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2009年2月

2009年2月28日 (土)

夜でも尾張名古屋はビルでもつ

夜でも尾張名古屋はビルでもつ
メルサ前では
ストリートライブ

from 鋤柄俊夫

2009年2月24日 (火)

寒緋桜

090224_14180001 はるちかし とおのみかどの かんひざくら

2009年2月22日 (日)

小笠原と武田と下伊那

治承4年(1180)木曽義仲が善光寺平の栗田氏と共に筑摩から善光寺をおさえる。源頼朝は北条時政を甲斐に派遣、武田は甲斐源氏を率いて諏訪と伊那の武士団を頼朝の御家人に編成
義仲死後、北信は頼朝の乳母の一族にあたる比企能員(よしかず)(娘が頼家の妻)を信濃目代として統括
南信は、伊那谷最大の荘園である尊勝寺領伊賀良荘に北条時政が介入
文治元年(1185)甲斐源氏加々美遠光(小笠原氏の遠祖)を信濃守にする
文治3年(1187)佐久伴野荘地頭に小笠原長清、大井荘地頭に大井朝光・光長、塩田荘地頭に比企氏に関係する惟宗(これむね)忠久(島津家の祖)
建仁3年(1203)比企氏の乱(頼家と比企氏と北条氏の戦い)で小笠原長経は所領を没収され、信濃守護職が北条時政に代わる
承久の乱(1221)で小笠原長経は阿波守護職
弘安年間(1278~1288)北条氏一門の江馬光時が地頭代として名越光時に仕えた四条金吾頼基(1229~1296)を伊賀良荘殿岡に派遣
嘉暦4年(1329)には江馬遠江前司、江馬越前前司が見える
建武2年(1335)小笠原貞宗が信濃守護に任命される
康永元年(1342)小笠原貞宗は関東の南朝勢力攻撃に貢献
康永3年(1344)小笠原貞宗譲状に「伊賀良荘」の記載がある
貞和2年(1346)江間尼浄元が伊賀良中村を開善寺に寄進
文和元年(1352)足利尊氏は守護小笠原政長と子の長基に信濃国春近領を安堵。文和4年(1355)、貞治4年(1365)守護小笠原長基と南朝軍が戦う。一方、鎌倉公方の推薦で上杉氏も信濃守護に任命され、信濃国は二人守護制になる。
至徳元年(1384)管領斯波義将の弟の義種が信濃守護に就任して、小笠原長基が罷免される
嘉慶元年(1387)小笠原長基と幕府方の諏訪氏が伊那田切で戦う。斯波義将が信濃守護に就くが、足利義満によって小笠原長秀が勢力を回復。
応永6年(1399)関東対策のため、小笠原長秀を信濃守護職に任命。長秀は大内義弘の挙兵に対して、信濃に軍事動員令を発し「伊賀良」を出兵。8月に善光寺に入り国務を始める。
応永7年(1400)小笠原長秀(坂西(ばんざい)長国、飯田、下条、郷戸荘地侍、飯沼、松岡、知久など)と北信の国人とが対立(大塔合戦)
応永8年(1401)~応永32年(1425)幕府が信濃を直接支配
応永32年(1425)足利幕府の関東対策のために、小笠原政康を信濃守護に任命
永享10年(1438)小笠原政康は足利持氏追討に参加(永享の乱)して力を伸ばすが、嘉吉2年(1442)に死去
文安2~3年(1445~1446)政康の後継をめぐり松尾宗康と府中持長が対立し、守護職を松尾光康が相続。府中清宗と分裂。
「信濃守護と国人は並存して独自性を維持しながら将軍に直属しようとしていた。こうした形は、九州・西国・畿内近国ではみられない。安芸や北関東などでみられる」
文明5年(1473)足利義政は松尾家長と定基に鈴岡政秀と合力するように指示
文明11年(1479)鈴岡政秀と諏訪の連合軍が松尾小笠原家長・定基軍が対峙
文明12年(1480)鈴岡政秀と松尾家長が伊賀良で戦う
長享2年(1488)鈴岡政秀が府中の小笠原長朝の井川城を落とす。
明応2年(1493)松尾定基は鈴岡政秀を松尾城に、子の長貞を名古熊に招いて殺害(知久氏と連合で滅ぼす)
文亀元年(1501)尾張守護が遠江鎮圧のために松尾定基と子の貞朝に出兵を要請
永正3年(1506)北条早雲の要請に応えて松尾定基が三河に出兵
天文2年(1533)府中長棟(長宗)が伊那谷に侵入し知久頼元が戦う(松尾定基は甲斐へ?)
天文3年(1534)府中長時の弟の信定が鈴岡城主となっている
天文12年(1543)武田晴信(後の信玄)が伊那谷と佐久の両面侵攻作戦を開始
天文14年(1545)晴信が高遠城征服、伊那郡福与城征服
天文19年(1550)晴信が府中を攻撃し深志城を築く
天文21年(1552)晴信が安曇郡小岩嶽城の攻撃で府中長時・貞慶を追放。長時は上杉に2年間滞在していたが、弟の鈴岡信定の家臣(溝口長勝)に迎えられて松尾城または鈴岡城に
天文23年(1554)晴信が松男信貴(松尾定基の孫で長時との関係で信玄に降伏しその家臣となる)を先鋒にして伊賀良に侵攻、鈴岡信定は(府中長時と)下条から駿河・伊勢へ(後に桂川の戦いで討ち死)。宮崎・坂西・松岡・分家知久氏は「松尾の牛草坂の地」で協議し武田に属す。府中長時は京都の三好(阿波小笠原末裔)を頼ったが、義輝暗殺の政変を避け越後へ、謙信の病死後は会津へ。
元亀2年(1571)信玄が伊那郡大島城普請のために伊那谷諸郷から人夫を徴集。飯田城の郡代秋山信友が奉行。
元亀3年(1572)信玄が甲斐と信濃の2万を率いて伊那谷を南下した後、左折して天竜川を渡り、秋葉街道を南下して10月10日に遠江に侵攻。
天正元年(1573)信玄が上洛作戦の途中、伊那駒場で死去
天正18年(1590)松尾信嶺が武蔵に移封されて松尾城は廃城

2009年2月17日 (火)

毛賀沢川

9時過ぎに愛宕神社の脇を出る
遠州街道を通って中央道と交差する手前を右に入るとそこが育良神社
言わずとしれた東山道の駅にちなむ神社である
脇を細い道がはしり旧道の道標がみえる
すぐ北には北方の堀之内地名が残る
中世の匂いが感じられる

遠州街道に戻り暫く行った先を左に曲がり中央道をくぐったすぐが
小笠原氏にちなむ長清寺
石地蔵に迎えられながらしっとりとした落ち着いた境内に入る
中世の匂いがさらに強くなる

水引会館を横目に見ながら運動公園から殿岡をめざす
北へ向かいながら大きく坂を下ると新川の広い谷
地図を見ると三日市場の地名が躍る
おおと思いながらそこを上がると殿岡の台地
セブンイレブンを目印に、大井の流れる交差点を右に折れる
殿岡の堀之内は大井に沿った路が不自然な屈曲を見せる南に位置する
さらに東へ行けば毛賀沢の谷である
大井の用水は、その毛賀沢の谷に落ちる直前の傾斜変更線沿いにあって
毛賀沢との間の耕地を潤す
四条金吾が住んだとされる堀之内は
その大井を北の堀につかって、南は新川へ向かう緩やかな斜面の段差までの間にある
東には円通寺、西には神明社
そして西にはきっと現在の運動公園通りの前身の街道が通っていたに違いない
堀之内の西をめぐって南に出ると日蓮と四条金吾の像が建つ公園
地域の人々の関心の高さに驚きながら市場屋敷をかすめて公文所をめざす

堀之内が鎌倉から派遣された金吾の館ならば、公文所はおそらく在地の有力者が住んでいた屋敷だろう
現在公文農園という看板がたつ
歩くとわかるが
このあたりで一番の微高地である
地形図を見ると良い感じの方形区画が推測できる
敷地の中央に土塁の痕跡が残る
公文所から北へ折れた先が、大井に接して八幡社
できすぎかと思うかもしれないが
中世の匂いはここへきて極まった

毛賀沢を越えて松尾氏小笠原の領地に入る
昔から気になっていた森へバイパスから入ると
名古熊の八幡と松 寺
松尾の台地の北の端に位置する
バイパスをはさんで北には田中館跡の推定がある
おおきな八幡宮である
すぐ南に細い谷があり
そのままその谷は沢となって南原の北の沢につながる
ということは
松尾城から南原へつながるエリアの最大の用水の水源に
この八幡は位置する
国東の村で見てきた風景を思い出した
少し躊躇はあるが
この八幡が松尾城とその城館郡の鎮守としたい

南原へ向かう途中で
名古熊八幡の南の谷を隔てた同じ台地(南原の上の)の端で
八王社を見る
ここから南原と松尾社が一望できる
敵に押さえられたくない場所である
八王社から南へ行くとすぐに小さな沢にであう
ここが松尾城の北ノ沢の上流で
ここをおりるろ松尾城の古城に着く
松尾城は、地形的にみると
西からの攻めに弱いことになるが
田中館と名古熊八幡がその備えになる可能性はある

松尾城に入やいなや鈴岡城へ向かう
松尾城と鈴岡城の間には
とてつもない深さになった毛賀沢川が流れているが
下まで降りなくとも途中に橋が設けられており
その間を渡ることができる
とは言え
それなりの比高差を覚悟する必要がある
史料や地図で見ると
こんな近いところにあってと思うが
現地に立てば、毛賀沢川に面する岩盤の絶壁が
ふたつの城の近さと遠さを実感させてくれる
机上では近いけれど
まったく違う論理の空間である

鈴岡城は殿岡の台地の上にある
大井でつながる延長上である
城郭の空間は松尾より狭く
伊賀良を本拠とした小笠原が
最後に選んだのが松尾城ではなく鈴岡城だったのが
そのままではなぜかわからない
ここでは殿岡の地の利ではないかとしておく
天文23年に信玄はここを攻め
長時と信定はここから下条へ落ちた
おそらく信玄軍は殿岡から攻め立て
長時と信定はまさにこの段丘を駆け下りて下条へ向かったのではないだろうか

松尾城へもどる
松尾城は、島田村の西端の河岸段丘を利用してつくられた平山城
松尾館とも呼ばれる
本郭は東西約55m、南北約68mの平地に、空堀を隔てて2つの郭
二の郭は東西52m、南北80mで、「勝手」「蔵ヤシキ」
空堀を隔てて西に竜門寺屋敷郭
大手は片羽地区
片羽の東に元本城、北本城
康永3年(1344)の小笠原貞宗の文書に伊賀良が見え
これがその成立時期を示すとも言われる
南の原からは緑釉天目が出土して武家屋敷の存在が知られる
松尾城は城郭と武家屋敷と村落と市と街道と
すべて押さえた都市だった

段丘を降りて
鳩が峰八幡の真東に「松尾城」地名の場所がある
現在、清見寺が建ち
東は段差を経て落ち、北は緩やかなカーブで囲む地割りがある
その範囲は一辺100メートルほど
立派な領主館である
その北の道をまっすぐ西へ行った先が鳩が峰八幡であるため
ここも中世の拠点であったことは確実
問題は段丘上の松尾城とここの関係
ひとつには時期が違うこと
ただし仮に鳩が峰八幡宮が江馬氏に伴う鎌倉時代だったとしても
その後もずっと松尾の人々の信仰の中心だった
これはもう少し考えたい

はじめに殿岡があった
大井の取水堰がどこか確認するのを忘れていたが
地図を見れば、インターの東でアルペンの近くらしい
交差点の名称は育良町である
なんと
殿岡は館の岡だと思う
そして大井は鈴岡の岡を潤して川路に流れ込んだ
一方鳩が峰は松尾の岡の麓に鎮座する
松尾の岡と殿岡の間には毛賀沢という大きな谷がはしる
従って大井によって受ける恩恵と鳩が峰の間には
積極的な利害は無い
論理は全く別に見える
とすれば殿岡が鳩が峰を勧請する理由は乏しいことになる
鳩が峰の境内が狐塚古墳の峰を含んでおり
その脇を名古熊八幡から続く沢が流れる
名古熊八幡の沢が南原を潤すならば
鳩が峰も南原に限りなく関係近いことになる

先年、とあるきっかけから少年期を過ごした長野市の歴史と深く関わる機会を得た
今年、やはりとあるきっかけから幼年期を過ごした飯田市の歴史と深く関わる機会を得た
いずれも今の学びとこれほどまでつながっているとは思わなかった
感謝である
愛宕神社の脇に戻ってきてお礼を言う
まもなく名古屋

堀之内と松尾城GPS

20090216

2009年2月16日 (月)

松尾と信玄

周知のように伊那谷は、晴信が上洛をするために必要不可欠な場所だった
一方、晴信との戦いに敗れた小笠原長時は、上杉に二年間滞在していたが
弟信定の家臣、溝口長勝に迎えられて、信定の居城である鈴岡城に来た

鈴岡城は
明応2年(1493)松尾城家長の子の定基が守護の鈴岡城政秀を松尾城に誘い出して殺害したことで鈴岡小笠原は滅亡したが
天文3年(1534)に鈴岡城は小笠原長時の弟の信定が城主となっていた
そのため、鈴岡城は反武田勢力の一大拠点となり

天文23年(1554)自ら軍を率いて、政秀を討った定基の子の信貴が松尾を追われて甲斐にいたため、これを先鋒として鈴岡城を攻撃

長時と信定は防戦の後敗れて下条へ、晴信はそのまま知久氏も攻め
下伊那をおさえる
松尾は、鈴岡の政秀を滅ぼした後
深志の小笠原と下条に圧迫されて甲斐に行っていた松尾小笠原が
もとの松尾城に復帰し飯富の配下におかれて松尾百騎と呼ばれた

元亀2年(1571)晴信は松川町の大島城を修築
南信濃源氏片切氏の庶流の大島氏の居城だったが大幅に改築
飯田城の郡代秋山信友が奉行

元亀3年(1572)10月3日、信玄は甲斐と信濃の2万を率いて上洛をはじめる
伊那谷を南下した後、左折して天竜川を渡り、秋葉街道を南下して10月10日に遠江に侵攻
松尾は秋葉街道と遠州街道の交差点にある
この時も松尾は重要な地となった

2009年2月15日 (日)

小笠原

小笠原の祖は長清で甲斐に生まれる
父の加賀美遠光(とおみつ)は、滝口の武士として高倉天皇に仕える
(南部の祖の光行は長清の弟)
源頼義から4代の後裔で加賀美を名乗り、武田太郎信義は兄弟
壇ノ浦の戦いの後に頼朝によって信濃国守に
子の長清が甲斐小笠原にちなんで小笠原を名乗り、信濃伴野荘地頭に
あの一遍聖絵に描かれた伴野と大井の風景は
この小笠原氏に関わるもの
兄弟に南部氏の祖となった光行がいる

その後、比企能員と北条氏の権力争いの中で、比企氏に属した小笠原は乱で負け一旦衰退
信濃守護は北条氏が継ぎ、小笠原の子孫は阿波の守護になる
元弘の変(1331)がおこると、小笠原は宗長と貞宗父子が出陣
足利尊氏に属して功をあげ、貞宗(1294~1347)が北条に変わって信濃守護にもどる
また本拠を甲斐から信濃に移し、貞宗が「開善寺」を建てる
貞宗の子は政長(1319~1365)で信濃守護、京都の武者所に仕える
政長の子は長基(1347~1407)で信濃守護、南朝の諏訪氏と戦い、斯波氏とも戦う

南北朝期の信濃も混乱の中にあったが
応永6年(1399)に貞宗の曾孫にあたる長秀が信濃守護を命ぜられ
長秀は応永7年7月3日に京都を出て、小笠原に所縁の深い佐久の大井を経て
善光寺に入る

今から思えば、このルートは中央線から篠ノ井で信越線乗り換えて
また信越線で長野に戻るように見えるが
神坂峠から伊那谷を経由して松塩の盆地に入り、八ヶ岳の裾をぬけて佐久に向かう東山道をたどったことになるのだろう
長秀35才、バサラ大名の一人として、派手な装束を見るために
善光寺門前には群集が並んだという
しかしこの都会育ちの長秀には、信濃をまとめる力はなく
在地勢力によって川中島の大塔合戦で負けて京都へ戻る

信濃をまとめたのは長秀の弟の政康(1376~1442)で長基の子
「上杉禅秀の乱」の後に守護に補任されると
と「結城合戦」を経て永享12年(1440)に信濃を平定する
しかし彼の死後、後継をめぐって
(松尾)の宗康(~1446)と京都の持長の間で「嘉吉の内訌」がおき
惣領は一旦宗康に決まったものの
一族は松本府中の持長(京都)と伊那鈴岡の宗康に分裂対立
その対立が文安3年(1446)善光寺の漆田原(中御所)で激突
戦いでは宗康が負けるが
家督は弟の光康(松尾)(1415~1461)(伊奈六郎)に譲られていたため、対立はそのまま残る

寛正4年(1463)に信濃守護になったのは、京都から帰ってきた宗康嗣子の政秀(鈴岡城)
持長の子の清宗の府中城を攻撃
この時期の争いは
守護で鈴岡城の宗康-政秀と松尾城の光康-家長と惣領の府中長朝
光康の子の家長(~1480)は政秀と対立して討たれる
明応2年(1493)松尾城家長の子の定基が守護の鈴岡城政秀を松尾城に誘い出して殺害
鈴岡小笠原は滅亡
次いで松尾城定基と府中の長朝の争いになるが
松尾城定基が負けて信濃を逐電

戦国時代を代表するのが、府中長朝の曾孫の長時
天文14年(1541)から諏訪氏と連携して武田と対立
同年、信玄は高遠へ侵攻
天文19年、信玄は林城の長時を攻め、府中へ侵攻
度重なる武田との戦いの中で長時は謙信に依頼
川中島合戦の契機となる
長時は、その後京都の三好(阿波小笠原末裔)を頼ったが
義輝暗殺の政変を避け越後へ
謙信の病死後は会津へ

その長時と対立したのが松尾城主の信貴で定基の孫
長時との関係で信玄に降伏し、その家臣となる
信貴の子が信嶺(1547~1598)、松尾城主
初めは信玄の家臣だったが後に織田信長に従い、天正10年の勝頼軍との戦いで高遠を攻める

長時の子の貞慶(さだよし)は徳川に属し、武田氏の後に信濃に戻る
江戸時代以降は小倉に封ぜられる
越前藩主の小笠原は伊那の系統

伊賀良

3月1日に長野県飯田市で中世館の講演をするための準備で
諸々の校務が一段落した一瞬の隙をついて再び信濃へ向かっている
先月帰ってから色々考えていく中で
やはり松尾城と小笠原氏がポイントになると確信し
それならば、その周辺をしっかり見ないと話しにならないと思ったからである

古代、畿内から東国奥州へへ向かう道は東山道と呼ばれた
その最大の難所が岐阜県と長野県境にある神坂峠である
あの日本武尊もここを越えたという
現在、中央自動車道の恵那山トンネルがほぼその下をくぐる
中央自動車道のルートを決めたのが誰かは知らないが
歴史の避けられない縁をいつも感じてしまう

その神坂峠をなんとか越えて信濃に入った最初の駅が阿智である
中央自動車道には阿智インターがあって、降りると昼神温泉に向かう
その次の駅は育良(いくら)である
中央自動車道では飯田インターがあって、インターを出てすぐ北西の国道沿いに育良神社がある
現在の地名で言えば伊賀良である
ここまで東山道を中央道は意識していたとは思わなかった

さて、吾妻鏡の文治2年(1186)によれば
乃貢未済の荘園として「伊賀良」「郡戸(ごうど)」「伴野」「江儀遠山」「大河原鹿塩」の名があがっており
伊賀良荘地頭が北条時政から北条一門の江馬氏に受け継がれたことが知られている
中世の飯田は当然古代の飯田の延長上にある
したがって、最初の拠点のひとつが伊賀良であることはいたって自然なことと言える
それにしても鎌倉中枢とこれほどまでに近い存在だったとは
それも東山道の玄関口だったからだろうか

ちなみにこの伊賀良荘は
先の吾妻鏡によれば、白河の尊勝寺領であり、その直後には後白河の院宣で八条院領になっていることがわかる
一遍が訪れた佐久の伴野や大井もそうだが
信濃には、鎌倉以前から平安末期の政治の中枢が握っていた荘園が多い
平安時代の荘域は、北が松川、南が阿知川で
鼎、松尾、竜岡、川路、三穂、伊賀良、山本と阿智の一部を含む広大な範囲で
室町時代はさらに南の阿南までのびたという

なお、郡戸荘は恒川遺跡で知られる郡衙推定地にちなみ、現在の飯田中心部から座光寺にあたり、鎌倉時代の地頭は阿曾沼氏で、室町時代中期から坂西氏に代わり、現在の愛宕神社に飯坂城を築いて本拠とした
伴野荘は松尾から天竜川を渡った対岸で、知久氏が知久平城を築いた

伊賀良の平安時代の荘官は不明だが
吾妻鏡の文治4年によれば、最初は北条時政が地頭と推定され
弘安年間(1278~1288)には江馬光時が地頭代として四条金吾頼基を派遣し、四条頼基は殿岡に住んでいた→冨田荘との対比
嘉暦4年(1329)には江馬遠江前司、江馬越前前司が見え
貞和2年(1346)には江間尼浄元が伊賀良中村を開善寺に寄進している

江馬氏は、清盛の弟の子の輝経が伊豆の北条時政に養育されて名乗ったのを始まりと伝えるが、江間太郎は北条泰時の通称で、江馬小四郎は北条義時の通称
江馬光時が名越光時だとすれば、父は北条義時の次男の名越朝時のため北条一族となる
なお岐阜県神岡町には室町時代江馬氏の館があり、小島道裕氏によって室町殿との類似が指摘されている

四条頼基(1229~1296)は名越光時に仕えた武士。日蓮に帰依し、鎌倉における教団の中心的な存在となった。

そして北条氏が滅亡した後に、康永3年(1344)までにこの地の地頭になったのが小笠原氏だった

2009年2月14日 (土)

尾張名古屋はビルでもつ

尾張名古屋はビルでもつ
小笠原再び

from 鋤柄俊夫

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