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2008年8月 7日 (木)

続・伏見の中世

春学期の試験期間が終わる日
レポートのチェックに田辺に寄った後、今出川へ向かう
途中、四条で降りて相変わらずの陽射しに思わずよろめく

足利政権が京都を本拠にしようとした時、その目標に思い描いたのは鎌倉時代の京の覇者達の姿だった。
尊氏は鎌倉時代末期に院御所が集中した二条高倉に邸宅を決め、後嵯峨院が造営した嵯峨の亀山殿を天竜寺として後醍醐帝の菩提を弔った。
義満が花御所の地に選んだのは、持明院御所に近い北小路室町(現在の烏丸今出川)で、そこは崇光院などの邸宅を利用したものだった。
そして鎌倉時代の京の覇者を代表する西園寺公経の後を追うように、北山西園寺跡に、後の金閣寺となる北山殿を築いた。
足利政権は鎌倉時代の京都の姿を意識して踏襲することで、京都の覇者としての立場を明確にしたと言える。
そんな足利氏の意識したもうひとつの場所が伏見だった。

伏見宮貞成(これでさだふさと読む)親王の『看聞日記』をもとにした横井清さんの『室町時代の一皇族の生涯』によれば
応永2年(1395)に出家した足利義満が、伏見の御所に遊びにきて
十万疋もの進物(銭)を崇光院に献上したという
崇光院は、そのお礼に、伏見荘の百姓たちによる田楽などで持てなした
しかしその後、崇光院は病床に伏し、応永5年(1398)正月13日伏見御所で崩御
65歳だった
遺骸は伏見の大光明寺で荼毘に付され、大光明寺陵に葬られる
その時、孫の貞成は27歳、京の今出川邸にいた
(中世の伏見と今出川の不思議なつながりはここにもある)

不幸は続く
伏見殿の所領として貞成親王父の栄仁(よしひと)親王に伝領されるはずの
長講堂領・法金剛院領・熱田社領・播磨国衙領が
光厳院の遺書によって後小松天皇に移ってしまい
傷心の栄仁親王は伏見の指月庵で出家
48歳だった
その背景に義満の動きがあったというが詳細は不明

ただし
元室町院の領であった花園天皇皇子の萩原殿の領と萩原御所(妙心寺の近く)が
貞成に戻ってきて、からくも伏見殿の維持を支えることになる
そこに登場するのが義満だった
8月に、伏見御所を山荘にしたいと言って栄仁親王を萩原御所へ移す
しかしその後何をすることもなく
応永の乱の後、応永6年師走、結局栄仁親王に伏見殿は戻されることになる

なお応永15年(1408)3月におこなわれた後小松天皇の豪奢な北山殿行幸の一月後、義満は病に伏し、翌月に51歳で没する

義満の伏見に対する思いは一体なんだったのだろうか
そもそも伏見の中世とはどんな世界だったのだろうか
(市野千鶴子「伏見御所周辺の生活文化」『書陵部紀要』33 1982)も見なければならない
と思いながら
京都府立総合資料館で京都市の報告書のページをめくる
何度も見ているはずなのに
その度毎に新しい発見のあることが楽しい
一通り報告書を見終えるとやや日が傾き始めている

ゼミのみんなも
土人形や宝篋印塔や山城や関門海峡や田辺や博物館や住吉を
調べて歩いているだろうか

夏休みが始まる
当面の目標は16日までに伏見の原稿と鎌倉の整理

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