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2009年2月15日 (日)

小笠原

小笠原の祖は長清で甲斐に生まれる
父の加賀美遠光(とおみつ)は、滝口の武士として高倉天皇に仕える
(南部の祖の光行は長清の弟)
源頼義から4代の後裔で加賀美を名乗り、武田太郎信義は兄弟
壇ノ浦の戦いの後に頼朝によって信濃国守に
子の長清が甲斐小笠原にちなんで小笠原を名乗り、信濃伴野荘地頭に
あの一遍聖絵に描かれた伴野と大井の風景は
この小笠原氏に関わるもの
兄弟に南部氏の祖となった光行がいる

その後、比企能員と北条氏の権力争いの中で、比企氏に属した小笠原は乱で負け一旦衰退
信濃守護は北条氏が継ぎ、小笠原の子孫は阿波の守護になる
元弘の変(1331)がおこると、小笠原は宗長と貞宗父子が出陣
足利尊氏に属して功をあげ、貞宗(1294~1347)が北条に変わって信濃守護にもどる
また本拠を甲斐から信濃に移し、貞宗が「開善寺」を建てる
貞宗の子は政長(1319~1365)で信濃守護、京都の武者所に仕える
政長の子は長基(1347~1407)で信濃守護、南朝の諏訪氏と戦い、斯波氏とも戦う

南北朝期の信濃も混乱の中にあったが
応永6年(1399)に貞宗の曾孫にあたる長秀が信濃守護を命ぜられ
長秀は応永7年7月3日に京都を出て、小笠原に所縁の深い佐久の大井を経て
善光寺に入る

今から思えば、このルートは中央線から篠ノ井で信越線乗り換えて
また信越線で長野に戻るように見えるが
神坂峠から伊那谷を経由して松塩の盆地に入り、八ヶ岳の裾をぬけて佐久に向かう東山道をたどったことになるのだろう
長秀35才、バサラ大名の一人として、派手な装束を見るために
善光寺門前には群集が並んだという
しかしこの都会育ちの長秀には、信濃をまとめる力はなく
在地勢力によって川中島の大塔合戦で負けて京都へ戻る

信濃をまとめたのは長秀の弟の政康(1376~1442)で長基の子
「上杉禅秀の乱」の後に守護に補任されると
と「結城合戦」を経て永享12年(1440)に信濃を平定する
しかし彼の死後、後継をめぐって
(松尾)の宗康(~1446)と京都の持長の間で「嘉吉の内訌」がおき
惣領は一旦宗康に決まったものの
一族は松本府中の持長(京都)と伊那鈴岡の宗康に分裂対立
その対立が文安3年(1446)善光寺の漆田原(中御所)で激突
戦いでは宗康が負けるが
家督は弟の光康(松尾)(1415~1461)(伊奈六郎)に譲られていたため、対立はそのまま残る

寛正4年(1463)に信濃守護になったのは、京都から帰ってきた宗康嗣子の政秀(鈴岡城)
持長の子の清宗の府中城を攻撃
この時期の争いは
守護で鈴岡城の宗康-政秀と松尾城の光康-家長と惣領の府中長朝
光康の子の家長(~1480)は政秀と対立して討たれる
明応2年(1493)松尾城家長の子の定基が守護の鈴岡城政秀を松尾城に誘い出して殺害
鈴岡小笠原は滅亡
次いで松尾城定基と府中の長朝の争いになるが
松尾城定基が負けて信濃を逐電

戦国時代を代表するのが、府中長朝の曾孫の長時
天文14年(1541)から諏訪氏と連携して武田と対立
同年、信玄は高遠へ侵攻
天文19年、信玄は林城の長時を攻め、府中へ侵攻
度重なる武田との戦いの中で長時は謙信に依頼
川中島合戦の契機となる
長時は、その後京都の三好(阿波小笠原末裔)を頼ったが
義輝暗殺の政変を避け越後へ
謙信の病死後は会津へ

その長時と対立したのが松尾城主の信貴で定基の孫
長時との関係で信玄に降伏し、その家臣となる
信貴の子が信嶺(1547~1598)、松尾城主
初めは信玄の家臣だったが後に織田信長に従い、天正10年の勝頼軍との戦いで高遠を攻める

長時の子の貞慶(さだよし)は徳川に属し、武田氏の後に信濃に戻る
江戸時代以降は小倉に封ぜられる
越前藩主の小笠原は伊那の系統

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