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2008年8月28日 (木)

一遍への路

讃岐平野に恵みの雨が降る
網野善彦は一遍の行く先々に中世の都市的な場が見えたと言う
この言葉にいざなわれて、今年からしばらく一遍の見た風景を訪ねる旅を始める
昨日は大雨でそんな余裕は無かったが、一遍が旅の終わりに阿波から福良へ渡った時の阿波とはどのようなところだったのだろうか気になる

阿南のキヨスクで買った800円の傘をさして8時10分の観音寺行きに乗る
雲は低くたれこみ8月とは思えないような雨が降り続く
坂出を過ぎたあたりから空が明るくなり雨が弱まる
昨日までの風景と違い、山がはるか遠くにひき
広い平野が続く
多度津で乗り換えて善通寺に着いた時には、辛くも曇り空
条里にのってまっすぐ西南西にのびる路を善通寺へ向かう
市役所を過ぎ、四国学院大のキャンパスの向こうに讃岐宮の森が見えたら
その北が善通寺
突然右手に五重塔が見え
その手前に山門が登場する
正面に見えるが金堂で、市史によれば、石垣には元の礎石らしい石材が使われていると言う
西に空海の生誕地である邸宅跡に建つ御影堂をおく
背後には、讃岐に特有の神南備形をした五岳山が顔をのぞかせる
一遍の河野氏も、空海の佐伯氏も
瀬戸内海を北に望む、同じ風景の中で生まれた
善通寺の南の次の駅が金比羅で、そのままJRに乗っていけば高地に着く
佐伯氏は四国の南北幹線が瀬戸内に出る直前の場所をおさえていたことになるのだろうか

つい先日まで西園寺公経のことばかり考えていて
彼と讃岐との関係も頭に入っていたはずだが
ここへ来て、その具体的な所領が善通寺領の中の多度郡弘田郷(の一部)だったことに気づかされた
さらにその地の公文の息子だった信綱から請所の希望をうけたのが定家だったことも
公経と定家のこういった関係は信濃以外にもあったことになる
元々そこは国衙領で、讃岐の知行国主となった公経(または九条道家)が管理していたことになると言う
善通寺の門前は、その頃から栄えはじめたと言われるが
四国学院大学構内の調査では、中世は発見されていない
ただし、ここでも後嵯峨と亀山に会ったので
鎌倉時代のこの地が注目されていたことは間違いない
この地域の中世は金比羅までひろげてみる必要がありそう
多度津を出るとすぐに瀬戸内海の島々が眼前にひろがる
ここがそういった場所だということをようやく実感する

古代豪族越智氏の本拠だけあって
さすがに今治は越智名の看板が多い
ちなみに伊予国分寺と国分尼寺は、今治のすぐ南東におかれている
まさに古代の伊予の中心地である
しまなみ海道をとおり大山祇神社までバスでおよそ1時間
今治桟橋を経由して大島、伯方島の次が大三島
大島に入ると一般道を走る
途中、大島で特に大きな杉崎古墳まで徒歩5分という看板を見る
大島はさすがに大きく、島を思わせないほど
今治へは、以前に、森先生と網野先生のしまなみ海道のシンポジウムがあって来たことがあるが
島へ渡るのは初めてになる
確かに狭い水路を多くの船が行き来している
大島の村上水軍博物館が示すように水軍の本拠地で
たしか今治に一番近い来島がそれだったろうか

バスは大三島のインターでおりると、島の東の井口港から西の宮浦港まで島を横断する
大山祇神社は、その宮浦港を西に見て、島を少し登ったところにある
境内の南脇を小川が流れ、その先には岩盤の露出した山がそびえる
いかにもの立地である
大三島は西に開いたコ字の形をしているが
宮浦と大山祇神社は、そのコ字の奥に位置しており
さらに、このコ字の対岸には大崎上島が、ちょうど蓋をするように横たわっている
あらためて見れば、なるほど芸予諸島の中で
最も大切な場所というわけになる

この大山祇神社
伊予の一宮で、越智氏や河野氏が氏神として崇敬し
その後もとくに武士からの信仰が篤く
源義経が奉納した甲冑をはじめとして、多くの甲冑や刀剣、鏡など
国宝と重要文化財を有している
一遍の祖父の河野通信が納めた甲冑も展示されている
一遍は、東日本から畿内と中国をまわった後で、ここに立ち寄っている
弘安10年(1287)、一遍は播磨から備中に入り、3月に十二具の位置付けをおこなう
その後、備後一宮の吉備津神社、安芸一宮の厳島神社を経て
正応元年(1288)に伊予に帰った
遊行16年、齢は50だった
菅生の岩屋を巡礼し、繁多(はんた)寺(松山市畑寺)に三月参籠し
12月16日に伊予一宮の三島大明神に詣でている
3から4ヶ月滞在したらしい
翌二年(1289)の初夏に善通寺と曼荼羅寺(善通寺市吉原町)をおとずれて阿波に入る
吉野川を伝い6月1日に大鳥の里の河辺(徳島県麻植(おえ)郡鴨島町敷地河辺)では疲労と病が彼を激しく襲ったという
その後7月初めに淡路の福良に渡り三原町の二宮である大和大国魂神社と
津名町の北野天神(志筑神社)で結縁し
18日には先師と仰いだ教信所縁の播磨に渡る
51歳で臨終を迎えたのは8月23日の朝だった

50を迎えた夏に一遍の跡を追うことになったのは
まったく偶然ではあるが
26日の鴨島から始まり
善通寺を経て大三島へ、そして生家の宝巌寺をめざす路は
一遍の晩年の路を逆に辿ったことになった
親しくしている義満は51を区切りとし
それほど親しくはないが信長は49を区切りとしている
今治から松山への列車の時間があったので
今治城による
高松と同じ海城である
どうも歴史家はつまらない偶然を気にしてしまう癖があるようだ

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