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2009年2月16日 (月)

松尾と信玄

周知のように伊那谷は、晴信が上洛をするために必要不可欠な場所だった
一方、晴信との戦いに敗れた小笠原長時は、上杉に二年間滞在していたが
弟信定の家臣、溝口長勝に迎えられて、信定の居城である鈴岡城に来た

鈴岡城は
明応2年(1493)松尾城家長の子の定基が守護の鈴岡城政秀を松尾城に誘い出して殺害したことで鈴岡小笠原は滅亡したが
天文3年(1534)に鈴岡城は小笠原長時の弟の信定が城主となっていた
そのため、鈴岡城は反武田勢力の一大拠点となり

天文23年(1554)自ら軍を率いて、政秀を討った定基の子の信貴が松尾を追われて甲斐にいたため、これを先鋒として鈴岡城を攻撃

長時と信定は防戦の後敗れて下条へ、晴信はそのまま知久氏も攻め
下伊那をおさえる
松尾は、鈴岡の政秀を滅ぼした後
深志の小笠原と下条に圧迫されて甲斐に行っていた松尾小笠原が
もとの松尾城に復帰し飯富の配下におかれて松尾百騎と呼ばれた

元亀2年(1571)晴信は松川町の大島城を修築
南信濃源氏片切氏の庶流の大島氏の居城だったが大幅に改築
飯田城の郡代秋山信友が奉行

元亀3年(1572)10月3日、信玄は甲斐と信濃の2万を率いて上洛をはじめる
伊那谷を南下した後、左折して天竜川を渡り、秋葉街道を南下して10月10日に遠江に侵攻
松尾は秋葉街道と遠州街道の交差点にある
この時も松尾は重要な地となった

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