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2008年3月20日 (木)

徒然草の小川と小野篁

「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる」と、人のいひけるに
「山ならねども、これらにも、猫の経(へ)上りて、猫またになりて、人とる事はあなるものを」と言う者ありけるを
何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺(ほとり)にありけるが、聞きて
ひとりありかん身は、心すべきことにこそと思いけるころしも
或所にて夜更くるまで連歌して、ただひとり帰りけるに
小川(こかわ)の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず足許へふと寄り来て
やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす。

肝心(きもこころ)も失せて、防がんとするに力もなく、足も立たず
小川へころび入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば
家々より、松どもともして走り寄りて見れば
このわたりに見知れる僧なり。

「こは如何に」とて、川の中より抱き起こしたれば
連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも
水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて
這う這う家に入りにけり。

飼いける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

(『徒然草』第八九段「日本古典文学大系」岩波書店)

『徒然草』は吉田兼好の作で1317~1331年の間に成立かとされるが詳細は不明
有名な随筆で、清少納言と『枕草子』と共に、代表的な作品
亀山殿の話も石清水八幡宮の話もあって、鎌倉時代の風景の再現には不可欠

先日、院生の話を聞いていて、学部時代にゼミで『風土記』をテーマにした課題が出て
兵庫県の遺跡地図をコピーして貼り合わせ、丸太町烏丸の印刷屋さんで縮小したものをつくり
それに播磨国風土記の情報を貼り付けていったものを持って行ったら
さすがの森先生も驚いていたことを思い出した

同志社の考古学の学風として
遺跡情報と隣接諸分野の情報を位置情報を基に総合することはすでにその頃からおこなわれていたこと

そんな総合する隣接諸分野のひとつが国文の資料でもあるが
過日はそれを主眼に小野篁伝説から鎌倉時代の京都の都市の話をしてみた
おおむね好評だったと思うが
さすがに「篁物語」は別の世界だと思ってできなかった

今あらためてこの段を読むと、確かに小川周辺が鎌倉時代後半には人家の多い
一帯だったことがわかる
日が沈むと人並みが途切れるのは、過日の粟生でもあったこと
けれどもなにか事があれば、人が松明をもって駆けつけてきてくれるような場所だったということ
けれでも、これは小川沿いの一帯に人家があるのか、一条沿いの一帯に人家があるのかは実は微妙

同第50段
「応長の頃、伊勢の国より、女の鬼に成りたるをいて上りたりという事ありて
その比二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出惑う。
「昨日は西園寺に参りたりし、京は院へ参るべし、ただ今はそこそこに」など言い合えり
まさしく見たりという人もなく、虚言と言う人もなし
上下ただ、鬼の事のみ言い止まず
その比、東山より安居院辺りへまかりはべりしに、四条よりかみさまの人
皆、北をさして走る
「一条室町に鬼あり」とののしり合えり
今出川の辺より見やれば、院の御桟敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり
はやく跡なき事にはあらざめりとて
人を遣りて見するに、おおかた逢える者なし
暮るるまでかく立ち騒ぎて、果てはとうじょうおこりて、浅ましきことどもありけり
その比、おしなべて、二三日人のわづらう事はべりしぞ
かの鬼の虚言は、このしるしを示すなりけりと言う人もはべりし」

これは西園寺と持明院のどのような評判を物語るのだろうか

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