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2008年8月 2日 (土)

法金剛院

前にも書いたが
JR嵯峨野線の花園駅ホームは、平安京の北西角に凝縮された京都の文化を見る最高のスポットである
左手に双ケ岡が横たわり、そのすぐ手前に法金剛院と五位山
右手前方の森が妙心寺で、そのほぼ西端が平安京の西の限り
妙心寺の森から先を見ると、遠くに仁和寺の塔が見える
京都は日本の文化と歴史の故郷で、今の風景がそれ伝えると言う
確かにそのことは間違いでない
JR嵯峨野線の花園駅ホームは、平安京の北西角に凝縮された京都の文化を見る最高のスポットである
けれども、1200年を越える京都の歴史の全てが、現在の風景から読み取れるわけではない
花園駅周辺も同様で
法金剛院の北側には双池があり、法金剛院は花園駅構内までひろがっていた

平安京の西外で、嵯峨野の入口を画する双ケ岡麓にあたる法金剛院地の利用は、平安京開闢間もない9世紀初めに遡る
天武天皇につながる後の右大臣(当時は大納言)清原夏野が天長7年(830)にここに山荘をひらく
嵯峨上皇の時代である
『続日本後紀』の承和元年(834)には、嵯峨上皇が御幸し、山荘の水や樹を鑑賞したとある
源融が現在の清涼寺の場所に棲霞寺を営み、源常盤が双ケ岡のすぐ西に常盤殿を営んだ
妙心寺のすぐ東に位置する山城高校から平安時代前期の邸宅がみつかっている
嵯峨上皇にならい、内裏から嵯峨野へつづく道は皇族につながる貴紳達のメインストリートだったことになる
そして夏野の死後、この地は双丘寺または天安寺として整備される
『日本三代実録』天安2年(858)には、元夏野の山荘として天安寺が登場する
その後しばらくこの地の歴史は途絶える
権力の中枢が皇族から藤原氏へ移り、京内邸宅の中心も平安宮の東へ移ったためであろう

この地が再び歴史の表舞台に姿を現すのは院政期である
それは、皇族にとっての由緒ある故地が
藤原摂関家に代わる新たな王として権力を握った院の時代を象徴するものとしてクロースアップされるという意味で、鳥羽と極めて似た構図を持つ

鳥羽天皇中宮の待賢門院璋子は、大治4年(1129)に御堂の場所を占わせ、翌5年10月に法金剛院として落慶供養を行う。
『中右記』によれば、五位山を背に中央に大池を掘り、池の西に丈六阿弥陀堂(西御堂)、東に御所を建立、池の北に滝を造られ(長承2年(1133)に徳大寺静意によって五尺ほど高くされる)、その後、長承4年に北斗堂、保延2年(1136)に三重塔と経蔵、保延5年に三昧堂が建立されたという。

待賢門院は久安元年(1145)に三条高倉邸(現京都市中京区)で亡くなる。
しかしその後も造営は続き、承安元年(1171)に、待賢門院の娘上西門院統子内親王が「一間四面精舎、安置丈六阿弥陀像」の南御堂の落慶供養をおこなう。

発掘調査によれば、JR花園駅の構内から東御所とその西にひろがる池跡が見つかり、さらに現在の法金剛院の南に位置する調査区から塔跡が、駅の南から南御堂と推定される建物跡も発見され、その広大な伽藍が復原されてきている

法金剛院を出て西側の道を北へ登っていくと
右手に五位山の岩盤が顔をのぞかせる
船岡山と同様に、ここもやはり岩山かと思いながら
道なりに右に曲がって少し行くと
南入る路地があり、その先が鳥羽院中宮待賢門院の陵
それにしても待賢門院はなぜここに御所御堂を造営したのだろうか
そんなことを考えながらロンドンのThe Templeを思わせる妙心寺を通り龍安寺駅へ

白河院に溺愛された待賢門院が御堂の場所を占わせたのは白河院が亡くなった直後である
周知のように白河天皇は、二条大路末の岡崎に法勝寺に代表される御所御堂を造営し
続いて鳥羽殿の造営をおこなった
岡崎の北は黒谷から神楽岡につながる
鳥羽は作り道の延長上にあり、その北の先には船岡山が鎮座する
法金剛院の南限は春日と推定され、その西に双ケ岡が横たわる
法金剛院の場所は
平安京を囲むモニュメントと白河の意図を意識したものとしたら
考えすぎだろうか

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