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2008年2月 1日 (金)

鹿男あをによし(第3回)

枚方の国道1号線と国道307号線の交差点は、田辺から来るととてつもない渋滞に出会う。
その日も慌ただしく田辺を出てきたのは良いけれど、その渋滞にはまって時間をすっかりロスしてしまった

2007年12月22日の新聞各紙によれば、枚方市中宮西之町のその場所から奈良時代の大型多尊磚(本当は土偏)仏が見つかったという
百済から派遣されていた善光王は、白村江で祖国が滅んだ後、百済王(くだたのこにきし)として難波に土地をもらい永住を保証された
その後、高級官僚として朝廷で活躍し、敬福の時に交野に拠点をおき、摂津の百済寺と百済尼寺(大和路線に百済という駅がある)に続き寺その地に築いたと言われる
敬福は陸奥守に任ぜられそこで砂金を発見し、聖武天皇に献上して東大寺盧遮那仏造立に大きく貢献した
桓武の母の高野新笠は百済の武寧王の後裔とも言われ、桓武は百済王を外戚と呼んだ

今回見つかった大型多尊磚(本当は土偏)仏は、そんなこの寺と天皇のつながりの強さを物語るものだとも言われている
昭和8年に大阪府が史跡に仮指定し、16年に文部省によって史跡に指定されたことにより、市街地の中でありながらとてもよく保存されている
単純なことだが、やはり残っているということは偉大である

鼠と難波宮との関係は有名な日本書紀のエピソードのひとつ
正確に言うと
「(孝徳天皇の大化元年)冬十二月(ふゆしはす)の乙未(きのとひつじ)の朔(ついたち)癸(みずのとの)卯(うのひ)(9日のこと)に、天皇、都(みやこ)を難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に遷(うつ)す。老人等(おきなら)、相謂(あひかた)りて曰く、「春より夏に至るまでに、鼠の難波に向(ゆ)きしは、都を遷す兆なりけり」といふ」(岩波書店『日本古典文学大系』279頁)

明けて翌年、あの有名なフレーズが続く
「二年春正月の甲子の朔に、賀正禮畢りて、即ち改新之詔(あたらしきにあらたむるみことのり)を宣ひて」
また
「畿内(うちつくに)は、東は名墾(なばり)の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、西は明石の櫛淵より以来、北は近江の狹狹波の合坂山より以来」とあり
三重県の名張、和歌山県の伊都郡かつらぎ町、西は明石、北は滋賀県大津市の逢坂山が当時の領域認識だったことがわかる

なお「天智5年冬、みやこの鼠、近江の国にむきてうつる」とあって、鼠は大津京移転に際しても活躍している

ちなみに長岡京遷都は、蝦蟇2万匹が難波市から四天王寺へ行進している、という和気清麻呂(当時の大阪府知事兼市長)の報告がきっかけとなっている

今も昔も、どんなに科学が進んでも、人が人以外の自然の「なにか」を畏れる気持ちに変わり無いし、とても大きな出来事に直面したとき、自分達を納得させるためにそれと上手につきあってきたひとつのエピソードだと
そんな話しを、以前に生協食堂の前で工学部の先生にしたら、とても面白がってくれたことを思い出した

『奈良県民だより』の2月号の表紙に玉木宏と綾瀬はるかが東大寺の正面を歩いているカットが載っている
やはり残っていることは偉大だと思う
そして4頁には知事がロケ現場を訪問したコラムが載っている
やはり少しだけ羨ましい

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