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2008年8月29日 (金)

河野氏の館

雷雨で豪雨だった
松山駅から出てくる高校生の中には
傘を持たない者もいるから
30分ほど前には降っていなかったのだろう
東海から関東では大きな被害が出ているとのことだが
広島でも警報がでていたので、その余波だろうか

愛媛県立歴史文化博物館は
宇和島に近い卯之町にある
松山から特急で約1時間
藤原純友が拠点とした、瀬戸内航路の西端にあたる
豊後水道と周防灘を南から遮断し
さらに国東へのアプローチも可能とする場所である
いしづち1号が発車する頃には雨はおさまってきたが
相変わらず雲は厚い

純友が本拠にしたと伝える日振島は
宇和島の西方沖にあたるが
卯之町が見下ろす深浦湾がひらく南西方向の先にもあたる
天気が良ければ見えるのだろうか
列車は伊予市から海岸線を離れ
佐田岬半島の付け根をおおきくまわりこんで
大洲市を経て八幡浜市へ向かう
八幡浜は佐田岬半島の付け根にある港町
詳しく調べてはいないが
当然宇佐と石清水のつながりがある土地だろう
内子町に近づく頃には陽が射してきた
やれやれ

卯之町に着いたら強い陽射しが戻ってきた
歴史文化博物館までは約2キロ
ずっと雨で歩けなかったので町並みを見ながら歩く
展示は旧石器時代から昭和まで
ひとつひとつがしっかりつくられていて
中身が濃く大変勉強になった
はやりの奇抜な仕掛けは無いが
落ち着いてしっかり見られる良い博物館だと思う

一遍の一族にあたる河野氏は
元もと松山市北条河野を本拠とする在地領主で
高山(こやま)川と河野川が瀬戸内海に注ぐ平地を開発し
居館はこれらの川にはさまれた丘陵の麓にあったとされている
一遍の祖父にあたる通信は源平の内乱期に頼朝にしたがった御家人で
1203年の吾妻鏡によれば頼家から伊予支配の保証を受け
鎌倉にも屋敷を持っていたという
思わず鎌倉科研を思い出し、どこだろうかと思いをめぐらす
当時の伊予国守護は宇都宮と佐々木
地頭クラスとして河野と忽那(くつな)がいたという

その後河野氏は、周知のように承久の変で後鳥羽側に付き
通信は江刺へ追われ、北上市稲瀬町水越の聖塚がその墓と言われる
一遍には武士的な雰囲気が強いという
一遍が遊行を始めるきっかけとなったのは河野氏の後継をめぐるものともいう
一遍の生家は後に河野氏の城館となる湯築城のすぐ脇にあたる
一遍が飛び込んだのは、新しい時代の主人公となった武士層だという
その意味でも、一遍の風景は新しく生まれ始めた都市の風景だと思う

元寇の時、河野通有が有名な蒙古襲来絵詞に登場する
彼はその功により、蒙古軍冑鉢と蒙古軍弓矢を大山祇神社へ奉納している
その弓は樺材の両面に鯨の髭を付けたもので
高麗か南宋の兵が使用した可能性もあるという

南北朝期、河野通盛は尊氏につき、河野氏から出た土居と得納が
忽那と大祝とともに南朝の懐良親王についたという
河野氏の城館となった湯築城はこれにより1342年に攻撃されている
当然、その周囲には河野氏の寺社や町があっただろう
その風景もまた考えてみたい課題である

室町時代、伊予国守護となった河野氏に対し
讃岐から細川が攻撃を繰り返し
一方で西伊予は宇都宮氏と西園寺氏と摂津氏、御荘氏などが支配していた
讃岐に加えて、時代は異なるが、西園寺が再び登場する
そして河野氏の重心だった来島村上氏が力を強めるのは
その直後の戦国時代に入る頃からとなる
石清水の姿はあまり見えなかったが
純友とあわせて西部瀬戸内の歴史はダイナミックで面白い

由利島(松山市中島町)の土師器土釜は防長系の足釜
長楽寺の銭
今治の片山内福間遺跡をもとに中世の家が作られていて
西条市の土居構をもとに中世の屋敷模型がつくられいる
古墳時代は今治が中心だが
飛鳥時代以降は熟田津など松山が注目されるのは
国分寺は今治だが

駅前の寿司屋で504円のパックを買って松山行きの特急に乗る
考えてみたら昼食を摂ったのは火曜日の鴨島以来だった
松山に戻り河野氏の館を訪ねる
ここでは無理にでも湯築城とは言わない方が良いかもしれない
周知のように湯築城跡は
一乗谷朝倉氏遺跡に匹敵する戦国時代の重要遺跡である
ただし、湯築城には、一乗谷朝倉市館に無い特徴をもっている
14世紀代である
前にも書いたが、14世紀代とそれ以前の拠点居館の姿は
実は全くわかっていない
それが一遍を追う理由なのだが

けれども湯築城と呼ばれる河野氏の居館跡には
それを解く鍵があると思う
ただしそれを知るためには松山という町をもっと知る必要がある
愛媛県の歴史文化博物館には
そのヒントが示されていて、それが良かったと思う
湯築城は14世紀代に造営されたというが
その痕跡はよくわかっていない
けれどもそのまわりを見渡せば

一乗谷朝倉氏遺跡と見まがうほどに見事に整備された湯築城跡から
中央の丘に登り展望台から海が見えるのを発見し?
北口へ降りる
隣に子規記念館がある
行き先は一遍の生家と言われる宝厳寺
正面の交差点を右に見ると長い石段の上に八幡造りの社殿が見える
その交差点渡ると目の前が道後温泉駅
駅まで行く手前を右に曲がり暫く行くまでもなく温泉本館が見えてくる
道後温泉へ行った人は気づいていると思うが
本館の裏はすぐ山である
もちろん開発によってたくさんのホテルが建ち並んでおりその地形は単純ではないが
少なくとも湯築城から本館へのすぐ右手は
いきなり山が迫っていると言って良い

一遍の生家と言われる宝巌寺は
その本館の手前の路を右へ曲がり、登り坂の途中をさらに左に曲がった先にある
この路を歩きながらよぎったのは
今週の月曜に歩いた鎌倉だった
そのつもりで見ないとわからないかもしれないが
宝巌寺への路は、その左右が尾根ではさまれた谷の路である
もし宝巌寺に一遍の生まれた館があったならば
まさにそこは谷戸
谷地の奥に築かれた館だったのである

北条にいた河野氏と
道後にいた河野氏の関係はよくわからないが
もし宝厳寺が一遍の生誕の地で父の通広の館であったならば
それはまさに韮山や鎌倉で見た風景に近く
湯築城はあたかも守山のようで
湯築の丘の麓に館が築かれ並んでいた風景は
13世紀の終わりに溯っても十分あることだと思う
それはあるいは益田の河口周辺のような
一遍は幼少の頃と青年時代
道後本館から数分の場所で生きていたのだろうか
もしそうならば羨ましい限りだが
ただ
聖絵にそれが登場しないのが気に掛かるが

河野氏は松山市北条を本拠としたという
しかもそこには河野川と高山川が流れているという
それならわかるかもしれないと思い
列車の窓から無謀にもカメラを構えてチャンスを狙う
下調べもせずにそんなことがわかるはずもない
けれども
地形を見ていて驚いた
京都ならば宇多から嵯峨野の北
九州ならば津屋崎あたり
そして四国ならば坂出周辺
あの雰囲気とそっくりである
わかる人はわかるだろう
わからない人は案内しよう
河野氏の河野氏たる所以がわかるような気がした

久しぶりにJR四国の特急に乗ったが
良かった
揺れのきついのはやむをえないが
とくに松山からの帰りはウッディーな感じがJR九州の新幹線を思わせるほど
伊予西条のあたりで見た絶妙の雲の具合は
重なり合う山々をそれぞれにきわだたせて
まるで山水画の風景の様
頑張れ四国

伊予のじゃこ天は確かに旨い
後から旨味がしみだしてきて
ついまた手が伸びてしまう
そしてそれを酒がさらにいざなう
雪雀の生はとくに良いと思う

来週末は再び江戸

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