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2008年12月

2008年12月21日 (日)

益田再び

山口線の特急は2両編成
津和野を過ぎてしばらくすると日本海側の空が見えてくる
昨日までは寒かったと聞くが、今日の益田はコートを着たままでは汗ばむほど
2005年に「中世西日本海地域の都市と館」を書く前に、確か1月の終わり頃だったろうか。鳥取から下関まで山陰線を巡ったことがある
雪の鳥取城と湖山池、曇り空の倉吉と米子城、雪の大山寺と富田城、鰐淵寺への思いを残しながら杵築社へ、そして石見銀山のあとに訪れたのが最大の目的地の三宅土居だった
町と一体化した案内板に導かれて土居をめぐり七尾城に登った
益田川の勢いに圧倒され、川上の居館跡の写真を見て、五福寺のことを知り、また来なければと思っていた
その後、貿易陶磁研究会と中世都市研究会の木原さんの報告で、中須西原遺跡と沖手遺跡の発掘調査を知り、これはぜひにでもと思った
 
沖手遺跡は、旧益田川からすぐの右岸
自然堤防とも思えないほど平らな地面の広がる中に、五福寺のひとつである専福寺の地名が残る
脇を走る道路の下に、溝で区画された家並みが広がっていたことになる
偶然だろうか、鎌倉時代の区画と新設された道路の軸が同じ
専福寺の先から新しい道路を左に曲がり益田川を渡る
すぐ右に曲がり、益田川に沿って海へ向かった先の右手に福王寺がある
境内に入ってすぐ目に付いたのが十三重石塔
もちろん鎌倉時代であろう
さらにその裏には巨大な五輪塔の一部
御影石だという

益田が日本海西部の海上交通の重要な拠点あることは言うまでもないが
これはもう、馬淵さんの言う西大寺流の関係と言わざるをえない
鎌倉時代の益田のひとつの風景はこれだと思った
境内を出るとそこが中須西原遺跡
15世紀代を中心とする集落遺跡である
沖手遺跡が専福寺を中心とする鎌倉時代の港湾集落だとすれば
中須西原遺跡は福王寺に隣接する室町時代の港湾集落となる
中世の益田川河口は中須の南を巻いて西の高津川河口に向かっていたとも考えられるそうで
そうであれば、沖津の集落も中須西原の集落も
ちょうど河口をさかのぼった停泊地にうってつけの場所となる
そして鎌倉時代にそこをおさえたのは北条氏につながる人々で
室町時代は益田氏になる
と言ってしまうのはあまりに都合が良すぎるだろうか

山口へ向かう列車で左手に席を変える
けれども津和野は漆黒の闇に包まれて何も見えない
気温が急激に下がってきた
また来なければと思う

2008年12月19日 (金)

新山口

新山口


from 鋤柄俊夫

2008年12月18日 (木)

高島市池の沢遺跡

歴文研ゼミ1期生の4回生は卒論のラストスパートである
一方2期生となった3回生のうちの一人は庭園に関心があるという
というわけでもないが
滋賀県高島市の池の沢遺跡を見学する

鎌倉時代の庭園がほぼ完全な形で残っているという
京都市街から約40キロ
比良山を西に見上げる朽木村井の安曇川右岸段丘上である
北と南を沢で区切られ、西には山が迫る
その山から延びた尾根が庭園の北に続き、岩盤が一部露出する
庭園は、その岩盤尾根の先端を北の端におき
その裾から湧き出る泉を水源として南にひろがりのびる
水源には石組が設けられ石の大きさを減じながら西の護岸が続く
池の中央には、岩盤を利用した中島が築かれている
岩の中島は西園寺の北山殿の池や
大覚寺の池に通じ
山との関係は法金剛院や金剛心院を想像させる
安曇川を見下ろす全体の風景は会津坂下の陣が峰城にも似ているが
ちょっと想像が過ぎるだろうか
沢をはさんだ北も館跡に推定されており
平泉のような複数の館から構成された空間だった可能性がある
後一条天皇に関わる伝承を持つという
今後も注目していきたい

2008年12月 6日 (土)

備後一宮

福山から福塩線に乗り換える
2両編成のワンマンカーは生徒と学生で一杯
芦田川を遡ると車窓を立派な家々が途切れなく通りすぎる
豊かな地域だと思う
新市までは約50分
備後一宮までは新市駅から徒歩約15分
一本道である
道路の右手に厳島神社の池が見えてきたら
その左手が備後一宮
バス通りから短い参道を抜けるとすぐに大鳥居が迎えてくれる
その先にあるのが随神門
神無月の集合を欠席した吉備津彦命を心配した大国主命が送った使者で
備後国は大祭の真っ最中で、歓待された使者はそのまま吉備津彦命の親衛となったという
この門をくぐると左手に広場とその中に公孫樹の巨木が
この広場は11月23日前後におこなわれる中国地域屈指の市立大祭の会場ともなる
一宮があって新市である
備前一宮と備前福岡市の関係が思い浮かぶ
突き当たりの石段をあがって振り向くと視界がひろがり、西日に照らされた門前の風景が見えてくる
ふたつめの随神門をくぐり
左右に分かれた石段を登ると
拝殿の向こうに大きな社殿が姿を現す

備後一宮である
裏手の掲示板によれば、2002年に12世紀代の土器や青磁や白磁などの中国陶磁器が背後の山から見つかったという
鳥居の前を南北に街道がはしる
ちょうど現在のバス通りと平行してその西をはしる
また備後一宮の南に岡が続く
岩盤の露出した岡で、戦国時代の桜山城跡と亀寿山城跡推定されている
室町時代の境内図が残されており
前面の池を含めた門前の盛んな風景が再現されている
室町時代のこのあたりは、備後一宮を中心に街道を見下ろす形で城館がならぶ都市的な場と言って良いだろう
なにより新市である
この風景が鎌倉時代まで遡れば
一遍がここを訪れた時の世界が見えてくる
やはり一宮である

2008年12月 5日 (金)

備前一宮

 一遍は、九州での遊行を終えると京都へ向かう。その途中で寄ったのが藤井の館と備前福岡の市である。
 このうち備前福岡の市はどの教科書にも載っているほど有名で、現在の場所も特定されている。JR赤穂線の長船駅の北にあたる吉井川沿いの集落である。
 この備前福岡の市の場面が描かれた理由は、藤井の館で、ある出来事があったことによる。したがって藤井の館の出来事が無ければ備前福岡市も無いことになる。その意味では備前福岡の市より藤井の館の方が、ずっと重要だと言うことになる。
 しかしこの藤井の政所がどこにあったのかは判然としていない。その館の主が吉備津宮の神主の子息だということで、およそその近くとイメージされている。ただし周知のように吉備津彦神社も吉備津神社も岡山駅から北西の位置にあって、長船から遠く離れている。
 さらに一遍は、1276年に筑前、1277年に大隅の正八幡宮、1278年に豊後府内 大友能直孫の頼泰を経て、1278年の伊予の後、1278年に安芸厳島そして藤井の政所に着いているので、陸路より海路をとった可能性が高い。
 そこで海側で藤井の地名から推定されているのが、宿毛の西大寺一宮安仁神社である。その名の通りに式内社の備前国一宮である。現在は片田舎だが初詣は大いに賑わうと言う。
 場所は赤穂線西大寺から南東へ約8キロ。西大寺駅から南東へ吉井川を渡り、神崎山から東へ折れ、牛窓へ向かう途中をさらに南下した先に鎮座する。
 牛窓へ向かう県道を宿毛で南へ曲がると、左手に低い丘陵が見える。その先は水田の広がる平坦地で、またその先に丘陵がのびる。
 安仁神社は、このふたつの丘陵にはさまれた水田の東の奥に位置する。マクロ的に見れば、西へ向かってのびるふたつの丘陵に挟まれた平坦面の奥に鎮座しているということになる。
 こまかく言うと、ふたつの丘陵のうちで、南側の丘陵の支脈と思われる尾根の先端を利用して営まれているが、元々はその奥の山頂にあったという。
 そしてそこから西をみれば、その先に入り江の水面が見える。吉井川の河口に最も近い水門湾の入り江である。言い方を変えると、吉井川の河口港(神崎川の大物浜のような)を押さえていたのが、安仁神社だったということになる。
 したがって、一遍が海路を吉備へ向かったとき吉井川を遡る前に立ち寄るとした最もふさわしい場所と言えよう。
 西大寺へ戻る途中に観音院に寄る。創建は古代に遡り、さらに後鳥羽も関わっているという。千手観音を本尊とする観音霊場である。仁王門は西を向くが、本堂は吉井川を向く。明らかに吉井川の水上交通を意識した寺である。実際にその北の町並みは西大寺が港だった頃の面影を強く残しており、港の象徴とされる浜倉の榎の巨木が、その中に立つ。
 一遍の時代にもおおいに繁栄していたことが予想されるが、絵巻には登場しない。見えない過去は多い。

福山城

福山城
満員の福塩線へ

from 鋤柄俊夫

新大阪てんやわんや

新大阪てんやわんや


from 鋤柄俊夫

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