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2008年8月24日 (日)

第18回鎌倉市遺跡調査・研究発表会

鎌倉の武家屋敷跡で特定の人物の名称が載る可能性の高い資料についての
報告と検討がおこなわれるとのことで
会場に続続と人が詰めかける

今年の報告は大きく4つ

最初は馬渕さんによる大倉幕府東の二階堂大路側溝に関するもの
場所は横大路が六浦と永福寺へ分かれる三叉路の関取橋のすぐ脇
その北側の調査区では現在の二階堂大路に平行する側溝と
そのすぐ北に大きな柵列が並んでおり
大倉幕府の東隣なので、馬淵さんは極めて重要な人物の屋敷だと言う
側溝を埋めて盛られた泥岩の土丹の意味は

2番目は山口正紀さんによる若宮大路周辺遺跡の調査
場所は鎌倉駅の正面にあたる若宮大路の東
北には宇津宮辻子御所、さらにその北に若宮大路御所がならぶ
北条政権にとって最重要施設のならぶ場所だったが
みつかったのは複雑にきりあって設けられていた方形竪穴建物群
時期は13世紀中頃以降
中でも最も注目されるのは
建物21からみつかった遺物群
青磁蓮弁文碗、白磁口禿皿、古瀬戸水注などなど
まるで東町遺跡のセットではないかと思いながら見入る
それにしても御所の隣に方形竪穴建物の空間とは

3番目は宮田さんによる無量寺地区の調査
これまで3回にわたる調査がおこなわれ
東の斜面際にやぐらや池をもった建物、西の鎌倉城から大型の建物がみつかっている
今回の調査地はその中間で
土丹で整地された面が、無量寺がおかれた谷の奥へ続く道の一部を示しているのではないかと言う
鎌倉の谷戸利用を象徴する風景ではないだろうか

そして4番目が菊川英政さんによる今小路西遺跡の報告
今小路西遺跡と言えば河野さんの有名な
御成小学校地点の調査があるが
今回のものは先の宮田さんの調査区にほど近い
無量寺の谷を南東に出た場所

高橋慎一朗さんによれば、実はこのあたりも甘縄だったのではないかと言われれる所

13世紀中頃から14世紀中頃にかけて
屋敷地の境界は明らかではないが
調査区の南東に、東西軸と南北軸の路(土丹で舗装された)が走り
全体に多くの建物が建ち並ぶ
鎌倉を代表する武家屋敷のひとつと推定されている
主殿と思われるものは無いようだが
白砂を蒔いた建物があり、トレンチの中央には南北の立派な境界施設がある
井戸からは頭骨が出土し、牛を解体した骨がみつかった井戸もある
将棋駒や操り人形や絵馬?や漆ヘラや貝を再利用した漆容器や
多彩な遺物も特徴
そしてこの調査地点からみつかったのが
結番交名(けちばんきょうみょう)の墨書木札
宗臺さんの絶妙な司会で、ここから多彩な情報の整理がはじまる

まずは場所
高橋さんによって、その場所が甘縄で、無量寺の正面にあたる安達氏の屋敷があった場所ではないかと紹介される
資料そのものの説明は福田さんから
サイズ、出土状況、表面観察の様子などなど
次いで河野さんが、史料を先行研究とした屋敷の姿の復原と発見された遺跡の関係を説明
墨書の読みは、まず福島金治さんがひとつひとつの文字の書き方の特徴を紹介しながら説明
結論は宿側の小屋の警固の番役の掲示
続いて藤原さんが、福島さんとの読みの違うところの説明と解釈を
最後に五味さんが
「文永2年という年の意味」「番文が記されていることの意味」「武士が三番三人ずつの意味」「殿の意味」「仮名まじり文の意味」「一日一夜の意味」と
文章に含まれている情報を分解して検討
また最初の読みについても新たな提案を

加えて松吉さんが番に登場した人名を史料で探して紹介

高松塚の被葬者をめぐり多彩な分野の研究者がそれぞれの専門性を活かして情報の総合化をはかったのと同じ緊張感とわくわく感が会場を包む

一番有力な人物は「あきまの二郎さえもん」で
安達の従者に該当する可能性が高いと言う

この木札は最終的にはまな板に使われて
ほかのゴミと一緒に捨てられている
それでは、そのゴミが捨てられたこの屋敷には誰が住んでいたのだろうか
河野さんの今小路西遺跡の評価とあわせて
鎌倉の景観復原はまた一歩ステージを上がっていっている
続きは授業で

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