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2008年8月

2008年8月29日 (金)

河野氏の館

雷雨で豪雨だった
松山駅から出てくる高校生の中には
傘を持たない者もいるから
30分ほど前には降っていなかったのだろう
東海から関東では大きな被害が出ているとのことだが
広島でも警報がでていたので、その余波だろうか

愛媛県立歴史文化博物館は
宇和島に近い卯之町にある
松山から特急で約1時間
藤原純友が拠点とした、瀬戸内航路の西端にあたる
豊後水道と周防灘を南から遮断し
さらに国東へのアプローチも可能とする場所である
いしづち1号が発車する頃には雨はおさまってきたが
相変わらず雲は厚い

純友が本拠にしたと伝える日振島は
宇和島の西方沖にあたるが
卯之町が見下ろす深浦湾がひらく南西方向の先にもあたる
天気が良ければ見えるのだろうか
列車は伊予市から海岸線を離れ
佐田岬半島の付け根をおおきくまわりこんで
大洲市を経て八幡浜市へ向かう
八幡浜は佐田岬半島の付け根にある港町
詳しく調べてはいないが
当然宇佐と石清水のつながりがある土地だろう
内子町に近づく頃には陽が射してきた
やれやれ

卯之町に着いたら強い陽射しが戻ってきた
歴史文化博物館までは約2キロ
ずっと雨で歩けなかったので町並みを見ながら歩く
展示は旧石器時代から昭和まで
ひとつひとつがしっかりつくられていて
中身が濃く大変勉強になった
はやりの奇抜な仕掛けは無いが
落ち着いてしっかり見られる良い博物館だと思う

一遍の一族にあたる河野氏は
元もと松山市北条河野を本拠とする在地領主で
高山(こやま)川と河野川が瀬戸内海に注ぐ平地を開発し
居館はこれらの川にはさまれた丘陵の麓にあったとされている
一遍の祖父にあたる通信は源平の内乱期に頼朝にしたがった御家人で
1203年の吾妻鏡によれば頼家から伊予支配の保証を受け
鎌倉にも屋敷を持っていたという
思わず鎌倉科研を思い出し、どこだろうかと思いをめぐらす
当時の伊予国守護は宇都宮と佐々木
地頭クラスとして河野と忽那(くつな)がいたという

その後河野氏は、周知のように承久の変で後鳥羽側に付き
通信は江刺へ追われ、北上市稲瀬町水越の聖塚がその墓と言われる
一遍には武士的な雰囲気が強いという
一遍が遊行を始めるきっかけとなったのは河野氏の後継をめぐるものともいう
一遍の生家は後に河野氏の城館となる湯築城のすぐ脇にあたる
一遍が飛び込んだのは、新しい時代の主人公となった武士層だという
その意味でも、一遍の風景は新しく生まれ始めた都市の風景だと思う

元寇の時、河野通有が有名な蒙古襲来絵詞に登場する
彼はその功により、蒙古軍冑鉢と蒙古軍弓矢を大山祇神社へ奉納している
その弓は樺材の両面に鯨の髭を付けたもので
高麗か南宋の兵が使用した可能性もあるという

南北朝期、河野通盛は尊氏につき、河野氏から出た土居と得納が
忽那と大祝とともに南朝の懐良親王についたという
河野氏の城館となった湯築城はこれにより1342年に攻撃されている
当然、その周囲には河野氏の寺社や町があっただろう
その風景もまた考えてみたい課題である

室町時代、伊予国守護となった河野氏に対し
讃岐から細川が攻撃を繰り返し
一方で西伊予は宇都宮氏と西園寺氏と摂津氏、御荘氏などが支配していた
讃岐に加えて、時代は異なるが、西園寺が再び登場する
そして河野氏の重心だった来島村上氏が力を強めるのは
その直後の戦国時代に入る頃からとなる
石清水の姿はあまり見えなかったが
純友とあわせて西部瀬戸内の歴史はダイナミックで面白い

由利島(松山市中島町)の土師器土釜は防長系の足釜
長楽寺の銭
今治の片山内福間遺跡をもとに中世の家が作られていて
西条市の土居構をもとに中世の屋敷模型がつくられいる
古墳時代は今治が中心だが
飛鳥時代以降は熟田津など松山が注目されるのは
国分寺は今治だが

駅前の寿司屋で504円のパックを買って松山行きの特急に乗る
考えてみたら昼食を摂ったのは火曜日の鴨島以来だった
松山に戻り河野氏の館を訪ねる
ここでは無理にでも湯築城とは言わない方が良いかもしれない
周知のように湯築城跡は
一乗谷朝倉氏遺跡に匹敵する戦国時代の重要遺跡である
ただし、湯築城には、一乗谷朝倉市館に無い特徴をもっている
14世紀代である
前にも書いたが、14世紀代とそれ以前の拠点居館の姿は
実は全くわかっていない
それが一遍を追う理由なのだが

けれども湯築城と呼ばれる河野氏の居館跡には
それを解く鍵があると思う
ただしそれを知るためには松山という町をもっと知る必要がある
愛媛県の歴史文化博物館には
そのヒントが示されていて、それが良かったと思う
湯築城は14世紀代に造営されたというが
その痕跡はよくわかっていない
けれどもそのまわりを見渡せば

一乗谷朝倉氏遺跡と見まがうほどに見事に整備された湯築城跡から
中央の丘に登り展望台から海が見えるのを発見し?
北口へ降りる
隣に子規記念館がある
行き先は一遍の生家と言われる宝厳寺
正面の交差点を右に見ると長い石段の上に八幡造りの社殿が見える
その交差点渡ると目の前が道後温泉駅
駅まで行く手前を右に曲がり暫く行くまでもなく温泉本館が見えてくる
道後温泉へ行った人は気づいていると思うが
本館の裏はすぐ山である
もちろん開発によってたくさんのホテルが建ち並んでおりその地形は単純ではないが
少なくとも湯築城から本館へのすぐ右手は
いきなり山が迫っていると言って良い

一遍の生家と言われる宝巌寺は
その本館の手前の路を右へ曲がり、登り坂の途中をさらに左に曲がった先にある
この路を歩きながらよぎったのは
今週の月曜に歩いた鎌倉だった
そのつもりで見ないとわからないかもしれないが
宝巌寺への路は、その左右が尾根ではさまれた谷の路である
もし宝巌寺に一遍の生まれた館があったならば
まさにそこは谷戸
谷地の奥に築かれた館だったのである

北条にいた河野氏と
道後にいた河野氏の関係はよくわからないが
もし宝厳寺が一遍の生誕の地で父の通広の館であったならば
それはまさに韮山や鎌倉で見た風景に近く
湯築城はあたかも守山のようで
湯築の丘の麓に館が築かれ並んでいた風景は
13世紀の終わりに溯っても十分あることだと思う
それはあるいは益田の河口周辺のような
一遍は幼少の頃と青年時代
道後本館から数分の場所で生きていたのだろうか
もしそうならば羨ましい限りだが
ただ
聖絵にそれが登場しないのが気に掛かるが

河野氏は松山市北条を本拠としたという
しかもそこには河野川と高山川が流れているという
それならわかるかもしれないと思い
列車の窓から無謀にもカメラを構えてチャンスを狙う
下調べもせずにそんなことがわかるはずもない
けれども
地形を見ていて驚いた
京都ならば宇多から嵯峨野の北
九州ならば津屋崎あたり
そして四国ならば坂出周辺
あの雰囲気とそっくりである
わかる人はわかるだろう
わからない人は案内しよう
河野氏の河野氏たる所以がわかるような気がした

久しぶりにJR四国の特急に乗ったが
良かった
揺れのきついのはやむをえないが
とくに松山からの帰りはウッディーな感じがJR九州の新幹線を思わせるほど
伊予西条のあたりで見た絶妙の雲の具合は
重なり合う山々をそれぞれにきわだたせて
まるで山水画の風景の様
頑張れ四国

伊予のじゃこ天は確かに旨い
後から旨味がしみだしてきて
ついまた手が伸びてしまう
そしてそれを酒がさらにいざなう
雪雀の生はとくに良いと思う

来週末は再び江戸

2008年8月28日 (木)

一遍への路

讃岐平野に恵みの雨が降る
網野善彦は一遍の行く先々に中世の都市的な場が見えたと言う
この言葉にいざなわれて、今年からしばらく一遍の見た風景を訪ねる旅を始める
昨日は大雨でそんな余裕は無かったが、一遍が旅の終わりに阿波から福良へ渡った時の阿波とはどのようなところだったのだろうか気になる

阿南のキヨスクで買った800円の傘をさして8時10分の観音寺行きに乗る
雲は低くたれこみ8月とは思えないような雨が降り続く
坂出を過ぎたあたりから空が明るくなり雨が弱まる
昨日までの風景と違い、山がはるか遠くにひき
広い平野が続く
多度津で乗り換えて善通寺に着いた時には、辛くも曇り空
条里にのってまっすぐ西南西にのびる路を善通寺へ向かう
市役所を過ぎ、四国学院大のキャンパスの向こうに讃岐宮の森が見えたら
その北が善通寺
突然右手に五重塔が見え
その手前に山門が登場する
正面に見えるが金堂で、市史によれば、石垣には元の礎石らしい石材が使われていると言う
西に空海の生誕地である邸宅跡に建つ御影堂をおく
背後には、讃岐に特有の神南備形をした五岳山が顔をのぞかせる
一遍の河野氏も、空海の佐伯氏も
瀬戸内海を北に望む、同じ風景の中で生まれた
善通寺の南の次の駅が金比羅で、そのままJRに乗っていけば高地に着く
佐伯氏は四国の南北幹線が瀬戸内に出る直前の場所をおさえていたことになるのだろうか

つい先日まで西園寺公経のことばかり考えていて
彼と讃岐との関係も頭に入っていたはずだが
ここへ来て、その具体的な所領が善通寺領の中の多度郡弘田郷(の一部)だったことに気づかされた
さらにその地の公文の息子だった信綱から請所の希望をうけたのが定家だったことも
公経と定家のこういった関係は信濃以外にもあったことになる
元々そこは国衙領で、讃岐の知行国主となった公経(または九条道家)が管理していたことになると言う
善通寺の門前は、その頃から栄えはじめたと言われるが
四国学院大学構内の調査では、中世は発見されていない
ただし、ここでも後嵯峨と亀山に会ったので
鎌倉時代のこの地が注目されていたことは間違いない
この地域の中世は金比羅までひろげてみる必要がありそう
多度津を出るとすぐに瀬戸内海の島々が眼前にひろがる
ここがそういった場所だということをようやく実感する

古代豪族越智氏の本拠だけあって
さすがに今治は越智名の看板が多い
ちなみに伊予国分寺と国分尼寺は、今治のすぐ南東におかれている
まさに古代の伊予の中心地である
しまなみ海道をとおり大山祇神社までバスでおよそ1時間
今治桟橋を経由して大島、伯方島の次が大三島
大島に入ると一般道を走る
途中、大島で特に大きな杉崎古墳まで徒歩5分という看板を見る
大島はさすがに大きく、島を思わせないほど
今治へは、以前に、森先生と網野先生のしまなみ海道のシンポジウムがあって来たことがあるが
島へ渡るのは初めてになる
確かに狭い水路を多くの船が行き来している
大島の村上水軍博物館が示すように水軍の本拠地で
たしか今治に一番近い来島がそれだったろうか

バスは大三島のインターでおりると、島の東の井口港から西の宮浦港まで島を横断する
大山祇神社は、その宮浦港を西に見て、島を少し登ったところにある
境内の南脇を小川が流れ、その先には岩盤の露出した山がそびえる
いかにもの立地である
大三島は西に開いたコ字の形をしているが
宮浦と大山祇神社は、そのコ字の奥に位置しており
さらに、このコ字の対岸には大崎上島が、ちょうど蓋をするように横たわっている
あらためて見れば、なるほど芸予諸島の中で
最も大切な場所というわけになる

この大山祇神社
伊予の一宮で、越智氏や河野氏が氏神として崇敬し
その後もとくに武士からの信仰が篤く
源義経が奉納した甲冑をはじめとして、多くの甲冑や刀剣、鏡など
国宝と重要文化財を有している
一遍の祖父の河野通信が納めた甲冑も展示されている
一遍は、東日本から畿内と中国をまわった後で、ここに立ち寄っている
弘安10年(1287)、一遍は播磨から備中に入り、3月に十二具の位置付けをおこなう
その後、備後一宮の吉備津神社、安芸一宮の厳島神社を経て
正応元年(1288)に伊予に帰った
遊行16年、齢は50だった
菅生の岩屋を巡礼し、繁多(はんた)寺(松山市畑寺)に三月参籠し
12月16日に伊予一宮の三島大明神に詣でている
3から4ヶ月滞在したらしい
翌二年(1289)の初夏に善通寺と曼荼羅寺(善通寺市吉原町)をおとずれて阿波に入る
吉野川を伝い6月1日に大鳥の里の河辺(徳島県麻植(おえ)郡鴨島町敷地河辺)では疲労と病が彼を激しく襲ったという
その後7月初めに淡路の福良に渡り三原町の二宮である大和大国魂神社と
津名町の北野天神(志筑神社)で結縁し
18日には先師と仰いだ教信所縁の播磨に渡る
51歳で臨終を迎えたのは8月23日の朝だった

50を迎えた夏に一遍の跡を追うことになったのは
まったく偶然ではあるが
26日の鴨島から始まり
善通寺を経て大三島へ、そして生家の宝巌寺をめざす路は
一遍の晩年の路を逆に辿ったことになった
親しくしている義満は51を区切りとし
それほど親しくはないが信長は49を区切りとしている
今治から松山への列車の時間があったので
今治城による
高松と同じ海城である
どうも歴史家はつまらない偶然を気にしてしまう癖があるようだ

2008年8月27日 (水)

阿波彷徨

その店はまるで昭和40年代だった
駅を降りると左手にとても懐かしいアーケードの商店街がのび
右手にはバス通り
その店は、駅からバス通りに出たすぐのところにある
古いドアをあけると
クリーム色に塗られた天井から太い梁が飛び出し
大きなプロペラがゆっくりと回っている光景が目に入る

店の中には地元のご婦人が他愛もない話しをして
奥のテーブルでは男性がなにかの本を読んでいる
昭和52年の寺町二条の喫茶店で見た雰囲気がそこにあった
ランチに付いてくる珈琲にはやわらかめとかためがあるという
やわらかめを頼むと
暫くして奥でミルをひく音が聞こえる

運ばれてきたコーヒーカップは
肉厚の陶器製で表面には複雑な文様が描かれている
さらにフレッシュも懐かしい専用のミニカップで
またきっと来るような気がしてしまった

断続的に降り続く雨にすっかりあきらめていたら
西原の手前から突然雨がやみ
田圃の水面が静かにひろがっている
思い切って西原で降りて歩き出す
さっきの場所で傘が壊れて
そのまま列車に乗ったので
ここで降られたらもうどうしようもないなあ
と思いながら
さてこのあたりが阿波公方の館だろうかと見渡す

資料館は阿波公方の館と伝承のある場所に建つ
発掘では16世紀代の資料は見つからなかったようだが
周囲の地形に痕跡が見られないかと外を見るとまた雨が降り出している
あきらめて西光寺へ
義稙と義冬と義栄を祀る石碑がある
義冬が最初に館をおいた場所とも言う
吉野川に次いで大きな那賀川が紀淡海峡に注ぐ河口をわずかに遡った北岸にあたる
資料館の地図によれば、さらにその北にも館の跡があるという
またあらためて歩いてみなければ

阿南に着いて暫くすると雨が一段と激しさを増す
川はいよいよ水嵩を増している
さて本日のこれからの運命や如何に

2008年8月26日 (火)

阿波公方

徳島は今日も雨だった
先週の長岡京も雨、鎌倉も雨、京都も雨
どうも雨男になったような

徳島県阿南市へ行く
阿南市と言えば、そのすぐ北に阿南市立阿波公方・民俗資料館がある
阿波公方(平島公方)とは足利幕府10代将軍義稙の養子で阿波を拠点とした義冬(義維よしつな)とその子孫のこと
館の場所は阿南市那賀川町古津居内で
周囲約110mの規模で現在もお屋敷跡などの地名が残ると言う
この阿波公方が実は同志社大学と少し関係がある

8代義政の後を継いだ9代義尚は義政と日野富子の子であるが叔父の義視と後継争いで応仁の乱の原因のひとつとなった
その結果政治の実権は管領に移り、将軍は管領の闘争の中で生きることになる
義尚に子がなかったため
10代将軍を継いだ義稙は義政の弟の義視の子で
細川と対立して富山へ逃げ、その後京へもどるが、再び細川と対立して阿波へ
阿波公方の義冬は、この義稙の養子であるが
実は11代将軍となった義澄の子であたのでややこしい
11代義澄は義政の弟の堀越公方足利政知の子で
義稙と義澄は対立していたため
9代義尚(義政の子)の後は
8代義政の弟筋の間での抗争が足利政権の歴史となったとも言える

そして義澄の後、一時義稙が将軍職にもどるが
再び細川に追われて京を離れたため
それを継いだのが我らが12代義晴、義澄の子である
もちろんサポートしたのは細川でその情景が上杉本にあるというのは周知のとおり
そして上杉本洛中洛外図に載る、寒梅館地点の室町殿(今出川公方)の義晴は
阿波公方義冬の兄弟だったのである
つまり
上杉本洛中洛外図の公方の館と阿波公方の館は兄弟の館と言えるのである
阿波公方の館とその周辺の風景とはいかに
ということになる

その後の13代義輝は義晴の子で義冬の甥
14代義栄は義冬の子で義澄と義稙の孫にあたり
15代義昭は義晴の子なので
応仁の乱以降の足利家の歴史は、阿波公方の歴史とかなり密接に関わっていたと言える
そして義政の二人の弟の中の政知側の勝利の歴史だったとも

2008年8月25日 (月)

無量寺から甘縄まで

080824_203701 大船駅に吉永小百合さんが善光寺を訪れているJR東日本のポスターがあった
思わず感動

鎌倉が歩きたくなる街だと言ったのは誰だろうか
畿内の古代の風景を代表する京都や奈良の条坊制も良いが
谷間を縫うような路が入り組んではしる鎌倉も雰囲気も
日本の古くからある文化と風景のひとつであって
特に個人的には
若宮大路周辺ももちろん良いが
少し脇に入った
佐助から無量寺のあたりなどもなんともいえない雰囲気があって良い

昨夜の大雨の続きですっかり荒天になってしまったが
Mさんのご厚意によって案内をいただき
佐助を後にして北の隧道を抜けて無量寺へ向かう
その手前にいかにも鎌倉らしいお洒落な家が建つ
さっきまで降っていた雨が小降りになり
鎌倉城のあたりでは少し陽が射してきたような感じも
昨日の宮田さんの報告を思い出しながら
ここに池を持った寺院があり
ここにやぐらが並び
ここに大きな建物が建っていたと
現在の風景に印を付ける

昨日の大雨の影響に少し逡巡して鶴岡八幡宮へ
先週の善光寺では山門の上から門前も見渡すことができた
鶴岡八幡宮の上から鎌倉を見渡すとどんな風景がひろがるだろうかと
昨日の雨のため、在来線は大きく遅れが出ていて
駅でアナウンスが繰り返されていたが
新幹線のことは言わないので安心していたら
なんと朝、しばらく止まっていたとのこと
少しあわてながら状況を携帯で調べつつ東京へ

ダイヤは2時間半の遅れという
どうしようもないし
いかんともしがたいという
日頃まったく感じることの無かった江戸と京都の厳然とした距離の存在に呆然

明日は阿波

2008年8月24日 (日)

第18回鎌倉市遺跡調査・研究発表会

鎌倉の武家屋敷跡で特定の人物の名称が載る可能性の高い資料についての
報告と検討がおこなわれるとのことで
会場に続続と人が詰めかける

今年の報告は大きく4つ

最初は馬渕さんによる大倉幕府東の二階堂大路側溝に関するもの
場所は横大路が六浦と永福寺へ分かれる三叉路の関取橋のすぐ脇
その北側の調査区では現在の二階堂大路に平行する側溝と
そのすぐ北に大きな柵列が並んでおり
大倉幕府の東隣なので、馬淵さんは極めて重要な人物の屋敷だと言う
側溝を埋めて盛られた泥岩の土丹の意味は

2番目は山口正紀さんによる若宮大路周辺遺跡の調査
場所は鎌倉駅の正面にあたる若宮大路の東
北には宇津宮辻子御所、さらにその北に若宮大路御所がならぶ
北条政権にとって最重要施設のならぶ場所だったが
みつかったのは複雑にきりあって設けられていた方形竪穴建物群
時期は13世紀中頃以降
中でも最も注目されるのは
建物21からみつかった遺物群
青磁蓮弁文碗、白磁口禿皿、古瀬戸水注などなど
まるで東町遺跡のセットではないかと思いながら見入る
それにしても御所の隣に方形竪穴建物の空間とは

3番目は宮田さんによる無量寺地区の調査
これまで3回にわたる調査がおこなわれ
東の斜面際にやぐらや池をもった建物、西の鎌倉城から大型の建物がみつかっている
今回の調査地はその中間で
土丹で整地された面が、無量寺がおかれた谷の奥へ続く道の一部を示しているのではないかと言う
鎌倉の谷戸利用を象徴する風景ではないだろうか

そして4番目が菊川英政さんによる今小路西遺跡の報告
今小路西遺跡と言えば河野さんの有名な
御成小学校地点の調査があるが
今回のものは先の宮田さんの調査区にほど近い
無量寺の谷を南東に出た場所

高橋慎一朗さんによれば、実はこのあたりも甘縄だったのではないかと言われれる所

13世紀中頃から14世紀中頃にかけて
屋敷地の境界は明らかではないが
調査区の南東に、東西軸と南北軸の路(土丹で舗装された)が走り
全体に多くの建物が建ち並ぶ
鎌倉を代表する武家屋敷のひとつと推定されている
主殿と思われるものは無いようだが
白砂を蒔いた建物があり、トレンチの中央には南北の立派な境界施設がある
井戸からは頭骨が出土し、牛を解体した骨がみつかった井戸もある
将棋駒や操り人形や絵馬?や漆ヘラや貝を再利用した漆容器や
多彩な遺物も特徴
そしてこの調査地点からみつかったのが
結番交名(けちばんきょうみょう)の墨書木札
宗臺さんの絶妙な司会で、ここから多彩な情報の整理がはじまる

まずは場所
高橋さんによって、その場所が甘縄で、無量寺の正面にあたる安達氏の屋敷があった場所ではないかと紹介される
資料そのものの説明は福田さんから
サイズ、出土状況、表面観察の様子などなど
次いで河野さんが、史料を先行研究とした屋敷の姿の復原と発見された遺跡の関係を説明
墨書の読みは、まず福島金治さんがひとつひとつの文字の書き方の特徴を紹介しながら説明
結論は宿側の小屋の警固の番役の掲示
続いて藤原さんが、福島さんとの読みの違うところの説明と解釈を
最後に五味さんが
「文永2年という年の意味」「番文が記されていることの意味」「武士が三番三人ずつの意味」「殿の意味」「仮名まじり文の意味」「一日一夜の意味」と
文章に含まれている情報を分解して検討
また最初の読みについても新たな提案を

加えて松吉さんが番に登場した人名を史料で探して紹介

高松塚の被葬者をめぐり多彩な分野の研究者がそれぞれの専門性を活かして情報の総合化をはかったのと同じ緊張感とわくわく感が会場を包む

一番有力な人物は「あきまの二郎さえもん」で
安達の従者に該当する可能性が高いと言う

この木札は最終的にはまな板に使われて
ほかのゴミと一緒に捨てられている
それでは、そのゴミが捨てられたこの屋敷には誰が住んでいたのだろうか
河野さんの今小路西遺跡の評価とあわせて
鎌倉の景観復原はまた一歩ステージを上がっていっている
続きは授業で

2008年8月23日 (土)

向日市野田遺跡第10次調査

2008年8月20日 (水)

金井川の堰まで行く

2008年8月19日 (火)

善光寺のシンポジウムが開催されます

長野市埋蔵文化財センターの皆さんに大変お世話になり
善光寺門前遺跡の充実した調査をおこなうことができました

これまでおこなわれた調査地点は
表参道と大門の交差点から西にあたる西町地点と
東側の東町地点
表参道に面した大門西側の竹風堂さん地点
大本願地点そして仁王門東地点そして表参道の東に面した八幡屋さん地点

それぞれの調査地点で重要な発見があり
それらの情報の総合によって
善光寺門前の考古学的な中世が甦ります

西町遺跡では東西軸の薬研堀がみつかっており
13世紀初めの、きわめて京都色の強いと思われるかわらけが出土しています
また。14世紀代の古瀬戸の香炉と灰釉の盤が、焼けて一緒に発見されたことも重要です

東町遺跡については
今回とくにお願いして
大量の資料を見せていただくことができました
国産陶器、中国磁器、手捏ねかわらけ、在地土器など
西町遺跡と同等かあるいは西町遺跡以上の中世前半の豊富な資料が見られました

竹風堂地点は、最初に東西軸の薬研堀に注目した場所ですが
あらためて鎌倉時代の遺物を確認することができました
手捏ねのかわらけは、西町遺跡のかわらけよりも
在地色が強いようです
これも一緒に比較してわかったことです

大本願地点の遺物は、多くが近世のもので、それに古代の瓦が加わり、中世はわずかに南の溝から出土したものでした
いずれも細片で時期の認定は難しいですが中世であることに違いはないでしょう

八幡屋地点は、表参道に沿って南北に流れる石組の溝が見つかった場所で
時期は15世紀代
内耳鍋の大きな破片が出土しているのが印象に残りました

仁王門地点は東西軸で南に面した石組が見つかった場所で
その基盤層となった造成盛り土に焼土を多く含む層があり
そこから平安時代から鎌倉時代の遺物(瓦・土器・陶器)が見つかっています

全体を概観すれば
中国磁器では、白磁碗が少ないものの見られ
青磁碗は龍泉窯系の鎬蓮弁のものが最も多い
同安窯系も少なく、劃花文もわずかだが見られます
白磁は口禿の皿も

国産陶器では、甕はやはり珠洲窯系の製品が多く
常滑窯系は少ない
擂鉢は珠洲窯系と在地系
最も種類の多いのは古瀬戸系の製品で
瓶子系、香炉、盤、平碗、花瓶、卸皿、鉄釉の皿など実に豊富

時期的にみれば、13世紀から14世紀がピークで
15世紀後半から16世紀が少ないような印象ですが

帰ってもう一度検討をしてみたいと思います
長野市埋蔵文化財センターの皆さん
ありがとうございました

これらの資料群をもとにして
10月13日の善光寺シンポジウムでは
遺跡から見た、善光寺門前の考古学的中世の話しをしようと思いっています

なお、当日の予定は次のとおりになっています

2008年度日本民俗建築学会シンポジウム
★「詣の中心と周辺
善光寺-寺院・宿坊群・仲見世・門前からなる歴史的宗教都市の形成とまちのありかた」

一般公開・入場無料
日時:2008年10月13日(月曜日・祝日)
13時00分~17時00分
会場:善光寺講堂(善光寺事務局内)

基調講演:宮澤智士(建築史、長岡造形大学名誉教授)

パネリスト:笹本正治「民衆信仰からみた善光寺」(歴史学、信州大学)
倉石あつ子「善光寺にまつわる女性と民俗」(民俗学、跡見学園女子大学)
鋤柄俊夫「善光寺とその門前の考古学的景観復元」(考古学、同志社大学)
吉原浩人「絵画にみる善光寺金堂建築の変遷と祈りの空間」(日本宗教思想史、早稲田大学)

コーディネータ:土本俊和(信州大学)

展示:善光寺宿坊の写真図面パネル

問い合わせ先:梅干野成央(信州大学)

2008年8月18日 (月)

元屋は開いているか

田辺で用事を済ませて今出川へ
伏見について、見ておきたい本と見ておかなければならない論文をチェック
京都教育大学の紀要のみ入手できなかった
弘風館前で知り合いに会って、これから長野へ行くと言ったら
羨ましそうな顔をされたが、確かに今年の京都の夏は激しい

新幹線の東京方面ホームは昨日から続くUターンの家族連れでいっぱい
かろうじてひかりの1号車に空席を見つけて座る
善光寺へ向かいながら伏見の中世を書こうと思っている
右往左往して紆余曲折して、書き出しが出来たと思ったが
まだ満足できる見通しがたっていない
伏見の中世を書こうと思っている
考えてみれば中世村落がテーマと言うことで得意分野である

キーワードのひとつは橘俊綱の伏見山荘を起源とする伏見殿
それが白河から後白河へ伝領されていく中で院政期の混乱に巻き込まれていく
美川圭さんの説明がスマートでわかりやすい

キーワードのひとつは宣陽門院が再興した即成院(伏見寺)
貞成親王の看聞日記を読み解いた横井孝さんの著作が豊かな室町期の伏見の姿を現してくれる

キーワードのひとつは、その看聞日記に登場する御香宮と伏見九郷の人々
ただし看聞日記には六郷が登場するという

そこまで見てきて、そもそも、この伏見荘とは何を生産の背景として成立して維持されたのだろうかということが気になった

名古屋でごった返している新幹線から、少し人の少ない中央線ホームに移り
冷たい伊右衛門を買って後頭部にあてる

中世村落研究の最もオーソドックスなものは再生産の仕組みである
平泉の骨寺村で見てきたように、領主がいて、農業や山業や河川などを背景とした利益が産まれ、その益によって村は維持された
あるいは畿内であれば、条里を前提とした小集落が、再編成された領主によって集約されていく過程で中世村落が生まれていった
(ちょっと教条主義すぎるが)

伏見の場合は一体なんだろう
古代の中心地は深草から藤森であるという説明が一般的である
紀寺式系の瓦を多く出す古代寺院が現在の名神高速道路と大和大路の交差するあたりにやたら密集する
弥生時代の大集落が発見された深草を起源として
秦氏の伝説をもつ稲荷周辺は
京都盆地南部の中でも農耕を基盤とした拠点が生まれ、維持される条件が整っていたと思われている

一方で伏見山の南西麓はというと
初めにあったのは御諸山の清水信仰とその門前集落だろうか
注目されるのは平安京が開かれた後であろう
少なくとも開発領主が原因ではない
山科川がせまる南麓と湿地のひろがる西麓に農耕に適した土地は広くない
看聞日記によれば、浄妙寺との争いや三栖との争い、さらに深草との争いがあるため、その荘域もけっして広くはない

けれどもその伏見荘では
即成院の鐘に呼ばれて、数百人の地侍が御香宮に集まったという
あまり知られてはいないが、伏見は義満がこだわったもうひとつの場所である
それがなにによるものか明らかにする必要がある
そして、義満以前に、この伏見にこだわった人物がいた
それが中世の伏見を説明する手がかりになるだろう
そして伏見九郷または六郷とはなにか
これもまた中世の伏見を説明する大きな鍵となるにちがいない
なんとか書けそうな気になってきたか
伏見の中世は、従来の中世村落研究の見方だけでは説明できないなにかを持っている

姨捨を一気に駆け下りる
陽は落ちたがまだ明るさは残っている
善光寺平の家々には、早い灯りがともっている
元屋は開いているだろうか



元屋は開いていなかった・・・・・

2008年8月15日 (金)

続続・伏見の中世

一人で伏見をまわると言ったら
夏休みで坂東の田舎から帰ってきた家の者(小)が
「理解不能」と言って仰け反ったが
LISMOにbluetoothをつなぎ、松任谷由実の「緑の街に舞い降りて」を聞きながら
ご機嫌で灼熱の伏見へ向かう
頭の中だけではこれ以上の進展が望めないとなったなら
とにかく現地に行くべし
現地に行けば必ず突破口が開けるもの

中世の伏見を語るときに注目される寺院のひとつが即成院
ある時は伏見寺とも呼ばれ、また即成就院とも呼ばれた
平等院鳳凰堂で有名な藤原頼通の子の橘俊綱が伏見に邸宅を建て
そのそばに建てたのが即成院とされている
この寺の研究は、瀬田勝哉さんの「伏見即成院の中世」『武蔵大学人文学会雑誌』36巻3号に詳しいので、まずはそれに学びたい

現在の即成院は泉涌寺惣門脇におかれているが、秀吉の伏見城造営によって、当初の場所から大亀谷寺町に移され、明寺の廃仏毀釈によって衰退した後の場所であるという
「那須与一ゆかりの寺」としても有名
なお、「看聞日記」にも多く登場するため、中世には貞成の館の近くにあったとも言われる

『拾芥抄』によれば、伏見寺は即成院で俊綱朝臣建立と記す
ただし、瀬田さんは、この記事は必ずしも正確ではなかったと言う
『中右記』によれば、元永2年(1119)に宗忠が日野の法界寺へ行った帰りに、故伯耆守家光妻の臥見堂へ寄り、その寺は「来迎引接」の様子が備わった仏と堂のつくりで、その仏は故俊綱がつくったものだが、俊綱は寛治7年(1093)に自分の邸宅の臥見邸が火事に遇い、その後、子の家光も伏見を継いだものの十分な供えができなかったものを、家光の妻が堂を造り整えたものという

また、中原康富の日記によれば、その場所は旧来の推定どおり
六地蔵から伏見坂を登った先の、乃木神社周辺と横井さんは言う
なにが頭の中で先へ行くことを止めているかと言うと
この伏見寺と伏見殿の関係がよくわからないこと
それから伏見九郷の場所も

桃山御陵で降り、御香宮を左に見ながら大手筋を東へ登り
明治天皇陵の参道に入ってまもなくの辻を北へ折れる
長岡京の次に平安京を開いた桓武天皇の陵はその先にある
嵯峨天皇の陵は大覚寺の北西の丘の上にあり
数年前の授業で行ったが、桓武天皇陵は行く機会がこれまで無かった

戻ると、その先が乃木神社である
明治天皇陵参道からひとつ段丘が下がり、さらにもうひとつ下がる途中にあたる
最初の目的地は即成院だったが
光明山陵の場所の先入観があって
乃木神社の西を南へ降りて線路をくぐる
大光明寺陵には以前に全く偶然訪れたことがある
桃山から江戸町へ降りようとして道を探して団地の中をぐるぐるまわった時のことだった
あらためてその目で見れば
伏見殿の推定地としてふさわしい場所だと思う
伏見殿には上下の御所があったと言うが
義満の室町殿も北山殿もそれらは隣接してあったため
この場所に上下の御所があっても良いと思う
そのまま西へ観月橋団地を通り市営桃陵団地を越えて伏見松林院陵へ
今回は新撰組まで手をのばすつもりはないので中書島へ

墨染で降りて藤森神社へ
東へ行けばJR藤森から大亀谷
神功皇后の伝説(旗塚)と清水(不二の水)をもち
大将軍と八幡宮社は足利将軍に由来する重要文化財
伏見の古代はここからはじまる
この踏査の大元である伏見稲荷に挨拶をすませ
JR線で京都駅へ
14時からの会議の後
約束していた三条の古書店へ
どうしても見ておきたい場所があって再び京阪で伏見へ

伏見の地形は非常に複雑であるが
線路を基準にすれば大きな整理はできる
一番低い場所を走っているのは京阪電車
おおむね伏見街道(大和大路・琵琶湖疎水)に対応するように三条から南下し
丹波橋から近世伏見の街の南を迂回するように中書島へすすみ
そこから分かれた宇治線も宇治川沿いを走る
近鉄電車は竹田街道に対応するように伏見を通過し、豊後橋を渡る
この京阪電車の伏見桃山かと近鉄電車の桃山御陵で降りて大手筋を東へ行くと
緩やかな上り坂で御香宮に着く
伏見の地形は、まずこの京阪電車の西の低地と御香宮から東の台地でふたつに分けられる
御香宮からさらに東へ進むとJR奈良線の踏切と交差する
JR奈良線は、久津川車塚も椿井大塚山もそうだが
南山城の低地と丘陵部の境を走っている
伏見についても同様で
線路の東に高い崖を見ることができる
したがって、伏見の地形は、御香宮からJR線までの台地と、その先の台地でも分けることができる

再び明治天皇陵参道から乃木神社への道に立ち
伏見坂につながる小道を見て
あらためて参道への道を見上げ、急な坂を伊賀団地へ降りる
外環へ出ると、すぐ目の前を京阪電車が走り山科川が流れる
豊後橋へ向かって歩き始めると
江戸町の谷がわかる
伏見寺直下の村と言われるが
当時、宇治川本流はもっと南を流れており
今の風景とは大分違ったはずだが

大光明寺陵の真下にくると再び宇治川が山にせまる
豊後橋から御香宮までもどり
さて、伏見の中世とは
伏見宮貞成 後崇光院の墓所はなぜ松林院なのか
御香宮が産土神としたときの中世村落の配置はどうなるのか
御香宮の石庭

2008年8月10日 (日)

室町綾小路の酒甕

2008年8月 7日 (木)

続・伏見の中世

春学期の試験期間が終わる日
レポートのチェックに田辺に寄った後、今出川へ向かう
途中、四条で降りて相変わらずの陽射しに思わずよろめく

足利政権が京都を本拠にしようとした時、その目標に思い描いたのは鎌倉時代の京の覇者達の姿だった。
尊氏は鎌倉時代末期に院御所が集中した二条高倉に邸宅を決め、後嵯峨院が造営した嵯峨の亀山殿を天竜寺として後醍醐帝の菩提を弔った。
義満が花御所の地に選んだのは、持明院御所に近い北小路室町(現在の烏丸今出川)で、そこは崇光院などの邸宅を利用したものだった。
そして鎌倉時代の京の覇者を代表する西園寺公経の後を追うように、北山西園寺跡に、後の金閣寺となる北山殿を築いた。
足利政権は鎌倉時代の京都の姿を意識して踏襲することで、京都の覇者としての立場を明確にしたと言える。
そんな足利氏の意識したもうひとつの場所が伏見だった。

伏見宮貞成(これでさだふさと読む)親王の『看聞日記』をもとにした横井清さんの『室町時代の一皇族の生涯』によれば
応永2年(1395)に出家した足利義満が、伏見の御所に遊びにきて
十万疋もの進物(銭)を崇光院に献上したという
崇光院は、そのお礼に、伏見荘の百姓たちによる田楽などで持てなした
しかしその後、崇光院は病床に伏し、応永5年(1398)正月13日伏見御所で崩御
65歳だった
遺骸は伏見の大光明寺で荼毘に付され、大光明寺陵に葬られる
その時、孫の貞成は27歳、京の今出川邸にいた
(中世の伏見と今出川の不思議なつながりはここにもある)

不幸は続く
伏見殿の所領として貞成親王父の栄仁(よしひと)親王に伝領されるはずの
長講堂領・法金剛院領・熱田社領・播磨国衙領が
光厳院の遺書によって後小松天皇に移ってしまい
傷心の栄仁親王は伏見の指月庵で出家
48歳だった
その背景に義満の動きがあったというが詳細は不明

ただし
元室町院の領であった花園天皇皇子の萩原殿の領と萩原御所(妙心寺の近く)が
貞成に戻ってきて、からくも伏見殿の維持を支えることになる
そこに登場するのが義満だった
8月に、伏見御所を山荘にしたいと言って栄仁親王を萩原御所へ移す
しかしその後何をすることもなく
応永の乱の後、応永6年師走、結局栄仁親王に伏見殿は戻されることになる

なお応永15年(1408)3月におこなわれた後小松天皇の豪奢な北山殿行幸の一月後、義満は病に伏し、翌月に51歳で没する

義満の伏見に対する思いは一体なんだったのだろうか
そもそも伏見の中世とはどんな世界だったのだろうか
(市野千鶴子「伏見御所周辺の生活文化」『書陵部紀要』33 1982)も見なければならない
と思いながら
京都府立総合資料館で京都市の報告書のページをめくる
何度も見ているはずなのに
その度毎に新しい発見のあることが楽しい
一通り報告書を見終えるとやや日が傾き始めている

ゼミのみんなも
土人形や宝篋印塔や山城や関門海峡や田辺や博物館や住吉を
調べて歩いているだろうか

夏休みが始まる
当面の目標は16日までに伏見の原稿と鎌倉の整理

2008年8月 2日 (土)

法金剛院

前にも書いたが
JR嵯峨野線の花園駅ホームは、平安京の北西角に凝縮された京都の文化を見る最高のスポットである
左手に双ケ岡が横たわり、そのすぐ手前に法金剛院と五位山
右手前方の森が妙心寺で、そのほぼ西端が平安京の西の限り
妙心寺の森から先を見ると、遠くに仁和寺の塔が見える
京都は日本の文化と歴史の故郷で、今の風景がそれ伝えると言う
確かにそのことは間違いでない
JR嵯峨野線の花園駅ホームは、平安京の北西角に凝縮された京都の文化を見る最高のスポットである
けれども、1200年を越える京都の歴史の全てが、現在の風景から読み取れるわけではない
花園駅周辺も同様で
法金剛院の北側には双池があり、法金剛院は花園駅構内までひろがっていた

平安京の西外で、嵯峨野の入口を画する双ケ岡麓にあたる法金剛院地の利用は、平安京開闢間もない9世紀初めに遡る
天武天皇につながる後の右大臣(当時は大納言)清原夏野が天長7年(830)にここに山荘をひらく
嵯峨上皇の時代である
『続日本後紀』の承和元年(834)には、嵯峨上皇が御幸し、山荘の水や樹を鑑賞したとある
源融が現在の清涼寺の場所に棲霞寺を営み、源常盤が双ケ岡のすぐ西に常盤殿を営んだ
妙心寺のすぐ東に位置する山城高校から平安時代前期の邸宅がみつかっている
嵯峨上皇にならい、内裏から嵯峨野へつづく道は皇族につながる貴紳達のメインストリートだったことになる
そして夏野の死後、この地は双丘寺または天安寺として整備される
『日本三代実録』天安2年(858)には、元夏野の山荘として天安寺が登場する
その後しばらくこの地の歴史は途絶える
権力の中枢が皇族から藤原氏へ移り、京内邸宅の中心も平安宮の東へ移ったためであろう

この地が再び歴史の表舞台に姿を現すのは院政期である
それは、皇族にとっての由緒ある故地が
藤原摂関家に代わる新たな王として権力を握った院の時代を象徴するものとしてクロースアップされるという意味で、鳥羽と極めて似た構図を持つ

鳥羽天皇中宮の待賢門院璋子は、大治4年(1129)に御堂の場所を占わせ、翌5年10月に法金剛院として落慶供養を行う。
『中右記』によれば、五位山を背に中央に大池を掘り、池の西に丈六阿弥陀堂(西御堂)、東に御所を建立、池の北に滝を造られ(長承2年(1133)に徳大寺静意によって五尺ほど高くされる)、その後、長承4年に北斗堂、保延2年(1136)に三重塔と経蔵、保延5年に三昧堂が建立されたという。

待賢門院は久安元年(1145)に三条高倉邸(現京都市中京区)で亡くなる。
しかしその後も造営は続き、承安元年(1171)に、待賢門院の娘上西門院統子内親王が「一間四面精舎、安置丈六阿弥陀像」の南御堂の落慶供養をおこなう。

発掘調査によれば、JR花園駅の構内から東御所とその西にひろがる池跡が見つかり、さらに現在の法金剛院の南に位置する調査区から塔跡が、駅の南から南御堂と推定される建物跡も発見され、その広大な伽藍が復原されてきている

法金剛院を出て西側の道を北へ登っていくと
右手に五位山の岩盤が顔をのぞかせる
船岡山と同様に、ここもやはり岩山かと思いながら
道なりに右に曲がって少し行くと
南入る路地があり、その先が鳥羽院中宮待賢門院の陵
それにしても待賢門院はなぜここに御所御堂を造営したのだろうか
そんなことを考えながらロンドンのThe Templeを思わせる妙心寺を通り龍安寺駅へ

白河院に溺愛された待賢門院が御堂の場所を占わせたのは白河院が亡くなった直後である
周知のように白河天皇は、二条大路末の岡崎に法勝寺に代表される御所御堂を造営し
続いて鳥羽殿の造営をおこなった
岡崎の北は黒谷から神楽岡につながる
鳥羽は作り道の延長上にあり、その北の先には船岡山が鎮座する
法金剛院の南限は春日と推定され、その西に双ケ岡が横たわる
法金剛院の場所は
平安京を囲むモニュメントと白河の意図を意識したものとしたら
考えすぎだろうか

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