« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月

2008年11月29日 (土)

片瀬浜

片瀬は輝くばかりの陽の光
一遍は、片瀬の館と地蔵堂にその足跡を残している
湘南江の島のモノレール駅を出たところが江ノ島道
交差する県道を渡りまっすぐ行けば江ノ島
一遍の地蔵堂へは逆にもどる
紹介にしたがい公民館と八百屋さんの間の小路を行くと
県道へ出る直前に小さな公園があり
一遍の地蔵堂を示す標柱が立っている
まずはここから

遊行寺での約束までまだ少し時間があったため
公民館と一緒にある図書室へ行って資料を調べる
係の人に相談するとうってつけのマップがあり
それを手がかりにして江ノ島みちを北へ
片瀬港をめざす

現在の江ノ島道は、普通車がやっと対向できるほどの幅
途中に元禄頃の事跡があるという藤沢から江の島をつなぐ「江の島弁財天道標」を見かける
鎌倉に続く東の山塊の麓をほぼ同じ標高でくねくねと続く
湘南江の島駅のすぐ北にあるのが常立寺
元は真言寺院の利生寺があったという
「竜の口」と呼ばれた刑場の地で、大庭景親、和田義盛、法条時行らが処刑された
公民館の先の右手にあるのが密蔵寺
徳治元年(1306)に没した有弁を開山とする

この密蔵寺の道をはさんだ西側は一段低くなった空き地になっており
その脇の路地を県道へ向かって降りていくと下諏訪神社が鎮座している
年表によれば8世紀に信濃国から勧請されたと伝え
下社は弘仁年間、上社は天長年間に遷座と言う
神紋は諏訪大社のご神木をあらわしている
路地を一筋北へずらして公園を抜けて江の島道へもどると
東の長い石段の上に上諏訪神社がみえる
大鯨の伝説をもつ浪合をゆるやかに右にカーブしながら過ぎると泉蔵寺

片瀬小学校をすぎると岩谷不動入口の標柱がたつ
その先の一体は殿山と呼ばれ
館跡と推定され
後北条の時代には大船の玉縄城の砦の役割も果たしていたと言う
道は、この先から少し下りになり
その先が境川にかかる新屋敷橋との交差点になる
説明ではこの橋の上流あたりが片瀬港で
境川はこの下流でおおきく川筋を変えていたと言う
片瀬の館は
この港を見下ろす周辺だろうか

江ノ電で藤沢へ
遊行寺は藤沢駅から北へ10分ほど
北東から来た東海道が
境川を渡ったところで北西に曲がる角にある
絶好のロケーションである
なお江戸時代の藤沢宿はここから少し西へ行ったところ
ちなみに遊行寺のすぐ近くに諏訪社が鎮座している

一遍はなぜ片瀬に滞在したのだろうか
一遍は片瀬の誰を頼ったのだろう
江の島なのだろうか

帰洛

帰洛


from 鋤柄俊夫

2008年11月28日 (金)

石浜神社

東京メトロを南千住で降りる
南口の大きな貨物線の踏切を越えると目の前の交差点を横切るのが明治通り
地図を頭に思い浮かべながら左折
バス停は泪橋
どこかで聞いたことがあると思いながら西へ進む
大きな清掃の工場があったガスタンクが見える
その先が白髭橋のかかる隅田川
花火で有名な身近なイメージの隅田川だが、畿内なら宇治川に匹敵する大河川である
石浜神社はその手前に鎮座する

聖武天皇の勅願により
泰衡攻撃のため、ここで頼朝が伊勢神を祈ったことに関わる
祭神は天照大神と豊受姫神
室町時代は武蔵千葉氏の城がおかれた
確かに常陸、奥州から武蔵への入口である
一遍は江刺と平泉からの帰りに
親鸞の影響下にあった常陸で溝から銭を掘り出した後
43歳で(1281 弘安 4)ここに来ている
対岸が向島で、その先の巨大河川、荒川を越えるとお花茶屋の葛西城
典型的な水上交通と陸上交通の結節点である

駅に戻る途中、地図でみつけた平賀源内墓に立ち寄る
明治通りに面して石碑が立ち
その奥の一角に墓がある
門は閉まっていて入れなかったが国の史跡となっている
讃岐の生まれといえば空海と同じかと不思議な縁に気づく

明治通りに戻り泪橋の字をもう一度見て
そうか、あしたのジョーかと思い出す
左は言問橋から浅草
色々なことが一気に頭を駆け巡る
泪橋はどこだろうかと探す時間も無いままに南千住駅へ
北は日光街道へつながる
乗った電車は常磐線
至るところに北関東の姿が見える

一遍にならい東京から片瀬に向かう
順番では長後(ながさこ)から巨袋坂だが時間の都合で大船からモノレールに乗る
一遍は石浜から海岸沿いではなく
豊島、調布、高井戸、大和など陸路の武蔵を歩いていったことになる
天気はすっかり晴れ
リスモを起動しサザンを選ぶ
片瀬山をすぎると湘南の海が見える

2008年11月27日 (木)

阿武隈川と渡良瀬川

会津若松も郡山もどうしてSuicaが使えないのだろうかと訝しみながら白河へ向かう
白河へは東北本線で約30分
広い平坦な台地が続く
こんな風景のどこに関が作られたのだろうと思いながら白河に近づく頃山が目に入る
白河関は白河駅から福島交通のバスで約30分
城下町の姿をそのまま残す古い町並みを抜けると
ほぼ旧東山道に沿って低い山並みの間の谷を南下する
バス停の名前に「宿」が着くとまもなく関

白河関は古代東山道の陸奥国入口に置かれた関所
関としての意識は古墳時代にさかのぼるとされ
公式には9世紀の太政官符で俘囚の出入りと商人の官納物買取りを防ぐためとする
この時、同時にいわき市とされる菊田関(勿来関)がみえ
(日本海側は山形と新潟の間の念珠(ねず)関)
取り締まりを長門国関並にすると申請されているため
都から見たときの東西の境界意識がわかる
なお南北朝期の「河海抄」は、平安初期に蝦夷に対する備えとする
また鎌倉時代には関としての昨日は失われていたとも言われる

昭和30年代に発掘調査がおこなわれ
二重の柵木に囲まれた平安時代の竪穴住居群ほか掘立柱建物跡群・鍛冶工房跡などが発見された
独立丘陵を改造して利用したもので
北に白河神社が鎮座し、南に大規模な壕を巡らせた館をもつ
昨日の陣が峯城を彷彿させる

現在の場所は阿武隈川の支流にあたる社(やしろ)川の最上流部で
すぐ南が栃木県境
国道とも東北本線ともおおきくずれた東に位置する
どうも土地勘が無いのでよくわからなかったが
阿武隈川である
仙台から延々と福島と郡山を経由して南下して遡ってきた阿武隈川の終点が白河で
そのさらに支流の終点が白河の関なのである
この川より北は奥州で
この川と分かれて栃木へ入ると那珂川が南東に流れて茨城の水戸で太平洋につながる
さらに那珂川からまた山を越えて宇都宮に入れば鬼怒川で
そこから先は坂東の広い台地が広がり、利根川、荒川が南をめざす
白河の関は阿武隈川に代表される奥羽水路と
那珂川鬼怒川に代表される北関東水路の
おおいなる分水嶺ということになる
阿武隈川を遡ってきた人々は
ここで奥州との別れを告げ
鬼怒川と那珂川を遡ってきた人々は
ここを過ぎることで別の世界に入ることを実感する

ちなみに一遍は江刺へ向かう途中
栃木の小野寺から42歳で(1280 弘安 3)ここを通過している
天気予報が半分あたり
白河を出る直前に雨が降り始めた

両毛線の岩舟は栃木から二駅西の下野国
次の駅は佐野
黒い土と広い台地
いかにも武士がいそう
駅の北に大きな岩山がある
タクシーの運転手さんと話しをしていたら
ここで映画のロケがたびたび行われているという
一遍が立ち寄った小野寺は大慈寺とされるが
最寄りの駅はこの岩舟で、公共の交通機関は無い
ただし下野の名刹で
駅前のタクシーは慣れた道を走り出す
岩舟から東北道を越えて北西へ約7キロ
マクロ的に見ると
下野の台地の北の端で
この寺の北の山の先は日光の男体山
そのずっと先が猪苗代湖と磐梯山
奥羽山脈の最南端である

行基の開山とされる大慈寺は
延暦13年(794)に都賀郡に産まれた円仁(慈覚大師)が
9歳から15歳まで修行した寺として有名で
境内は円仁にちなむモミュメントが多い
最澄の弟子として名高い円仁が東国出身とは気づかなかった
以前から森先生が東国の古代の知識人層に注目していたことを思い出す
残念ながら一遍にちなんだものは見あたらない
だが、一通りまわって境内を出たところで出会ったのが「村檜(むらひ)神社」
7世紀に遡り熊野神社と日枝大神(大山咋神)を迎え
祭神は誉田別(ほんだわけ)命
式内社で下野三之宮
室町時代の三間社春日造は重要文化財
誉田別命と言えば石清水八幡宮である
つまり太平洋の熊野社と日本海の日吉社と源氏の八幡宮と
諏訪はないけれど会津同様にすべてが揃っている最強の神社である
神殿の背後の斜面には「石清水」が湧きだしていた

さらにこの神社の正面はそのまま現在の道につながっている
視野を広げれば
背後に山を背負い
左右にその続きの尾根が延びる
平地はその間を三角形に広がっていく
その中央左手を川が南下する
これまで何度も見てきたような典型的な開発領主型の風景である
おそらく、この神社の真下には領主の館がおかれ
街道にそって集落がみられたと思われる

この川はやがて渡良瀬川と合流し
その先が古河(公方のおかれた)である
非常に面白いのは
東西に流れる渡良瀬川や利根川に対して
奥羽山脈の谷谷から流れる川を単位に
東から栃木、小野寺、佐野(鋳物師)、足利、世良田とならぶ
まるで東国武士の拠点の団地のよう

九州の大友や信濃の伴野の市庭と小田切里や父を小笠原信濃守長清とする大井太郎朝光もそうだが
一遍は地域の拠点を選んで遊行をおこない
ここも同様であったことがわかる
さらにここは一遍の遊行地のもうひとつの特徴である宮と宮前も含んでいた
ゆえ
ここもまた大いに意味のある景観だったことになる

岩舟

岩舟
小野寺

from 鋤柄俊夫

小峰城

小峰城


from 鋤柄俊夫

2008年11月26日 (水)

会津坂下

昼頃にはすっかり晴れ上がり遠く磐梯山がその美しい姿を見せた
2度目の会津大塚山古墳への挑戦を終え会津坂下へ
アーケード町並みを西へ曲がり、バスは七日市を抜けて坂下への街道をゆく
アンティークを売る店やアンティークな店が続く
会津若松という街の重厚さを感じながら

昨日の話にあった諏訪信仰を思い出し
諏訪神社の前で落ちあって
Yさんのご案内で陣が峯城跡の資料を見学
『新編会津風土記』(江戸時代)によれば
陣が峯城跡は、「東西一町三十間 南北一町四十間 城四郎長茂が築造し
二十八館のひとつなりと言う
今は雑樹繁茂す この中より米の焼けたる炭の如くになり
今猶出づ 土人云 長茂居館に火をかけて立ちのきしが
米倉の焼けたる所なりと」

平成12年(2000)に表面調査がされ多くの陶磁器が発見され
12世紀代の遺跡と判明
平成14年度(2002)から発掘調査がおこなわれ
3時期にわたる主殿を中心に、倉庫、馬場などが見つかる
ちょうど今出川地点の発掘をおこなっていた頃になる
見つかった遺物は、多数の白磁四耳壺、白磁手付き水注、多量の白磁皿、少量の白磁碗
珠洲窯甕、常滑窯甕、渥美窯系甕・鉢、高麗青磁、ロクロの柱状高台かわらけ
分銅、銅鏡、漆器、炭化米、碗に入った状態の炭化米、包飯、豆、蕎麦などなど
堀からは貯めていた飛礫も出土
なんといっても圧巻は白磁壺類で平泉に匹敵する内容

陣が峯城跡のある場所は
会津盆地の北西
やがて日本海に注ぐ阿賀川が盆地の水を集めて磐越の境界を越えようとするその手前
阿賀川の西を流れる旧宮川や亀ケ森古墳を東に見下ろす西の段丘縁辺
規模は南北175m、東西110mのすこし不整形な五角形
東は比高差20mの崖
南は外周に自然の沢を利用した二重の堀
北は自然の沢を一部改変した二重の堀
西は内側の一部に土塁、外側の一部に土塁
風景は浪岡の高屋敷を彷彿させる
Yさんは、その北を走る磐越の街道をコントロールした館とする

陣が峯城がつくられたのは
藤原忠実が祖母の麗子から蜷河荘(いながわ)を伝領した永久2年(1114)頃される
忠実と言えば、摂関家の復興を目指し宇治の拠点化を進めた人物
また「玉葉」には
養和元年(1181)に城四郎長茂(ながもち)と慧日寺の乗丹坊が横田河原で木曾義仲に敗れ
「藍津之城」に籠もろうとした時
藤原秀衡に攻められて越後の本城に引きこもったとあり
この「藍津之城」が陣が峯城ではないかとされている
そしてその前には越後の城氏に協力を得て平家ゆかりの乗丹坊が率いる慧日寺が、ここを攻めたとも考えられている
承安2年(1172)には城長茂が小河荘75村を慧日寺に寄進

陣が峯城をめぐるYさんの説明を聞きながら
あらためて会津坂下の濃密な古代・中世に思いを馳せる
法金剛院や金剛心院に似た殿舎と園地を持つ薬王寺遺跡
長床で有名な熊野神社には善光寺式の阿弥陀如来が安置される
すぐ脇の新宮城は一辺が100mを越える巨大な複郭構造の館
塔寺・北田城・政所・諏訪信仰
そして天喜年間の源頼義伝説と八幡宮
日本海を通じて信濃へ畿内へ
会津は広い
畿内の中世集落の見方よりスケールを大幅に大きく見ないといけない
とは言いつつも土地勘がうまくつかめないまま
てづくねかわらけの無い訳を考えながら
3度目の会津大塚山古墳への挑戦で墳丘に立つ
それにしてもなぜ一遍は会津へ入らなかったのだろうか

会津大塚山古墳

会津大塚山古墳


from 鋤柄俊夫

会津盆地

中世前期の都市的な場を検証するために会津坂下町へ向かう
今出川ではイブ祭が始まる
田辺には正門を入ったすぐのところに大きなツリーの電飾の準備が進んでいた
東北は寒いだろうと思ってスキージャケットを着たが
京都は意外に暖かい
「のぞみ」も「やまびこ」もほぼ満席
富士山だけが雲に隠れていた東海道と東北路を過ぎて
まわりの景色を堪能するまもなく
郡山に降り立つとさすがに空気が涼しい
郡山に来たのは5回目くらいだろうか
会津若松はたぶん3度目になるのではないかと思う
大戸窯と会津本郷焼きと

郡山から磐越西線の快速で喜久田をすぎる
中通りと呼ばれる広い低地を感じて頭の中で地図を広げる
磐梯熱海の駅から西の低い山の間に磐梯山の手前を遮る大滝山?の雪が顔を出す
ここから中通りと猪苗代の間に横たわる低い山並みを抜ける
熱海と中山宿の間に大山祇神社があるがなぜだろう
中山峠を越えると線路際に雪が待っていた
思わず寒梅館の調査が大詰めの頃
上杉本洛中洛外図屏風の件で米沢へ日帰りしたことを思い出す
東北である
左手前方の山が切れると猪苗代湖
その手前の「じょうこ」の駅に再び大山祇神社が鎮座する
なぜだろう
熱海からおよそ20分ほどである

頭を雲で隠した会津磐梯山がそびえる
スキーコースには雪がしっかり
猪苗代から会津盆地へ入るために磐梯町の山を越える
一面の銀世界である
磐梯町の入口には熊野神社が鎮座し
右手に経塚山が見えたら
おそらく羽山の麓に慧日寺を拝む

会津若松市にある会津大塚山古墳は、墳長約114mの4世紀中頃とされる前方後円墳
駅から10分強
新しく造成されていく真っ暗な区画を抜けて
びっくりするような学校の横をGPS携帯でめざす

後円部の割竹形木棺からぼう製の三角縁神獣鏡が出土している
東北への前期古墳文化の波及を示す重要な遺跡だが
その場所が日本海と太平洋のちょうど中間に位置しており
交通路としては日本海により近いこの場所にあることが重要

さらに多くの新しい友人達から会津盆地の重要な話題を教わる
3つの地域色
熊野神社
緑釉
宗像神社
向羽黒山城

そして会津の夜はふけてゆく

2008年11月25日 (火)

会津大塚山古墳

会津大塚山古墳


from 鋤柄俊夫

会津若松へ

会津若松へ
やはり気温が低い

from 鋤柄俊夫

郡山へ

郡山へ


from 鋤柄俊夫

イブ祭を後に

イブ祭を後に


from 鋤柄俊夫

2008年11月22日 (土)

秋の寒梅館

秋の寒梅館


from 鋤柄俊夫

2008年11月21日 (金)

宇宙を見る

宇宙を見る
点灯式

from 鋤柄俊夫

2008年11月16日 (日)

備前福岡

備前福岡


from 鋤柄俊夫

2008年11月 9日 (日)

吉田山

吉田山


from 鋤柄俊夫

2008年11月 7日 (金)

小谷城

小谷城

from 鋤柄俊夫

2008年11月 1日 (土)

知多の山

知多の山
山茶碗とカード立て

from 鋤柄俊夫

虎渓山

虎渓山
土岐川

from 鋤柄俊夫

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »