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2008年5月31日 (土)

嵯峨野 常盤

080531_235701 乗換案内で調べると太秦天神川を経由すれば10時8分に太秦広隆寺前に着くとなっている
太秦天神川ってどこだと思って調べると東西線の西の終点
そう言えば東西線が二条駅から延びたんだと思い
ここが京都かと思うほどきれいに整備された連絡通路と広い駅前に出て嵐電に乗り換える
太秦広隆寺までは、ここから蚕の社の次の二駅
JR嵯峨野線が便利になって嵯峨野がずいぶん近づいたと思っていたら
地下鉄東西線も便利になって太秦もすっかり身近になっていた

行き先はJR嵯峨野線の高架工事に伴う発掘調査で見つかった鎌倉時代の邸宅跡の説明会
家を出るときは雨が降っていたのでどうだろうかと思っていたが
太秦もやはり僅かに雨模様
危うい記憶を頼りに広隆寺脇の道を北へ上がる
もうそろそろ着く頃だろうと思い前方の高架を見ると列車ではなく車が走っている
あわてて案内図を見直すと、さっきの道を左に曲がらなければならなかった様子
どうも平安京の条坊に慣れていると
いったん平安京を出るとすっかり方向がとれなくなってしまう

やむなく携帯でマップを確かめて道を探して現場へ向かうと
小雨にも関わらず50人以上の見学者が集まって話しを聞いている
道を間違えた時にマップを確かめたのが良かったのか悪かったのか
嵯峨野線の高架工事で太秦の北と聞いていたが
実は双ケ岡のすぐ南西で、この場所の地名は「常盤」という
「常盤」といえば
3月の楽洛キャンパスでテーマとした嵯峨野の千代の古道の出発点
現在の嵐電の白梅町行きの線の駅にみえる「常盤」はもう少し西だが
ここもその「常盤」の一角

12世紀後半の『梁塵秘抄』307には
「何れか法輪へ参る道、内野通りの西の京、其れ過ぎて や
 常盤林の彼方なる、愛敬流れ来る大堰河」とあり
平安時代の人たちにとって常盤は嵯峨野の入口であり
双ケ岡の東で、JR嵯峨野線の花園駅を北へあがった妙心寺の森の西を境界線とする
平安京の西の果てでもある

慶滋保胤が書いた池亭記によって
平安時代中期に右京が衰退しはじめたといわれながら
JR嵯峨野線の高架工事では中世に続く遺構がみつかっていて
右京が一元的に衰退したものではないことも言われてきたいたが
その背景にはもちろん丹波へつながる嵯峨野への道があり
その起点となったのが「常盤」だったと思っていた

「常盤」は、平凡社の『歴史地名大系』の「京都市」によれば
『続日本後紀』承和14年(847)10月20日条に嵯峨天皇皇子源常(ときわ)の山荘があったという(山城名勝志)
また『長秋記』天永4年(1113)8月11日条によれば、鳥羽天皇の松尾行幸に際して「自二条支辻子北行、自中御門末西行、経常盤杜南、至浮橋」とある
さらに『山城名勝志』には「為忠朝臣ノ家、寂念法師住之」とあり
平安時代末期に歌人としても知られる藤原為忠と子の為業が住み、為業は伊豆守・伊賀守を歴任した後、大原に隠退して寂念と称したという。そして寂念は常盤に御堂を建立したとも伝える
なお、『新古今和歌集』(13世紀)や『新勅撰和歌集』(13世紀前半)や『続千載和歌集』(14世紀前半)にもみえ、「ときはの森」「常磐の杜」などと登場する

ここまできたら花園の法金剛院にも寄ろうと思い
嵯峨野線沿いに歩いていたつもりが
双ケ岡を過ぎたらいつのまにか御室川に沿って南へ向かうという同じ間違いを繰り返しながら
なんとか花園にたどりつく
道を渡り西へ歩くと直ぐに背後に五位山をひかえた法金剛院
法金剛院は、9世紀頃に初め右大臣清原夏野の山荘があったと伝える
大治4年(1129)鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子が、仁和寺に御願の御堂を建立すべく占わせ、翌5年に上棟
五位山を背に中央に大池を掘り、池の西に丈六阿弥陀堂の西御堂を東に御所をおき、池の北に滝も造られ、保延2年には三重塔および経蔵も建立された
鳥羽や法住寺ほどには注目されていないが
それらを継ぎ、後の北山西園寺を想像させる構成である
そして「常盤」の地の変遷にも通じる物語を持っている

花園駅のホームにのぼると
左手に五位山(承和14年の日本後紀には古墳があったというが)、右手に妙心寺の甍
そしてその向こうに仁和寺の塔が見え
西に双ケ岡を限り、見事に平安京の西北の一角をおさえている
さらにその北を不規則にならぶ小丘陵が有名な独特の空間を創りだしている
天気の良いときに改めて歩いてみようと思いながら滋賀県立近代美術館へ向かう

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