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2008年7月24日 (木)

善光寺門前について考えを巡らせる

春学期のプログラムを全て終え、昼下がりの錦を歩く
数か月ぶりの挨拶を終え、M21の報告会に顔を出したあと
NでCS3に向かう
数日かけて2mコンターを辿った後、また数日かけて街路を形にする
川を流し、旧地形から元の流路を復原する
18時半に始まった会議は20時過ぎに閉じる
46分の神宮前急行に乗って、改めて地図を広げる

080724_221201 元禄時代に再建される前、本堂は現在の仲見世のほぼ中央にあたる釈迦堂の西にあったという
2mのコンターを描いていてどうしても理解できなかったことがその場所
もっと安定してふさわしい場所はその西の桜枝町あたりだろうに

いろいろな考えを巡らせながら
赤ペンで地図に書き込みをする
右上に溝の平面図
左下に鎌倉時代の境内推定復原図
右下に西町遺跡の溝断面と遺物
十念寺には板碑を、大門町には紀年銘の五輪塔を
なるほど
後町小学校のあたりは斜面が終わって平坦面がひろがるところ
けれども妻科神社から流れ出る裾花川の支流は
すぐその上を流れた可能性が高く
あまり良い環境では無いような

金鋳川の灌漑の意味はとても重要だけれど、その役割は湯福川でも果たせないだろうか
そう言えば、元の本堂の位置は、ちょうど湯福川が伊勢神社の急崖を流れ落ちる場所に接している
湯福神社と善光寺前身寺院が関係するなら、そのコンセプトは明解だ

西之門町の北に上西之門町があるので
西之門町は古い
東之門町は、元の場所から北にずれて、その後に横町が出来たのだろう
西町は、もちろん大門町が出来た後
元禄の地図にみえる旧町名を載せてみよう
西之門町の西に離れてある立町が気になる

遺跡で見つかった溝と屋敷の関係はどうだろうか
素直に考えれば、溝より高いところから埋められた遺物が出ているので
いずれも溝の北が屋敷地になるだろう
そうなると
大門の交差点から大本願の南までが3つの屋敷に分けられる
比高差は約2mだ
鎌倉の屋敷の基準はどうだったろうか
そういえば、若宮大路周辺のデータをつくりかけていた

続きは10月13日
明日は一関
今日の最高気温の第4位は京田辺で、第2位が京都だったと後で家の者に聞く
ゼミのみんなも頑張っているだろうか
頭を働かせて、手と足を働かせて
まとまっていくデータを前に考えを巡らせてごらん
必ず見えてくるものがある

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