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2008年8月15日 (金)

続続・伏見の中世

一人で伏見をまわると言ったら
夏休みで坂東の田舎から帰ってきた家の者(小)が
「理解不能」と言って仰け反ったが
LISMOにbluetoothをつなぎ、松任谷由実の「緑の街に舞い降りて」を聞きながら
ご機嫌で灼熱の伏見へ向かう
頭の中だけではこれ以上の進展が望めないとなったなら
とにかく現地に行くべし
現地に行けば必ず突破口が開けるもの

中世の伏見を語るときに注目される寺院のひとつが即成院
ある時は伏見寺とも呼ばれ、また即成就院とも呼ばれた
平等院鳳凰堂で有名な藤原頼通の子の橘俊綱が伏見に邸宅を建て
そのそばに建てたのが即成院とされている
この寺の研究は、瀬田勝哉さんの「伏見即成院の中世」『武蔵大学人文学会雑誌』36巻3号に詳しいので、まずはそれに学びたい

現在の即成院は泉涌寺惣門脇におかれているが、秀吉の伏見城造営によって、当初の場所から大亀谷寺町に移され、明寺の廃仏毀釈によって衰退した後の場所であるという
「那須与一ゆかりの寺」としても有名
なお、「看聞日記」にも多く登場するため、中世には貞成の館の近くにあったとも言われる

『拾芥抄』によれば、伏見寺は即成院で俊綱朝臣建立と記す
ただし、瀬田さんは、この記事は必ずしも正確ではなかったと言う
『中右記』によれば、元永2年(1119)に宗忠が日野の法界寺へ行った帰りに、故伯耆守家光妻の臥見堂へ寄り、その寺は「来迎引接」の様子が備わった仏と堂のつくりで、その仏は故俊綱がつくったものだが、俊綱は寛治7年(1093)に自分の邸宅の臥見邸が火事に遇い、その後、子の家光も伏見を継いだものの十分な供えができなかったものを、家光の妻が堂を造り整えたものという

また、中原康富の日記によれば、その場所は旧来の推定どおり
六地蔵から伏見坂を登った先の、乃木神社周辺と横井さんは言う
なにが頭の中で先へ行くことを止めているかと言うと
この伏見寺と伏見殿の関係がよくわからないこと
それから伏見九郷の場所も

桃山御陵で降り、御香宮を左に見ながら大手筋を東へ登り
明治天皇陵の参道に入ってまもなくの辻を北へ折れる
長岡京の次に平安京を開いた桓武天皇の陵はその先にある
嵯峨天皇の陵は大覚寺の北西の丘の上にあり
数年前の授業で行ったが、桓武天皇陵は行く機会がこれまで無かった

戻ると、その先が乃木神社である
明治天皇陵参道からひとつ段丘が下がり、さらにもうひとつ下がる途中にあたる
最初の目的地は即成院だったが
光明山陵の場所の先入観があって
乃木神社の西を南へ降りて線路をくぐる
大光明寺陵には以前に全く偶然訪れたことがある
桃山から江戸町へ降りようとして道を探して団地の中をぐるぐるまわった時のことだった
あらためてその目で見れば
伏見殿の推定地としてふさわしい場所だと思う
伏見殿には上下の御所があったと言うが
義満の室町殿も北山殿もそれらは隣接してあったため
この場所に上下の御所があっても良いと思う
そのまま西へ観月橋団地を通り市営桃陵団地を越えて伏見松林院陵へ
今回は新撰組まで手をのばすつもりはないので中書島へ

墨染で降りて藤森神社へ
東へ行けばJR藤森から大亀谷
神功皇后の伝説(旗塚)と清水(不二の水)をもち
大将軍と八幡宮社は足利将軍に由来する重要文化財
伏見の古代はここからはじまる
この踏査の大元である伏見稲荷に挨拶をすませ
JR線で京都駅へ
14時からの会議の後
約束していた三条の古書店へ
どうしても見ておきたい場所があって再び京阪で伏見へ

伏見の地形は非常に複雑であるが
線路を基準にすれば大きな整理はできる
一番低い場所を走っているのは京阪電車
おおむね伏見街道(大和大路・琵琶湖疎水)に対応するように三条から南下し
丹波橋から近世伏見の街の南を迂回するように中書島へすすみ
そこから分かれた宇治線も宇治川沿いを走る
近鉄電車は竹田街道に対応するように伏見を通過し、豊後橋を渡る
この京阪電車の伏見桃山かと近鉄電車の桃山御陵で降りて大手筋を東へ行くと
緩やかな上り坂で御香宮に着く
伏見の地形は、まずこの京阪電車の西の低地と御香宮から東の台地でふたつに分けられる
御香宮からさらに東へ進むとJR奈良線の踏切と交差する
JR奈良線は、久津川車塚も椿井大塚山もそうだが
南山城の低地と丘陵部の境を走っている
伏見についても同様で
線路の東に高い崖を見ることができる
したがって、伏見の地形は、御香宮からJR線までの台地と、その先の台地でも分けることができる

再び明治天皇陵参道から乃木神社への道に立ち
伏見坂につながる小道を見て
あらためて参道への道を見上げ、急な坂を伊賀団地へ降りる
外環へ出ると、すぐ目の前を京阪電車が走り山科川が流れる
豊後橋へ向かって歩き始めると
江戸町の谷がわかる
伏見寺直下の村と言われるが
当時、宇治川本流はもっと南を流れており
今の風景とは大分違ったはずだが

大光明寺陵の真下にくると再び宇治川が山にせまる
豊後橋から御香宮までもどり
さて、伏見の中世とは
伏見宮貞成 後崇光院の墓所はなぜ松林院なのか
御香宮が産土神としたときの中世村落の配置はどうなるのか
御香宮の石庭

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