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2008年4月11日 (金)

吉田泉殿跡

京大構内の発掘調査で西園寺公経の吉田泉殿関係の遺構が発見され
11日にその説明会が開催されたと新聞で発表された

「五代帝王物語」という群書類従に入っている作品がある
成立は乾元元年(1302)から嘉暦2年(1327)とされ、作者は後嵯峨院の北面の源仲朝の近親かとも言われる
後堀河から四条、後嵯峨、後深草、亀山の時代をコンパクトに描いた歴史物語で増鏡の依拠資料でもある
その中に公経が造営した別業として
「天王寺・吹田・槇の島・北山さしも然るべき勝地名所には、山荘を造り営みたり」とある
さらに、明月記によれば、山崎の圓明寺、河崎泉亭(おそらく現在の出町あたりにあったと思われる)も同様な施設として知られる
吉田泉殿は、公経が営んだこれらの別業にならぶもので
明月記には次のような記事で登場する

嘉禄2年(1226)4月3日 冷泉の方大白の方に依り、吉田に宿せんがため、酉の時ばかりに河東に赴くの間、前行する使の者帰りて云う、大相国すでに渡りたまう(明月記)
        6月22日 吉田の泉に参ず(相国渡りおはします)(明月記)
安貞元年(1227)4月30日 相門吉田の泉造営、已に功成り寄すと云々(明月記)
        7月12日 炎旱盛んにして、草木枯槁す。昨日、相門吉田の泉造り改め、移徙さると云々。(明月記)
寛喜元年(1229)6月5日 去る夜、一条富小路の小屋に群盗入る。巳の時ばかりに宰相来たる。昨日、殿下吉田に渡りおはします。相門又北山(参ぜず)。明日、国通中納言西郊の家に堂を造りて供養す。(明月記)
        7月2日 昨日、相門見物。検非違使友景宅の小門に桟敷をなす。又吉田泉、猶一条河原の方に見物と云々。(明月記)
        7月28日 夜に入り宰相来る。吉田泉に於いて納涼(明月記)
        8月11日 夕に宰相来る。吉田(泉水絶えおわんぬと云々)より来る。殿下御雑熱軽忽の事、猶恐しく思うにより、押して大黄をつくるの由仰せらる。相門唯今参じ給うと云々。宰相、室町殿を去り、私に女房周防大炊御門の小屋におるべしと云々(明月記)
寛喜2年(1230)正月17日 暁より吉田に会合(明月記)
        3月18日 侍来たりて言う、吉田に渡り給いおわんぬと(明月記)
        5月3日 昏黒に宰相来たる(吉田より帰る)。昨日、召しに依り殿に参ず。社寺の沙汰訖んぬるの後、西殿の泉屋に於いて杯酒の事有り。(公経、実氏と吉田西殿で会飲)(明月記)
        6月21日 即ち馳せ出で、相具して円明寺を覧る(寛済法印譲り奉る)。未の時ばかりに直ちに吉田に帰らる(明月記)
        12月25日 宰相吉田に大相渡らる。青侍等言う、持明院殿に行幸。輦(くるま)路一条町(北に行き)、中宮御所の北路(東に行き)、室町を北と云々(明月記)
寛喜3年(1231)8月15日 公経、昨日吉田にて競馬を催す「昨日吉田泉 競馬と云々(明月記)」
天福元年(1233)5月29日 近日、禅室吉田泉亭に臨幸。経営の他無し。来る九日の由、兼日の聞こえ有り。聞くが如くば更に嗜欲の淵源を極め、驕奢の荒淫を催さんと欲す。高台深池の望み、金銀錦繍の翫、雕?剥餧の餝を増し、奇厳怪石の勢いを添うるか。(明月記)
        7月17日 堀河上皇、公経の吉田泉亭に御幸

龍粛氏の説明によれば、「臨幸を仰いだ時には、赤地の錦で作った橋を泉水に架け、橋の柱には名香である沈香を用いて、風流を極めたことが評判となり、六波羅の武家が後でその様子を見物したと伝えている」

公経の豪奢な生活ぶりは、吹田でのエピソードでも有名だが
吉田泉殿での様子もそれに劣らないものだったのだろうか

なお
寛喜2年(1230)正月14日 公経、藤原為家(定家の息子)の吉田第に赴く「相門行幸を経営。私に方違え、宰相の吉田に渡らると云々(明月記)」
とあるように、吉田にはほかにも貴族邸宅があったことがわかる

もとより鎌倉時代の京都において、西園寺公経とその一族が卓越した存在だったことは確かで
その点については、もっと注目されてるべきだと考えている
ただし、これまで知られている公経についてのエピソードの内、特にその豪奢な部分については
それが全て事実だったかどうかは当時の政治情勢をふまえた上での検討が必要ではないかとも思っている

ともあれ京都の歴史の中の鎌倉時代は、多く語られることのない時代だったことは事実で
あの『京都の歴史』においても、第三巻の全てが室町時代であるのに対し、第二巻は、第一・二章が院政期、第三~五章が鎌倉時代、第六章が南北朝となっている

寒梅館地点と学生会館地点の溝の調査以来、持明院殿から西園寺の存在に注目して
一条北辺を中心とした鎌倉時代の京都を考え続けている身にとって
今回の京大構内遺跡の調査成果は、京都の歴史を見直す非常に重要な発見だと考えている

ちなみに、公経の本邸は同志社大の新町キャンパスに近い一条新町北西にあり、北山の麓にあるのが立命館大で、吉田泉殿にあるのが京都大である
公経にちなむ不思議なつながりを感じてしまうが
これは得意の思い過ごしなのだろうか

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