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2008年4月

2008年4月29日 (火)

亀山と北山

1眼レフの良さを改めて実感した1日でした
出版社からカラー図版の打診を受け
EOSを片手ににわかに嵯峨野へ

少しかすんで見える空に戸惑いを覚えながら
嵯峨嵐山を降りて、有名なコロッケ屋の前を通りゴールデンウィークの人波に紛れる
001目的はもちろん亀山だが
その前に、以前うっかりして確認しなかった後嵯峨天皇と亀山天皇の墓に詣る
中世のある時に朱雀とも呼ばれた天龍寺前の道を大堰川へ向かう
さて、今日はどんな顔を見せてくれるかと思いながら
渡月橋の途中で振り返ると
今日も見事な亀山である
途中で構図を考えながら足早に中島へ
002  屋台の先に河原へでる空間を見つけて渡月橋から亀山をねらう

梁塵秘抄に桂と亀山が同時に登場し
上皇の遊興にも桂から嵐山へのコースがある
現在の桂の駅を意識するととても想像できないことだが
過日、W先生の家にいく途中
阪急電車が桂川を渡るとき、一瞬この亀を見た気がして
おもわず車中で声をあげそうになった
これに気づいた人はほとんどいないのではないかと思うが
梁塵秘抄に桂が登場するのはその意味があるような

河原のベンチに乗って夢中でシャッターを押していたら
大学生らしいカップルが写真を撮ってほしいと声をかけてきた
カメラおたくと思われたのだろうか
はやりの小型のデジカメを渡されて渡月橋をバックにした二人の写真を撮ったが
1眼レフに比べるとあまりの不安定さに手ぶれをしたかもしれない

思いの外良い写真が撮れたと満足して嵐電から北野白梅町へ
嵐電に載るのは本当に久しぶり
常盤から双ケ丘の西を上がって宇多野から仁和寺を通過する
そう言えば駅の名前が変わったと聞いていたがこのことだったかと
あらためて歩いてみたいところばかりだが
時間が無いので終点で降りて北へ向かう
目的地は勿論北山西園寺である

左大文字を入れておさめれば雰囲気がでるかと思い
平野神社の脇を西大路をゆっくり登る
歩いてみればあらためてわかるが
確かに北山である
しかしさすがに都会でビルが建ちならび北山はカメラにおさまろうとしない
やむなく西へ入って住宅街から構図をねらう
結局金閣寺の入り口まで来てしまい
正面から左大文字を撮るがどうもしっくりこない

あきらめきれずに南西にまわりこみ山を探すも近すぎて感じがでない
しかなく、途中の旧河道のような道をおりていくと
左手が金閣小学校で右手が衣笠中学
その先は立命館
金閣小学校の屋上あたりが良いような見当をつけるがもちろん入れるはずもない
迷いながら地図を見直すと
金閣寺と山と船岡山がちょうど並んでいることに気づく
見慣れているはずなのに気づくのが遅いと思いながら
船岡山を目指そうと決めたとき
金閣小学校のすぐ北に白河天皇火葬塚という文字を見つける
そういえば白河天皇は鳥羽の葬られる前に北山で火葬されたとある
それがここかと
003 北山西園寺から徒歩5分
広い意味ではその境内の一部
もちろん時代は違うが
けれども
公経はそれを知っていただろうもちろんそうに違いない

知っている人以外は絶対行くことのできないような火葬塚を確認して西大路へ出る
目の前を205番が通り過ぎる
やれやれと思い北の金閣寺前のバス停まで歩き始めた時
思い描いていた構図が目の前に現れた
004 左大文字が正面に大きくそびえ
その左下に金閣寺の森が横たわる
以前に農林会館が建っていた場所が現在金閣寺の駐車場になっている
絶好の空間だった
時刻は1時に近く太陽光線はぎりぎりのタイミング

006 念のために船岡山に登る
ちょうど南側の雑木が刈られており視界がひろくとれ
いつもは見えない京都新聞社が望遠で確認できる
空気が澄んでいれば遠く神南備山まで見通せたかもしれない
大学生と思われる女子がひとりで写真を撮ってすぐ降りていった

005レポートだろかと思いながら
あとから上ってきた妙齢のご夫婦と景色についてしばし歓談

京都文化博物館での待ち合わせは3時
まだ少し時間があるので
五辻殿の碑を撮ろうと山をまっすぐ南下する
猫寺を過ぎ、雨宝院を左手に見て本隆寺の西の築地が途切れたら五辻
007 少し千本へもどって光線の加減を見ながら石碑を撮る
時刻はちょうど2時
59番に乗って河原町三条まで出ると
ゴールデンウィークの京都はまだ始まったばかりだった

2008年4月25日 (金)

S(Y)くんへ
(vodafoneなら途中で切れるかもしれませんが)
さっそくメールありがとう
元気そうでうれしいです
あれはまだ非常勤だった時だから1997年か98年頃だったでしょうか
和束町にある金胎寺の総合調査で一緒に山に登りましたね
その君が
文化情報学部へ移って初めてのゼミ生と出会ったとは
なんと縁の深いことでしょう
月曜日にO君が部屋に来て嬉しそうに話をしてくれました

そちらへは15年ほど前に行ったきりですが
日吉大社や石清水八幡宮を調べていた時から
太平洋岸のネットワークの主人公として気にしていました
そういえば、数年前に瑞巌寺へ行ったときに
近くの島に関係する神社があり
宮城県にも大きな中心があって驚いたことがありました
もちろん一遍もへ行っています
これもまた縁だと思います

そう言えば、1999年頃に考古学実習を受講していた学生君から
久しぶりに連絡があって
立派な報告書を送ってきてくれました
みんな、色々なところで頑張っているようで嬉しかったです

今年は再び善光寺について調べてみたいと思っていますが
(そうそう10月にシンポジウムがある予定です)
来年にはきっと一遍と一緒に風景を確かめに行きます
それから、去年の後半からこの3月末までで書き上げた原稿のゲラがあがってきました
080424_231601 夏までには出したいと思っています

また連絡します
ではまた

2008年4月11日 (金)

吉田泉殿跡

京大構内の発掘調査で西園寺公経の吉田泉殿関係の遺構が発見され
11日にその説明会が開催されたと新聞で発表された

「五代帝王物語」という群書類従に入っている作品がある
成立は乾元元年(1302)から嘉暦2年(1327)とされ、作者は後嵯峨院の北面の源仲朝の近親かとも言われる
後堀河から四条、後嵯峨、後深草、亀山の時代をコンパクトに描いた歴史物語で増鏡の依拠資料でもある
その中に公経が造営した別業として
「天王寺・吹田・槇の島・北山さしも然るべき勝地名所には、山荘を造り営みたり」とある
さらに、明月記によれば、山崎の圓明寺、河崎泉亭(おそらく現在の出町あたりにあったと思われる)も同様な施設として知られる
吉田泉殿は、公経が営んだこれらの別業にならぶもので
明月記には次のような記事で登場する

嘉禄2年(1226)4月3日 冷泉の方大白の方に依り、吉田に宿せんがため、酉の時ばかりに河東に赴くの間、前行する使の者帰りて云う、大相国すでに渡りたまう(明月記)
        6月22日 吉田の泉に参ず(相国渡りおはします)(明月記)
安貞元年(1227)4月30日 相門吉田の泉造営、已に功成り寄すと云々(明月記)
        7月12日 炎旱盛んにして、草木枯槁す。昨日、相門吉田の泉造り改め、移徙さると云々。(明月記)
寛喜元年(1229)6月5日 去る夜、一条富小路の小屋に群盗入る。巳の時ばかりに宰相来たる。昨日、殿下吉田に渡りおはします。相門又北山(参ぜず)。明日、国通中納言西郊の家に堂を造りて供養す。(明月記)
        7月2日 昨日、相門見物。検非違使友景宅の小門に桟敷をなす。又吉田泉、猶一条河原の方に見物と云々。(明月記)
        7月28日 夜に入り宰相来る。吉田泉に於いて納涼(明月記)
        8月11日 夕に宰相来る。吉田(泉水絶えおわんぬと云々)より来る。殿下御雑熱軽忽の事、猶恐しく思うにより、押して大黄をつくるの由仰せらる。相門唯今参じ給うと云々。宰相、室町殿を去り、私に女房周防大炊御門の小屋におるべしと云々(明月記)
寛喜2年(1230)正月17日 暁より吉田に会合(明月記)
        3月18日 侍来たりて言う、吉田に渡り給いおわんぬと(明月記)
        5月3日 昏黒に宰相来たる(吉田より帰る)。昨日、召しに依り殿に参ず。社寺の沙汰訖んぬるの後、西殿の泉屋に於いて杯酒の事有り。(公経、実氏と吉田西殿で会飲)(明月記)
        6月21日 即ち馳せ出で、相具して円明寺を覧る(寛済法印譲り奉る)。未の時ばかりに直ちに吉田に帰らる(明月記)
        12月25日 宰相吉田に大相渡らる。青侍等言う、持明院殿に行幸。輦(くるま)路一条町(北に行き)、中宮御所の北路(東に行き)、室町を北と云々(明月記)
寛喜3年(1231)8月15日 公経、昨日吉田にて競馬を催す「昨日吉田泉 競馬と云々(明月記)」
天福元年(1233)5月29日 近日、禅室吉田泉亭に臨幸。経営の他無し。来る九日の由、兼日の聞こえ有り。聞くが如くば更に嗜欲の淵源を極め、驕奢の荒淫を催さんと欲す。高台深池の望み、金銀錦繍の翫、雕?剥餧の餝を増し、奇厳怪石の勢いを添うるか。(明月記)
        7月17日 堀河上皇、公経の吉田泉亭に御幸

龍粛氏の説明によれば、「臨幸を仰いだ時には、赤地の錦で作った橋を泉水に架け、橋の柱には名香である沈香を用いて、風流を極めたことが評判となり、六波羅の武家が後でその様子を見物したと伝えている」

公経の豪奢な生活ぶりは、吹田でのエピソードでも有名だが
吉田泉殿での様子もそれに劣らないものだったのだろうか

なお
寛喜2年(1230)正月14日 公経、藤原為家(定家の息子)の吉田第に赴く「相門行幸を経営。私に方違え、宰相の吉田に渡らると云々(明月記)」
とあるように、吉田にはほかにも貴族邸宅があったことがわかる

もとより鎌倉時代の京都において、西園寺公経とその一族が卓越した存在だったことは確かで
その点については、もっと注目されてるべきだと考えている
ただし、これまで知られている公経についてのエピソードの内、特にその豪奢な部分については
それが全て事実だったかどうかは当時の政治情勢をふまえた上での検討が必要ではないかとも思っている

ともあれ京都の歴史の中の鎌倉時代は、多く語られることのない時代だったことは事実で
あの『京都の歴史』においても、第三巻の全てが室町時代であるのに対し、第二巻は、第一・二章が院政期、第三~五章が鎌倉時代、第六章が南北朝となっている

寒梅館地点と学生会館地点の溝の調査以来、持明院殿から西園寺の存在に注目して
一条北辺を中心とした鎌倉時代の京都を考え続けている身にとって
今回の京大構内遺跡の調査成果は、京都の歴史を見直す非常に重要な発見だと考えている

ちなみに、公経の本邸は同志社大の新町キャンパスに近い一条新町北西にあり、北山の麓にあるのが立命館大で、吉田泉殿にあるのが京都大である
公経にちなむ不思議なつながりを感じてしまうが
これは得意の思い過ごしなのだろうか

2008年4月 7日 (月)

雨の法住寺殿

と言っても一部のマニアしかわからず
雨の蓮華王院と言ってもそうは変わらないかもしれない
雨のハイアットと言えば大体の人にはわかるのだろうか
言うまでもなく雨の京都国立博物館のことで
明日から暁斎の特別展示がはじまる

河鍋暁斎は、幕末から明治に生きた画家で
初めは浮世絵を学び、後に狩野派を学び
そのユニークな画風は、時代性もあって
特に海外で高く関心を呼んだと言われる
確かに
泣きたくなるほど面白いというキャッチそのままである
けれども
もちろんただ面白いではなく
ずっとその作品群の中にいると
暁斎という人物の技術の高さと芳醇な感性の勢いに圧倒され
なるほど文化というものは
こういうものだったかと深く得心できる気持ちになる

文化情報学部の学生君達も
ぜひ、この文化に圧倒される感じを受け取ってほしい
情報はその「感じ」の中から
「感じ」がわかって初めて得られるもの
文化とは人なり、である

隣の平常展示館は
特集陳列として「平安時代の考古遺物」が2室でひらかれている
最近京都の原稿を書き上げたばかりだったので
これまでと違った目で見る
六勝寺の時代の瓦は、やはりやや小さいのだろうか
道長の経筒が何気なく置いてある
緑釉の経外容器が光る
胴に描かれた3条の線は、その後常滑の壷につながる
その意味は仏教思想によるとも言われるが
金属製の経筒を見ていたら
つなぎめが元だろうかとも

花背経塚の資料が並んでいる
確かに3足の土器は火舎で
岩手と鳥羽と新町で出ている不思議な壷もある
明日から新学期
今年もたくさんの話をしよう

2008年4月 3日 (木)

鹿男あをによしが終わったら入学式だったの巻

2月に公経と二人三脚で洛中洛外図の小川を下り
3月に入Rimg0011って早々、小野篁に翻弄されながら神戸と大阪と京都と西大寺をめぐり
12日に播磨の山を駆け下りて
16日には源氏中将と紫の上と一緒にN社のゲーム端末を持って押小路を西へ向かう

18日に奈良県立橿原考古学研究所付属博物館へ行ったらA1版かA0版くらい大きな鹿男のポスターがあった
奈良県民が心待ちにしていた鹿男がいよいよ最終回を迎える
荒唐無稽な話だったが
奈良県民にとっては楽しみにな数ヶ月だった
原作者は京大出と聞くが、三角縁神獣鏡の研究史はしっかり勉強していた
Collection これで近鉄電車の玉木宏がもう見られなくなるかと思うとやはり少し寂しい
それにしてもあの奈良駅はどこだろう
(おそらく天理ではないかと思っていたら、就活で京都行きの近鉄で一緒になった奈良県民の女子学生がやはり天理駅だと教えてくれた)
春学期一番の授業で篤姫と鹿男の話をしようと思いながら
テレビ局のホームページからあの鹿の有名なフレーズを携帯にダウンロードしてゼミの学生に自慢をしたら
奈良県民には尊敬され、大阪府民にはあきれられてしまった

080402_224001 猫またにおびえながら最終章を終えたのが22日
23日に神楽岡の麓で鳥羽を想い
そのままの勢いで短いものを一本書いて
27日に吉田泉殿からセカンドハウスへまわっていたら3月は終わっていた

入学式は嬉しい晴れ
080401_092601 いつもの賑やかなキャンパスに戻った京田辺には、期待感いっぱいの新入生と
就活に落ち着かない4回生が共存する
卒業研究も少しずつ始まっている
さあ、今年度も明るく楽しく

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