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2008年2月26日 (火)

雨の松浦党

080226_140001 昨日の夕方から降りだした雨はすっかり本降り
悔しいほどに天気予報が当たった
珍しいことだと思いながら松浦で降りる

 西園寺家と東アジア交易の関係については、『民経記』(『故一品記』)の仁治三年(一二四二)七月四日の記事が有名である。それによれば、公経が檜で三間四面の殿舎を造り解体して宋に贈ったところ、宋帝が喜び、銭貨一〇万貫と種々の珍宝がもたらされ、その中には人の言葉を一字違わず話す鳥と、普通の牛の二〇頭の力を持つ水牛がいたという。

 この点について注目されるのが、鎌倉時代末期に西園寺家領の一つとして登場する宇野御厨の存在である。宇野御厨は、現在の長崎県から佐賀県の北部を中心に、平安時代には福岡県から五島列島までの広い範囲におかれた贄所で、『肥前国風土記』によれば、古来より海産物を納め、また馬・牛に富むと伝える。西園寺家との関係は、公経より時代の下がる「西園寺実兼処分状」『雨森善四郎氏所蔵文書』の元亨二年(一三二二)八月一六日条に見え、年貢の小牛が今出川兼季と西園寺実衡に折半して与えられている。

 伊万里では伊万里牛が盛んに宣伝されていたが、これはまさか宇野御厨を起源とするものだろうか。閑話休題

 さらに注目される点は、康和四年(一一〇二)八月二九日の『宇野御厨検校源久譲状案』によって松浦党の祖と伝わる源久が「宇野御厨検校」と称されているように、その中心部が松浦党の勢力範囲と重なっていることである。松浦党は、『明月記』嘉禄二年(一二二六)一〇月一七日条にあるように、すでに公経の頃から海上交通に長けた集団として認知されていた。西園寺家にとっての宇野御厨は、二重に重要な意味を持っていたと考えられる。

 ところでは宇野御厨に関わる「御厨」地名は、現在の長崎県松浦市西部に所在するが、岬をはさんでその東の伊万里湾を望む場所に楼楷田遺跡がある。
 現在は火力発電所がその先に建っており、発掘調査された場所はその進入路となっている。当時の面影をそこから探すのは難しいが、階段状の耕作地の地形がそのまま残っており、それを手がかりトレンチの位置を甦らせることができる。

 発見された遺構は石敷の道路状遺構と墓、たたら状遺構、掘立柱建物跡などで、石敷の道路状遺構は海へ向かい長さは一三〇メートル以上におよぶ。遺物は大量の土器・陶磁器を中心に、滑石製鍋、鞴羽口(ふいごはぐち)やスラグなどの金属加工関連など約一七七〇〇点でを数える。なお土器・陶磁器の内訳では、中国製の白磁碗が最も多く、青磁・陶器・朝鮮製・青白磁と続く。また土器類は在地産の黒色土器や瓦器碗、土師器皿に加え、瀬戸内東部から持ち込まれた東播磨系捏鉢や、亀山系甕もみられる。時期は一二世紀から一三世紀を中心に一部は一四世紀におよぶ。
 遺跡の所在する志佐地区には、寛元二年(一二四四)四月二三日の「関東裁許状」『山代文書』に肥前国御家人の一人としてみえる「志佐六郎貞」が関係する。御厨の大崎には東防という地名が残る。服部英雄さんは楼楷田遺跡からみつかった墨書から、これを「唐坊」と推測する。あわせておそらく志佐氏に関係した「船泊り」周辺の施設ではないだろうか。

080226_144101  振り返ると、右手には悪太郎沢の谷が伸び、左前方に丘陵の先端が見える。そのすぐ脇を現在の国道の旧道が緩やかなカーブで丘陵の鞍部を選んで松浦の街へ向かう
 遺跡を例えば荷揚げ場のような市の様な所とすれば、この丘陵がその本拠となる
 想像を逞しくすれば、不揃いな掘立柱建物は、まさに一遍聖絵に登場する市の風景であり、墓もまたその象徴と言える

 ところで松浦の街を志佐川沿いに約二キロ遡った宮ノ下り遺跡からも中国陶磁器を多く含む古代・中世の遺物が出土し、ここからは緑釉陶器と東播磨系捏鉢および畿内系の瓦器碗がみつかっている。
 これらの資料が西園寺家との関係を直接示すとは言えないが、鎌倉時代において宇野御厨あるいは松浦と瀬戸内および畿内をつなぐ存在が、確実にそこにあったことを具体的に物語っている。

 松浦市の東端には松浦党の本拠と伝える梶谷城跡がある
 一見すると戦国の山城だが、実は海の城とも見える
 鎌倉時代の東アジア史を知るための資料が、この松浦にはいたるところに残っている

 半年ぶりの九州新幹線はやはり快適だった
 鹿児島はにぎやかでいたるところが篤姫だった
 思えば、九州島の北の海から西の海を見ながら南を海を経由して西の海まで来たことになる
080226_212401  なんと贅沢なことか

余談ですが
鹿児島中央駅ビルの地下にあるきびなご鮨で有名なとらや寿司はとても旨い
ちなみに相手は冠嶽山

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