« 毛賀沢川 | トップページ | 寒緋桜 »

2009年2月22日 (日)

小笠原と武田と下伊那

治承4年(1180)木曽義仲が善光寺平の栗田氏と共に筑摩から善光寺をおさえる。源頼朝は北条時政を甲斐に派遣、武田は甲斐源氏を率いて諏訪と伊那の武士団を頼朝の御家人に編成
義仲死後、北信は頼朝の乳母の一族にあたる比企能員(よしかず)(娘が頼家の妻)を信濃目代として統括
南信は、伊那谷最大の荘園である尊勝寺領伊賀良荘に北条時政が介入
文治元年(1185)甲斐源氏加々美遠光(小笠原氏の遠祖)を信濃守にする
文治3年(1187)佐久伴野荘地頭に小笠原長清、大井荘地頭に大井朝光・光長、塩田荘地頭に比企氏に関係する惟宗(これむね)忠久(島津家の祖)
建仁3年(1203)比企氏の乱(頼家と比企氏と北条氏の戦い)で小笠原長経は所領を没収され、信濃守護職が北条時政に代わる
承久の乱(1221)で小笠原長経は阿波守護職
弘安年間(1278~1288)北条氏一門の江馬光時が地頭代として名越光時に仕えた四条金吾頼基(1229~1296)を伊賀良荘殿岡に派遣
嘉暦4年(1329)には江馬遠江前司、江馬越前前司が見える
建武2年(1335)小笠原貞宗が信濃守護に任命される
康永元年(1342)小笠原貞宗は関東の南朝勢力攻撃に貢献
康永3年(1344)小笠原貞宗譲状に「伊賀良荘」の記載がある
貞和2年(1346)江間尼浄元が伊賀良中村を開善寺に寄進
文和元年(1352)足利尊氏は守護小笠原政長と子の長基に信濃国春近領を安堵。文和4年(1355)、貞治4年(1365)守護小笠原長基と南朝軍が戦う。一方、鎌倉公方の推薦で上杉氏も信濃守護に任命され、信濃国は二人守護制になる。
至徳元年(1384)管領斯波義将の弟の義種が信濃守護に就任して、小笠原長基が罷免される
嘉慶元年(1387)小笠原長基と幕府方の諏訪氏が伊那田切で戦う。斯波義将が信濃守護に就くが、足利義満によって小笠原長秀が勢力を回復。
応永6年(1399)関東対策のため、小笠原長秀を信濃守護職に任命。長秀は大内義弘の挙兵に対して、信濃に軍事動員令を発し「伊賀良」を出兵。8月に善光寺に入り国務を始める。
応永7年(1400)小笠原長秀(坂西(ばんざい)長国、飯田、下条、郷戸荘地侍、飯沼、松岡、知久など)と北信の国人とが対立(大塔合戦)
応永8年(1401)~応永32年(1425)幕府が信濃を直接支配
応永32年(1425)足利幕府の関東対策のために、小笠原政康を信濃守護に任命
永享10年(1438)小笠原政康は足利持氏追討に参加(永享の乱)して力を伸ばすが、嘉吉2年(1442)に死去
文安2~3年(1445~1446)政康の後継をめぐり松尾宗康と府中持長が対立し、守護職を松尾光康が相続。府中清宗と分裂。
「信濃守護と国人は並存して独自性を維持しながら将軍に直属しようとしていた。こうした形は、九州・西国・畿内近国ではみられない。安芸や北関東などでみられる」
文明5年(1473)足利義政は松尾家長と定基に鈴岡政秀と合力するように指示
文明11年(1479)鈴岡政秀と諏訪の連合軍が松尾小笠原家長・定基軍が対峙
文明12年(1480)鈴岡政秀と松尾家長が伊賀良で戦う
長享2年(1488)鈴岡政秀が府中の小笠原長朝の井川城を落とす。
明応2年(1493)松尾定基は鈴岡政秀を松尾城に、子の長貞を名古熊に招いて殺害(知久氏と連合で滅ぼす)
文亀元年(1501)尾張守護が遠江鎮圧のために松尾定基と子の貞朝に出兵を要請
永正3年(1506)北条早雲の要請に応えて松尾定基が三河に出兵
天文2年(1533)府中長棟(長宗)が伊那谷に侵入し知久頼元が戦う(松尾定基は甲斐へ?)
天文3年(1534)府中長時の弟の信定が鈴岡城主となっている
天文12年(1543)武田晴信(後の信玄)が伊那谷と佐久の両面侵攻作戦を開始
天文14年(1545)晴信が高遠城征服、伊那郡福与城征服
天文19年(1550)晴信が府中を攻撃し深志城を築く
天文21年(1552)晴信が安曇郡小岩嶽城の攻撃で府中長時・貞慶を追放。長時は上杉に2年間滞在していたが、弟の鈴岡信定の家臣(溝口長勝)に迎えられて松尾城または鈴岡城に
天文23年(1554)晴信が松男信貴(松尾定基の孫で長時との関係で信玄に降伏しその家臣となる)を先鋒にして伊賀良に侵攻、鈴岡信定は(府中長時と)下条から駿河・伊勢へ(後に桂川の戦いで討ち死)。宮崎・坂西・松岡・分家知久氏は「松尾の牛草坂の地」で協議し武田に属す。府中長時は京都の三好(阿波小笠原末裔)を頼ったが、義輝暗殺の政変を避け越後へ、謙信の病死後は会津へ。
元亀2年(1571)信玄が伊那郡大島城普請のために伊那谷諸郷から人夫を徴集。飯田城の郡代秋山信友が奉行。
元亀3年(1572)信玄が甲斐と信濃の2万を率いて伊那谷を南下した後、左折して天竜川を渡り、秋葉街道を南下して10月10日に遠江に侵攻。
天正元年(1573)信玄が上洛作戦の途中、伊那駒場で死去
天正18年(1590)松尾信嶺が武蔵に移封されて松尾城は廃城

« 毛賀沢川 | トップページ | 寒緋桜 »

遺跡の見方」カテゴリの記事