宰相中将の亭に向かう(明月記)
正治二年(一二〇〇)一二月二三日 鳥羽殿に参ず。程無く御船におはします。殿上人の船に乗る。件の船、高屋形。風に向かいて□滞り、前途を遂げ難きの間、船に乗る。皆瀬殿の津に付く。騎馬して御所に参ず。山崎の油売りの小屋に宿す。(明月記)
正治二年(一二〇〇)一二月二四日 一条東洞院に焼亡ありと云々。(明月記)
正治二年(一二〇〇)一二月二五日 去る夜、三条の辺り京極に焼亡あり(明月記)
建仁元年(一二〇一)三月一九日 鳥羽殿に参ず。三人高屋形に乗る(板葺の船、是れ殿上人の船と称す)。下馬して騎馬。総門を入る、先々の如し。御船、釣殿につけ、御弘御所に下りおはします。(明月記)
建仁元年(一二〇一)四月二六日 更に東川原の路より、鳥羽に参ぜしめ給う。北殿なり。勝光明院の門を入り。大宮宰相中将公経(明月記)
建仁元年(一二〇一)一〇月五日 又、先陣、天王寺に参ず。西の門の鳥居の辺りを徘徊す(明月記)
建仁元年(一二〇一)一二月二日 御供して鳥羽に参ず。京に火あり。六条坊門坊城なり。宰相中将(公経)又退出しおわんぬ。大宮大納言の家、焼けおわんぬ。(明月記)
建仁元年(一二〇一)一二月一六日 鳥羽殿に参ず。(明月記)
建仁二年(一二〇二)正月一二日 東富小路を南、三条を東、延勝寺朱雀を北、南大路を東、例の如し。法勝寺西の大路を北し、西の大門より入る(明月記)
建仁二年(一二〇二)正月一八日 冷泉北の地の小家に行き向かい、之を見て帰宅す(明月記)
建仁二年(一二〇二)正月二八日 仍って八条殿に参ず。又左大臣殿(烏丸)に見参せずして退出し、高倉に帰る。(明月記)
建仁二年(一二〇二)三月一日 子の刻ばかりに、四条の町に火あり。四町五条院なりと云々。(明月記)
建仁二年(一二〇二)三月二六日 日出づるの程に鳥羽殿(南殿)に参ず。(明月記)
建仁二年(一二〇二)八月二二日 三二歳 権中納言藤原公経に帯剣を聴く
建仁二年(一二〇二)九月三日 新中納言卿か消息あり。乃ち一条亭に馳せ向かう(明月記)
建仁二年(一二〇二)九月一〇日 九条に於いて輿に乗る。閑宇多幾路(かうたきぢ)より直ちに水無瀬に参じ、宿h所に入る(明月記)
建仁三年二月二〇日 一条黄門の亭に向かう(明月記)
建仁三年(一二〇三)三月一〇日 三三歳 中納言藤原公経に伊予国を給う
建仁三年(一二〇三)九月一五日 黄門殿、御物を北野の辺りに儲くるにより、巳の時ばかりに御共して入道大納言の衣笠の亭に向かう。(明月記)
元久元年(一二〇四)正月五日 京極を南、二条を西、富小路を南、三条を南、東洞院を南し、八条院の東門を入る。(明月記)
元久元年(一二〇四)正月八日 左金吾亭に向かう。除目所望の事、示し合わせて申す。戌の時ばかりに退出し、五辻の小家に向かい、宮女房に謁す。(明月記)
元久元年(一二〇四)八月八日 殿下又御共して、院に参ず。五辻の新御所に御移徙。(明月記)
元久二年(一二〇五)三月二二日 今日、宇治の宝蔵を開かるることありと云々。仍って、大納言殿宇治に向はしめ給う。今夜、持明院宮の孫王(嫡)、初めて参じ給う(明月記)
建永元年(一二〇六)六月二〇日 滋野井泉に御幸おわりて退出(明月記)
建永元年(一二〇六)六月二八日 八条院、明日、歓喜光院より鳥羽殿に渡りおはします(明月記)
建永元年(一二〇六)八月五日 申の時ばかりに、城南寺におはします由を聞き、即ち参ず(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一〇日 牛の時、南殿に参ず。未の時ばかりに城南寺におはします(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一三日 申の時、城南寺におはします。又、御騎馬し、山の方を御覧じ、北殿におはします(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一五日 午の時に参上す。城南寺におはします。又船に乗りて、南殿に参ず。昼より成菩提院に参ず(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一六日 河原に於いて(南門の外、五町ばかり)、おいて御後に参ず。赤江を渡るの間、又馬を渡す遅々たり。相構えて淀の渡りに参ず。御船に乗り、渡りおわんぬ。予、先陣騎馬。本路、鳥羽の西北成菩提院、安楽寿院の北を経て川原に出づ。稲荷に御幸。(明月記)
建永元年(一二〇六)八月一九日 午終、城南寺におはします。船に乗りて参ず。亥の時に、名謁。両少将・清範・秀能等招引し、月に乗じて左衛門督(かみ)の久我亭にむかう。(明月記)
建永元年(一二〇六)九月一日 馬場殿に於いて御琵琶おわんぬ。京に火有り。後に聞く、高辻室町より五条西洞院におよぶと。(明月記)
建永元年(一二〇六)九月二七日 今朝伝え聞く、官軍、近江の木戸に於いて堂衆を撃つ。小事ありて御方違へにより五辻殿に御幸。御輿なり。(明月記)
建永元年(一二〇六)九月二八日 辰の時に中納言の一条亭に向かう(明月記)
建永元年(一二〇六)一〇月八日 午の時ばかりに鳥羽殿に参ず(明月記)
建永元年(一二〇六)一〇月一九日 午終ばかりに、按察、北嵯峨の堂にむかう(明月記)
建永元年(一二〇六)一〇月二二日 中納言のもとに向かう(五条坊門西洞院。一昨日より、本所造作に渡らるる)(明月記)
承元元年(一二〇七)正月三日 次いで黄門の一条新亭に向かう(明月記)
承元元年(一二〇七)四月三〇日 坤に火有り。後に聞く、丹後二位の宅より(業兼、六条坊門町に居住)、大宮東、五条坊門南、皆以て焼亡すと云々。(明月記)
承元元年(一二〇七)五月二三日 八条院に参ず(明月記)
承元元年(一二〇七)一二月一五日 新大納言亭に向かう(一条亭)。(明月記)
承元二年(一二〇八)四月二一日 一条亜相の亭に向かう(明月記)
承元二年(一二〇八)四月二五日 三八歳 中納言藤原道家が公経の娘と結婚。公経の一条亜相亭
承元二年(一二〇八)四月二七日 今日皮堂に御幸(明月記)
承元二年(一二〇八)閏四月一五日 夕、中御門富小路に向かう(少将雅経朝臣の家なり。之を借る。帰京の始、必ず京中の家を用いるべしと)前左大弁、今日入洛。亥の時ばかり、南方に火あり。大風に炎上し尋常にあらず。後に聞く。火、北小路東洞院よりいず。七条の東西十二町(洞院の西、朱雀の東)、朱雀の南北十二町(七条以北)、六条東洞院より五条坊門朱雀の辺りに至る(明月記)
建暦二年(一二一二)正月二日 密かに八条の旧院に参じ、黄門に謁し奉るの間、少将来る。(明月記)
建暦二年(一二一二)正月一一日 午の時ばかり、南の方に火有り。六条の南、東洞院の東、佐女牛、高倉に及びて滅すと云々。(明月記)
建暦二年(一二一二)正月二一日~二月一日 天明に華洛を出て、孤舟に棹さす。漸く黄昏れに及びて神崎の小屋に着く。二二日未明、月に乗じて路に赴く。昆陽池を過ぎ武庫山に入る。武庫河大いに溢れ、遙かに下流を尋ね、申の刻に及び湯泉の孤館に着す。仲国朝臣の湯屋に宿す。二三日、終日沐浴。二九日、輿に乗りて路に起つ。田野を渉りて小林の庄に入る(資経領)。其所の堂に於いて食をはむ。次いで武庫川を渡る。小屋野にいでて池を過ぎず。申の時、神崎に於いて舟に乗る。昏に臨みて水田の小屋に着く。一日、未明船に乗り、未の時、赤江の下に於いて車に乗る(明月記)
建暦二年(一二一二)四月八日 伝え聞く、事明院宮御出家と(明月記)
建暦二年(一二一二)六月二八日 安楽寿院に於いて八条院のために一日八講あり(明月記)
建暦二年(一二一二)七月一二日 巳の時、南の方に火有り。人言う。綾小路町と云々。(明月記)
建暦二年(一二一二)一〇月七日 一条亜相の亭にむかう(明月記)
建保元年(一二一三)七月二一日 近日、住所坊門院に居て頓滅し給う。一条(南)室町の東なり。院よりこれを賜り、歳末より槐門となすと云々。(明月記)
建保元年(一二一三)一二月三日 一条亜相の亭に向かう(明月記)
建保五年(一二一七)二月八日 亜相、又水無瀬殿山上に新御所を造営(眺望をなすのみ)。此の前後の土木、そうじて海内の財力を尽くす。又北白川の白砂を引くと云々(遼遠耳を驚かす。件の白砂を振ひて之を運ぶと云々)。(明月記)
建保五年(一二一七)二月九日 河陽土木の功、せんかんの石、仁和寺宮庚申の御営み、毎事耳を驚かす。海内の財力、末世更に陵遅なきか。金銀錦繍、雲の如く、雨の如し。(明月記)
建保五年(一二一七)二月一三日 庚申、西郊の御営み、金銀、唐物山岳の如し。向後の親王達、兼ねて以て用意をいたすと云々。海内の富、更に上古に耻ぢざるか(明月記)
建保五年(一二一七)二月二四日 或者語りて云う。河陽の上下公私土木の営み、分かち給わる所の地、面々に経営す。魚市を移さる。上下ことさらに商賈の営み有り。亜相、新御所を造営さる。山上に池有り。池の上に滝を構えらる。河を塞ぎ山を掘り、一両日に水を引く。又件の滝に大石を引くためと云々。国家の費、只此の事にあるか。(明月記)
建保五年(一二一七)一一月八日 四七歳 権中納言公経、後鳥羽の勘により籠居
承久元年(一二一九)一一月一三日 四九歳 大納言兼右近衛大将兼右馬寮御監藤原公経
承久三年(一二二一)一〇月三日 五一歳 右近衛大将藤原公経の下亭(一条町)が焼亡
承久三年(一二二一)閏一〇月一〇日 公経五一才を内大臣に任ずる
貞応元年(一二二二)六月八日 五二歳 内大臣公経が高野山奥院拝殿に常燈を供える
貞応元年(一二二二)八月一三日 公経を太政大臣に任ずる
貞応二年(一二二三)正月一二日 五三歳 高陽院焼亡で後高倉院が公経の一条相国亭に御幸
貞応二年(一二二三)四月二日 公経、太政大臣を辞す
元仁元年(一二二四)一二月二日 五四歳 一条公経、北山堂供養西園寺と号す。北白川院と安嘉門院も臨御
嘉禄元年(一二二五)正月一三日 夜に入りて前相国亭に参ず。持明院御所を造営(二月事始め。六月上棟。八月御移徙)。(明月記)
嘉禄元年(一二二四)正月一四日 中将と相共に北山に向かう。勝地の景趣を見、新仏の尊容に礼す。毎時今案ずるを以て営み作さる。毎物珍重。四十五尺の瀑布の滝碧く、瑠璃の池水、又泉石の清澄、実に比類なし。未の時ばかりに、廬に帰る。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)二月二三日 五五歳 安嘉門院と公経が北山殿に御幸
嘉禄元年(一二二五)三月四日 夜半ばかり、南の方に火有り。下人を以て見しむ。七条坊門油小路より南に赴き、梅小路におよぶ(明月記)
嘉禄元年(一二二五)三月一一日 南の方に火有り。少将弁の辻子の内の火なり。辻子の内の湯屋より出て、南に赴き二条に出づ。室町に渡らず、東洞院を出でず。中将、北山に在り。火滅して帰り来たり(明月記)
嘉禄元年四月二日 夜に入りて大相国(公経)の亭に参じ(明月記)
嘉禄元年(一二二五)四月一一日 前太政大臣と右近衛大将の実氏の邸宅で連歌会を催す
嘉禄元年(一二二五)六月一五日 夜前、殿下一条室町に渡りおはしますと云々。京極寺の凶徒、猶勇気を示さんがため、三条を西に行き洞院の辺りを徘徊す。多く冑腹巻を着し、又白布を以て頭を結ぶ。又菖蒲、薦等を以て背に結び付く。古今、飛礫を打つ者有りと雖も、全く此の如き事無し。武士之を聞きながら制止せずと云々。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)六月三〇日 前太政大臣公経の一族を特に禁裏に近侍させる
嘉禄元年(一二二五)一一月五日 室町殿に参ず。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一一月一五日 南隣の地口二丈ばかり、鞍馬の住僧、北小路出雲の路地を以て取り替えんと欲す。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一一月一六日 伝え聞く、施薬院の使、夜々宣陽門院の御腹を取り奉る。此の事験あるに依り、六条殿の近き辺り忽ち諸々の御領をあて、華亭を造らる。又倉□を造り、海内の財宝を積まる。夜に入り中将来る(北山より)。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一一月一七日 先日の仰せにより、相具して室町殿に参ず。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月二日 夜前の火、六角堀川の東と云々(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月三日 中将(北山より)□。東大寺衆徒の訴訟嗷々(ごうごう)。大仏殿を閉し、火を放つべきの由披露すと云々。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月五日 日出づるの後、門を出て北山の勝地に向かうの間、相国過ぎ給う。総門の南に於いて中将馳せ来たる。堂前に参じて暫く眺望し、又所々を歴覧す。仙窟に入るが如し。暫く爐辺に休むべきの由、其れ有りと雖も、今明堪えざれば、心無きの思いを成す。室町殿に参会するの間、信実朝臣来臨。(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月一六日 午の時ばかりに室町殿に参ず(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月二二日 亥終ばかり、東に火有り。隣家の如し。川崎門前の路の西なり。川崎の西の門焼けおわんぬ(明月記)
嘉禄元年(一二二五)一二月二九日 大相国の亭に参ず。室町殿に参じ見参す(明月記)
嘉禄二年(一二二六)正月三日 朝陽、霞に映ゆ。今日、右幕下出仕に相具し給うの由を聞く。密かに一条空町(室町か)の辺りに出て之を見る(明月記)
嘉禄二年(一二二六)正月一九日 申の時ばかりに室町殿に参ず。(明月記)
嘉禄二年(一二二六)二月二五日 午の時ばかりに室町殿に参ず(明月記)
嘉禄二年(一二二六)三月一〇日 教成卿、一条の相国亭において、女院の(明月記)
嘉禄二年(一二二六)四月三日 冷泉の方大白の方に依り、吉田に宿せんがため、酉の時ばかりに河東に赴くの間、前行する使の者帰りて云う、大相国すでに渡りたまう(明月記)
嘉禄二年(一二二六)四月九日 晩頭、五辻の三位来臨(明月記)
嘉禄二年(一二二六)四月二三日 夜に入り、宰相北山帰路の次でに来臨(明月記)
嘉禄二年(一二二六)五月三日 午の時ばかりに室町殿に参ず。見参の後、相国参じ給う(北山より方違へのためと云々)(明月記)
嘉禄二年(一二二六)六月二二日 吉田の泉に参ず(相国渡りおはします)(明月記)
嘉禄二年(一二二六)七月三日 未の時ばかりに五辻三位(知家)卿来臨(明月記)
嘉禄二年(一二二六)七月二一日 両女院持明院殿修造するの後、御渡り。(明月記)
嘉禄二年(一二二六)八月二〇日 未の時ばかりに月輪殿に参ず。漸く晩頭に及びて武衛禅尼又参ず。南庭の岸水のために壊損。北山の土を引きて築かると云々。酉の時ばかりに東一条院に参ず(明月記)
嘉禄二年(一二二六)九月二日 夕に示し送り、西園寺に参ず(明月記)
嘉禄二年(一二二六)九月一七日 黄昏、大相国の亭に参じ(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一〇月一三日 室町殿に参ず。南の方に火有り。二条室町と云々。火、四条の南室町より出で来、西町の南に出で、五条坊門烏丸に至り、大政所旅所の北に於いて止まると云々。(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一〇月一七日 高麗と合戦一定と云々。鎮西の凶党等(松浦党と号す)、数十艘の兵船を構え、彼の国の別嶋に行きて合戦(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一〇月二三日 夜深く北小路の小屋に宿す(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一二月一〇日 西園寺八講の初日(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一二月一二日 午の時ばかりに一条殿に参ず。妙音院御対面の間に見参す(明月記)
嘉禄二年(一二二六)一二月一六日 今出川の新所に向かいて謁し申す。月登りて家に帰る。今日始めて持明院御所に参ぜらるるの次で、女子の事申し出でらる(明月記)
安貞元年(一二二七)正月一九日 五七歳 相府河内の龍光寺(大東市?)に方違へ(明月記)
安貞元年(一二二七)二月二日 南の方に火有り。三条の町、室町の東におよぶと云々(明月記)
安貞元年(一二二七)二月三日 巳の時ばかりに鳴動大地震(明月記)
安貞元年(一二二七)三月九日 昨日、北山懺法結願(明月記)
安貞元年(一二二七)三月一〇日 前太政大臣公経を後院別当とする
安貞元年(一二二七)三月一二日 二条の壬生に於いて乗り替えの馬に騎す。赤江の大渡り組船を以て、御車并に出車を渡す。左宰相中将、南山に参詣。明暁に進発と云々。昨日相国(幕下)同車し給い、室町面の門にたたる。(明月記)
安貞元年(一二二七)三月二〇日 白き瑠璃の器六に梅桜の花を盛り、又唐綾の折敷に青き瑠璃の酒器を居え、傍らに小さき瓶子を置く(明月記)
安貞元年(一二二七)三月三〇日 別当の所々に於いて、件の年貢を停め、鳥羽の堤を築くべき由。鳥羽の修理を営むべし(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月三日 法性寺五大堂の鐘盗み取る。又七条院御堂の仏具等悉く之を取る(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月三日 夜に入り、宰相北山より来たる(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月二二日 信州の事、猶五万疋進め済すべきの由(明月記)
安貞元年(一二二七)閏三月二五日 今日、室町面に築垣を築かる。(明月記)
安貞元年(一二二七)七月一二日 炎旱盛んにして、草木枯槁す。昨日、相門吉田の泉造り改め、移徙さると云々。(明月記)
安貞元年(一二二七)七月二六日 相門室家の不例に依り、明旦西園寺に渡らる。(明月記)
安貞元年(一二二七)八月一日 北山に参向して謁し奉る(明月記)
安貞元年(一二二七)八月七日 前太政大臣公経夫人の全子赤痢で卒す
安貞元年(一二二七)八月九日 北山に詣づ。今日、堂上に昇る。泉の方に於いて謁し奉りて語る。(明月記)
安貞元年(一二二七)八月一九日 北山に詣づ(明月記)
安貞元年(一二二七)九月二五日 北山正日の仏事。又北政所の御仏事、今朝修せらると云々。信濃に下し遣わしし使者法師帰り来る。
安貞二年(一二二八)一〇月一一日 五八歳 前太政大臣公経に牛車宣旨あり
寛喜元年(一二二九)三月一四日 五九歳 稲荷祭の馬頭、毎年五月五日、六条以南の富有の下郎を指すと云々。(明月記)
寛喜元年(一二二九)五月一四日 後に聞く、今日持明院御八講結願。(明月記)
寛喜元年(一二二九)五月二一日 宰相の門、河尻の方に御共(方違えと云々)。(明月記)
寛喜元年(一二二九)五月二三日 一昨日、水田に方違え(小屋有り)。江口の遊女群参す。(明月記)
寛喜元年(一二二九)六月五日 去る夜、一条富小路の小屋に群盗入る。巳の時ばかりに宰相来たる。昨日、殿下吉田に渡りおはします。相門又北山(参ぜず)。明日、国通中納言西郊の家に堂を造りて供養す。(明月記)
寛喜元年(一二二九)六月九日 春の比より巷説、頻りに石を称す(これ隆石と云々、日来相坂の方にあり、雑人云う、此石霊有り、卿帰るにより、風雨を以て常に止まずと云々、相国其の石を運び取り、此の山に引かると云々)一日比、牛十七頭を以て引き取られ了んぬと云々、又云う、其の石に穴有り、獅子の頭に似ると云々、春の比の疾病又石の病と称す。是れ又虚言か。(明月記)
寛喜元年(一二二九)六月一二日 一条富小路の虚空蔵の堂、修理を相加えるためなり(明月記)
寛喜元年(一二二九)七月二日 昨日、相門見物。検非違使友景宅の小門に桟敷をなす。又吉田泉、猶一条河原の方に見物と云々。(明月記)
寛喜元年(一二二九)七月二八日 夜に入り宰相来る。吉田泉に於いて納涼(明月記)
寛喜元年(一二二九)八月一一日 夕に宰相来る。吉田(泉水絶えおわんぬと云々)より来る。殿下御雑熱軽忽の事、猶恐しく思うにより、押して大黄をつくるの由仰せらる。相門唯今参じ給うと云々。宰相、室町殿を去り、私に女房周防大炊御門の小屋におるべしと云々(明月記)
寛喜元年(一二二九)八月一八日 今日御霊の祭りと称し、上の辺りの下人経営。金銀錦繍を着して渡る。今出川に相門見物さる(明月記)
寛喜元年(一二二九)八月二五日 明後日、有馬湯に下向せしめ給う(一条相国新造の湯屋と云々)(明月記)
寛喜元年(一二二九)九月一三日 春日に参詣
寛喜元年(一二二九)一〇月一六日 昨日、北山室家墓所の小堂供養(明月記)
寛喜元年(一二二九)一〇月二〇日 従一位前太政大臣公経に左右近衛府生以下為随身(公卿補任)
寛喜元年(一二二九)一〇月二二日 午の時ばかりに今出川に詣づ。室町の亭に渡られおわんぬ。夕に室町殿御覧のため渡りおはしますと云々。(明月記)
寛喜元年(一二二九)一二月一五日 後に聞く、春日小路室町の辺りに火有りと云々。前大相国、兵仗辞退の表を上らると云々(明月記)
寛喜元年(一二二九)一二月二〇日 公経、兵仗を辞す
寛喜二年(一二三〇)正月一四日 六〇歳 公経、藤原為家の吉田第に赴く「相門行幸を経営。私に方違え、宰相の吉田に渡らると云々(明月記)」
寛喜二年(一二三〇)正月一五日 公経の第に行幸
寛喜二年(一二三〇)正月一七日 暁より吉田に会合(明月記)
寛喜二年(一二三〇)閏正月一一日 相門に詣づ、只今、西園寺に渡らると云々。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)閏正月一四日 夕に宰相来たりて言う、明暁相門水田に御座す。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)二月二八日 来る朔日に京を出て、二日始めに湯屋に宿すべし。一一日、又始めに水田新造の屋に宿し、一二日に帰るべし(明月記)
寛喜二年(一二三〇)三月一日 公経、有馬へ赴く、二月二四日 湯山へ下向、吹田新造屋
寛喜二年(一二三〇)三月一八日 侍来たりて言う、吉田に渡り給いおわんぬと(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月五日 明日、大相方違えのため、水田に向かう(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月六日 人々言う、水田御方違えの間、去る四日住吉の方を御覧ずと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月一七日 松尾西七条の神人、桂の供御人等を訴える。今夜御方違え、別当の家に行幸と云々。相国、又明暁水田に方違え。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)四月一八日 公経、方違により吹田へ
寛喜二年(一二三〇)四月三〇日 明日、西園寺故亡室千日追善(明月記)
寛喜二年(一二三〇)五月二日 公経、実氏と吉田西殿で会飲
寛喜二年(一二三〇)六月二一日 即ち馳せ出で、相具して円明寺を覧る(寛済法印譲り奉る)。未の時ばかりに直ちに吉田に帰らる(明月記)
寛喜二年(一二三〇)七月二七日 今暁、相門又円明寺に渡らる(明月記)
寛喜二年(一二三〇)七月三〇日 去る夜の夜半ばかりに女房局より送りていう、少女謬りて鏡を打ちわり(板に落としてわる)、禁忌あるの由之を聞く。只其の鏡を鋳改むべし。其の鏡鋳改め、螺(ら)に繋ぎ、日吉社に奉りおわんぬ(明月記)
寛喜二年(一二三〇)八月一五日 北山に詣でおわんぬ(明月記)
寛喜二年(一二三〇)八月二五日 相門又円明寺、宰相供奉す。暁更に京を出づと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)九月二七日 夜前大相・幕下、殿に参じ給うと云々・明日相門又円明寺。紅葉の盛りと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)九月三〇日 一昨日相門、円明寺より松尾・法輪・嵯峨等の紅葉を歴覧の遊びおわんぬ。嵯峨に於いて夜に入ると云々。(明月記)
寛喜二年(一二三〇)一二月一二日 関白道家 公経の西園寺第へ赴く「宰相西園寺に入る(又新造の屋に移徙)。仁和寺に内々の御贈り物、相門調へ献ぜらる。錦を火桶に埋める(銀の鉢に砂金。紅の薄様を以て之を裏む)(明月記)」
寛喜二年(一二三〇)一二月二一日 但し今朝相門・幕下北山遊びと云々(明月記)
寛喜二年(一二三〇)一二月二五日 宰相吉田に大相渡らる。青侍等言う、持明院殿に行幸。輦(くるま)路一条町(北に行き)、中宮御所の北路(東に行き)、室町を北と云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)正月一六日 六一歳 北山第に弓会をおこなう
寛喜三年(一三二一)二月七日 藤原定家に障子の絵に物語の和歌を書かせる
寛喜三年(一三二一)二月二七日 今暁、大相円明寺に方違(明月記)
寛喜三年(一三二一)三月三日 相門明後日湯山に下向の由、日来出で立たるるの由之を聞く(明月記)
寛喜三年(一三二一)三月五日 今夕、御方違え持明院殿になすべし(明月記)
寛喜三年(一三二一)三月一七日 公経、有馬へ赴く
寛喜三年(一三二一)三月二二日 慟哭すべく長大息すべき事耳目に満、間断なし。一の中納言中将を歴るの人、凡人のために超越され、一の執柄の息二位中将となし、卑賤の参議三人登用。一の左相府一旦非分の大将を授けらると雖も、同圏の牢に異ならず。即ちその両職を止められ、御父祖御自身並びに家の叔父子息、故無く四人を解却、耻辱(ちじよく)一時に計り会う。今度御摂籙の光華、椒房(しようぼう)寵愛の降誕、只、御一門の耻となす。大相一人の任意、福原平禅門に超過するか。賤老身上の事に於いては、更に世間の道理にあらず。又当時の謬挙にあらず。只、冥助なきに依り毎度障難あるか、悲しむべきの運なり。灸燗れ病侵し、憂い切に、魂消ゆ。眠らずして暁鐘を聞く(明月記)
寛喜三年(一二三一)七月一六日 公経病む
寛喜三年(一二三一)八月一日 南の方に微火有り。雑人説、尊勝寺残る所の塔と云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)八月一五日 公経、昨日吉田にて競馬を催す「昨日吉田泉 競馬と云々(明月記)」
寛喜三年(一二三一)八月三〇日 来る四日、太相湯山の儀やむ。しかも、内府相共に水田に行き、有馬湯を運びて浴せらるべし(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月三日 相門水田延引(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一一日 内府、追ひて水田に向かうと云々。湯治の名有りと雖も、其の本意只遊放をなすと云々。和泉の境、又葦屋、布引、すま、明石をみらるべしと云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一五日 明後日両殿下円明寺におはします。武衛、水田より馳せて参会。天下只遊放するか。おのおの海内の財力を尽くすと云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一六日 相門、十四日葦屋を歴覧の後、行寛房に宿せらる。その後水田に帰る。昨日湯を始めらる。ほかに出で行く有るべからずと云々。桶二百を以て毎日有馬の湯を運ぶと云々(明月記)
寛喜三年(一二三一)九月一七日 道家、公経の円明寺に赴く
寛喜三年(一二三一)一二月二二日 六一歳 公経病により出家する。法名は覚勝、准三宮
貞永元年(一二三二)三月九日 六二歳 公経、西園寺成就院で三十七壇愛染王供を修す
貞永元年(一二三二)五月二八日 道家夫妻と教実が公経の今出川新第へ赴く
天福元年(一二三三)正月二九日 六三歳 公経の今出川亭に方違
天福元年(一二三三)五月一九日 公経病む。腹病 今出川北亭
天福元年(一二三三)五月二一日 禅門一昨日例の方違え(河陽)。腹病発せられ、事のほか煩わさる。帰路より直ちに西園寺に渡られおわんぬ。禅門日来の如く今出川に座せらる(北亭)。(明月記)
天福元年(一二三三)五月二六日 公経、三浦光浦を河崎泉亭に招く
天福元年(一二三三)六月一三日 実任、無礼を咎めるか、飛礫をもって其の後ろを打つ(明月記)
天福元年(一二三三)七月九日 今日禅門・内府(公経・実氏)水田に方違(明月記)
天福元年(一二三三)七月一七日 堀河上皇、公経の吉田泉亭に御幸
天福元年(一二三三)八月二日 当時南都に猫胯という獣出で来。一夜に人七八人をくう(明月記)
天福元年(一二三三)八月八日 公経病む
天福元年(一二三三)八月一五日 西園寺に参ず(明月記)
天福元年(一二三三)八月一九日 今暁、禅門有馬に下向さると云々(明月記)
天福元年(一二三三)八月二一日 禅門の悲歎、今度又比類なし(明月記)
天福元年(一二三三)九月二六日 禅門の亭に参ず(明月記)
天福元年(一二三三)一二月二八日 公経の今出川第に方違
嘉禎元年(一二三五)正月九日 六五歳 公経の今出川第に方違
嘉禎元年(一二三五)正月一四日 節分の夜、両殿・北政所以下今出川に渡りおはします。昼より。後亭に御座す。海内の財力を尽くす(明月記)
嘉禎元年(一二三五)三月一二日 宇都宮頼綱、名馬を公経に贈る
嘉禎元年(一二三五)五月二七日 公経 吹田に方違
嘉禎元年(一二三五)六月三日 八幡(薪庄)と春日(大炭庄)隣を占め、耕作の水を論ず。(明月記)
嘉禎元年(一二三五)八月一七日 公経の今出川第焼亡
嘉禎元年(一二三五)一一月二三日 禅室温泉に今暁已に京を出でられおわんぬ(明月記)
嘉禎元年(一二三五)一二月四日 公経、吹田に赴く「暁更、吹田に赴くと云々(明月記)」
嘉禎元年(一二三五)一二月二〇日 禅室、日吉に参詣し一宿(明月記)
嘉禎二年(一二三六)二月二二日 六六歳 薩摩守小鹿島公業の所領の伊予宇和郡を公経の所領とする 常磐井入道太政大臣家
嘉禎三年(一二三七)正月一日 六七歳 道家、公経の今出川亭に方違
嘉禎三年(一二三七)一〇月二日 太政入道公経、四天王寺へ参詣
嘉禎三年(一二三七)一一月一四日 公経の北山西園寺へ行幸
暦仁元年(一二三八)二月二二日 六八歳 公経の第へ赴く
暦仁元年(一二三八)二月二三日 公経、泰時と会見
暦仁元年(一二三八)閏二月三日 公経、頼経を招請して饗す
暦仁元年(一二三八)三月一九日 公経、頼経を北山別業に招請する
暦仁元年(一二三八)一〇月一二日 頼経が父の道家の一条亭と公経の今出川亭を訪ねる
暦仁元年(一二三八)一〇月二八日 公経の今出川第に方違行幸
暦仁元年(一二三八)一一月一一日 公経の政所、安芸の国沼田荘地頭美作守小早川茂平の申請による
延応元年(一二三九)正月二六日 六九歳 公経、西園寺五大堂において天台座主
延応元年(一二三九)六月一四日 祇園御霊会により公経の一条今出川第に行幸
延応元年(一二三九)八月一四日 公経今出川第で競馬
仁治元年(一二四〇)正月四日 七〇歳 公経の西園寺に行幸
仁治元年(一二四〇)七月二〇日 公経、西園寺で逆修をおこなう
仁治元年(一二四〇)閏一〇月二八日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治二年(一二四一)四月四日 七一歳 公経第にて舞楽
仁治三年(一二四二)三月一日 七二歳 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)四月一五日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)五月一〇日 公経の今出川亭で舞楽
仁治三年(一二四二)五月二八日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)七月四日 あるものいわく、公経の唐船帰朝、銭貨一〇万貫、種々の珍宝、能言鳥一羽、水牛一頭、鳥は人の言葉を一字違わず言う、水牛は普通の牛の二〇頭の力、公経は檜で三間四面の館を造る、山城槇島に花亭を造営
仁治三年(一二四二)七月一〇日 公経の今出川亭に方違行幸
仁治三年(一二四二)八月二二日 公経の今出川亭に方違行幸
寛元元年(一二四三)三月二七日 七三歳 公経、中宮の御産祈願
寛元元年(一二四三)四月八日 中宮、公経の今出川亭に退出
寛元元年(一二四三)六月二一日 公経病む、瘡病
寛元元年(一二四三)九月二日 公経、今出川第で五壇法を修す
寛元元年(一二四三)九月 公経、住吉社に参詣、槇島へ赴く 常磐井入道実氏
寛元元年(一二四三)一〇月七日 公経、熊野に参詣
寛元二年(一二四四)二月二三日 七四歳 公経、今出川亭で舞楽
寛元二年(一二四四)二月二六日 公経、西園寺五大堂で七仏薬師法
寛元二年(一二四四)八月四日 中宮、公経の今出川亭に方違行啓
寛元二年(一二四四)八月二九日 七四歳 公経 薨ず
宝治二年(一二四八)八月二九日 実氏、西園寺で公経のために法華八講

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