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2008年7月27日 (日)

骨寺村

地震の影響で平泉から一ノ関への予定の列車が運休になり
こまち号も大宮が1851に着く予定とのこと
Ts3h0001 ただし、上越新幹線の沿線で大雨が降ってその予定も確かではないとの

平泉のシンポジウムは非常に有意義なものだった
初めて平泉を訪れたのはたぶん1980年代の半ばだったのではないかと思う
毛越寺の整備で発掘調査をおこなっていて多量の土師器皿と玉石がみつかっていた
ただし、その時は実は東北の窯業生産遺跡もテーマとしていて
平泉をあまりしっかり考えていたわけてではなかった
けれども、特に学生くんたちへ、そうであっても、見たという経験と、見てないことの違いは大きいぞ
見たものは必ず蓄積となって、その時はわからないけれども、必ず後で活きてくる

その後再び近い時期に訪れた時は、北上川の堤防工事にかかる柳の御所跡の調査が始まったところだった
その後の柳の御所跡の調査とそれにかかわる研究の進展については
あらためてここで書くまでもないだろう

今回のシンポジウムは、その柳の御所跡に加え、衣川の遺跡をふまえた、これまでの平泉研究の集大成と、これからの平泉研究の展開を示すものだった

斎藤さんが予測し、私も想像していたが、衣川の遺跡群はやはり平泉を考える上で非常に重要な意味をもっていた
東アジア的な意味ももちろんだが、八重樫さんの言うように、清原時代の平泉の意味は、衣川が中心になると思う
誤解を恐れずに言えば、平泉というより、中尊寺と言うより、まず衣の関と阿倍氏があったということになるのだろうか
今回、法成寺との関係が取り上げられたが
これも非常に重要なことで
周知のように、白河の法勝寺は法成寺の代わりで
毛越寺と法勝寺の関係の背後には、当然法成寺が存在し
さらにその背後には、道長の意図である、浄妙寺と宇治がある
ちょっと調べれば直ぐにわかることなのだが
清衡と基衡と秀衡の治世の時代は
特にその没年が白河と鳥羽と後白河に
おそろしいほど近似している
白河と清衡、鳥羽と基衡
そして秀衡期の平泉が後白河の法住寺に対比されるのは
決して偶然ではなく
当然のことなのである
ただし、もうひとつ頭に入れておかなければならないのが宇治であることは言うまでもない

平安時代後期から始まる変化が鎌倉時代終わりに終焉を迎えること
そして延暦寺末と日吉が東北に関わったことと平泉の関係が発言されたのも良かったと思う
日吉神人と京都型土師器皿の関係につながり、まったく賛成である

もうひとつ、今回非常に勉強になったのが
一関市博物館の「中世荘園骨寺村」の企画展
鎌倉時代後期から末期とされる村絵図が2枚残されており
現地も、その姿をそのまま残しているという
尾根にはさまれた平坦面の中央を川が流れ
その川の周辺に田圃がつくられ
周りの丘陵の麓に家が並ぶ
典型的な中世的世界である

けれどもここはそれに加えて
川の名がイワイ川で
その上流にあるのが山王窟
もちろん日吉山王である
イワイは森先生が言うように水の信仰の象徴で
日吉山王は言うまでもなく近江坂本の比叡山鎮守の日吉神社である
さらに窟は磐祭祀につながる
日吉大社が磐祭祀をもっていることも有名
つまりこの村は
イワイ川の上流にあった磐信仰に比叡山末の日吉信仰が加わった
特殊な空間だったのではないだろうか
もちろん中尊寺にとって重要なことは言うまでもない
そして、この村の意味もそれに近いものではないだろうか

一ノ関は
あのNSPの出身地で
街にはNSP通りがあり
骨寺村を流れていたイワイ川は
この街の中心を磐井川となって流れ
NSPの「夕暮れ時はさびしそう」は
この磐井川で出来たと聞く
なんと

東北新幹線は宇都宮を通過中
大宮での乗り換えの最新情報が細かく丁寧にアナウンスされた
若い車掌さん
緊張して話しをしている
東北頑張っています
東北頑張れ

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