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2008年11月26日 (水)

会津坂下

昼頃にはすっかり晴れ上がり遠く磐梯山がその美しい姿を見せた
2度目の会津大塚山古墳への挑戦を終え会津坂下へ
アーケード町並みを西へ曲がり、バスは七日市を抜けて坂下への街道をゆく
アンティークを売る店やアンティークな店が続く
会津若松という街の重厚さを感じながら

昨日の話にあった諏訪信仰を思い出し
諏訪神社の前で落ちあって
Yさんのご案内で陣が峯城跡の資料を見学
『新編会津風土記』(江戸時代)によれば
陣が峯城跡は、「東西一町三十間 南北一町四十間 城四郎長茂が築造し
二十八館のひとつなりと言う
今は雑樹繁茂す この中より米の焼けたる炭の如くになり
今猶出づ 土人云 長茂居館に火をかけて立ちのきしが
米倉の焼けたる所なりと」

平成12年(2000)に表面調査がされ多くの陶磁器が発見され
12世紀代の遺跡と判明
平成14年度(2002)から発掘調査がおこなわれ
3時期にわたる主殿を中心に、倉庫、馬場などが見つかる
ちょうど今出川地点の発掘をおこなっていた頃になる
見つかった遺物は、多数の白磁四耳壺、白磁手付き水注、多量の白磁皿、少量の白磁碗
珠洲窯甕、常滑窯甕、渥美窯系甕・鉢、高麗青磁、ロクロの柱状高台かわらけ
分銅、銅鏡、漆器、炭化米、碗に入った状態の炭化米、包飯、豆、蕎麦などなど
堀からは貯めていた飛礫も出土
なんといっても圧巻は白磁壺類で平泉に匹敵する内容

陣が峯城跡のある場所は
会津盆地の北西
やがて日本海に注ぐ阿賀川が盆地の水を集めて磐越の境界を越えようとするその手前
阿賀川の西を流れる旧宮川や亀ケ森古墳を東に見下ろす西の段丘縁辺
規模は南北175m、東西110mのすこし不整形な五角形
東は比高差20mの崖
南は外周に自然の沢を利用した二重の堀
北は自然の沢を一部改変した二重の堀
西は内側の一部に土塁、外側の一部に土塁
風景は浪岡の高屋敷を彷彿させる
Yさんは、その北を走る磐越の街道をコントロールした館とする

陣が峯城がつくられたのは
藤原忠実が祖母の麗子から蜷河荘(いながわ)を伝領した永久2年(1114)頃される
忠実と言えば、摂関家の復興を目指し宇治の拠点化を進めた人物
また「玉葉」には
養和元年(1181)に城四郎長茂(ながもち)と慧日寺の乗丹坊が横田河原で木曾義仲に敗れ
「藍津之城」に籠もろうとした時
藤原秀衡に攻められて越後の本城に引きこもったとあり
この「藍津之城」が陣が峯城ではないかとされている
そしてその前には越後の城氏に協力を得て平家ゆかりの乗丹坊が率いる慧日寺が、ここを攻めたとも考えられている
承安2年(1172)には城長茂が小河荘75村を慧日寺に寄進

陣が峯城をめぐるYさんの説明を聞きながら
あらためて会津坂下の濃密な古代・中世に思いを馳せる
法金剛院や金剛心院に似た殿舎と園地を持つ薬王寺遺跡
長床で有名な熊野神社には善光寺式の阿弥陀如来が安置される
すぐ脇の新宮城は一辺が100mを越える巨大な複郭構造の館
塔寺・北田城・政所・諏訪信仰
そして天喜年間の源頼義伝説と八幡宮
日本海を通じて信濃へ畿内へ
会津は広い
畿内の中世集落の見方よりスケールを大幅に大きく見ないといけない
とは言いつつも土地勘がうまくつかめないまま
てづくねかわらけの無い訳を考えながら
3度目の会津大塚山古墳への挑戦で墳丘に立つ
それにしてもなぜ一遍は会津へ入らなかったのだろうか

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