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2009年2月15日 (日)

伊賀良

3月1日に長野県飯田市で中世館の講演をするための準備で
諸々の校務が一段落した一瞬の隙をついて再び信濃へ向かっている
先月帰ってから色々考えていく中で
やはり松尾城と小笠原氏がポイントになると確信し
それならば、その周辺をしっかり見ないと話しにならないと思ったからである

古代、畿内から東国奥州へへ向かう道は東山道と呼ばれた
その最大の難所が岐阜県と長野県境にある神坂峠である
あの日本武尊もここを越えたという
現在、中央自動車道の恵那山トンネルがほぼその下をくぐる
中央自動車道のルートを決めたのが誰かは知らないが
歴史の避けられない縁をいつも感じてしまう

その神坂峠をなんとか越えて信濃に入った最初の駅が阿智である
中央自動車道には阿智インターがあって、降りると昼神温泉に向かう
その次の駅は育良(いくら)である
中央自動車道では飯田インターがあって、インターを出てすぐ北西の国道沿いに育良神社がある
現在の地名で言えば伊賀良である
ここまで東山道を中央道は意識していたとは思わなかった

さて、吾妻鏡の文治2年(1186)によれば
乃貢未済の荘園として「伊賀良」「郡戸(ごうど)」「伴野」「江儀遠山」「大河原鹿塩」の名があがっており
伊賀良荘地頭が北条時政から北条一門の江馬氏に受け継がれたことが知られている
中世の飯田は当然古代の飯田の延長上にある
したがって、最初の拠点のひとつが伊賀良であることはいたって自然なことと言える
それにしても鎌倉中枢とこれほどまでに近い存在だったとは
それも東山道の玄関口だったからだろうか

ちなみにこの伊賀良荘は
先の吾妻鏡によれば、白河の尊勝寺領であり、その直後には後白河の院宣で八条院領になっていることがわかる
一遍が訪れた佐久の伴野や大井もそうだが
信濃には、鎌倉以前から平安末期の政治の中枢が握っていた荘園が多い
平安時代の荘域は、北が松川、南が阿知川で
鼎、松尾、竜岡、川路、三穂、伊賀良、山本と阿智の一部を含む広大な範囲で
室町時代はさらに南の阿南までのびたという

なお、郡戸荘は恒川遺跡で知られる郡衙推定地にちなみ、現在の飯田中心部から座光寺にあたり、鎌倉時代の地頭は阿曾沼氏で、室町時代中期から坂西氏に代わり、現在の愛宕神社に飯坂城を築いて本拠とした
伴野荘は松尾から天竜川を渡った対岸で、知久氏が知久平城を築いた

伊賀良の平安時代の荘官は不明だが
吾妻鏡の文治4年によれば、最初は北条時政が地頭と推定され
弘安年間(1278~1288)には江馬光時が地頭代として四条金吾頼基を派遣し、四条頼基は殿岡に住んでいた→冨田荘との対比
嘉暦4年(1329)には江馬遠江前司、江馬越前前司が見え
貞和2年(1346)には江間尼浄元が伊賀良中村を開善寺に寄進している

江馬氏は、清盛の弟の子の輝経が伊豆の北条時政に養育されて名乗ったのを始まりと伝えるが、江間太郎は北条泰時の通称で、江馬小四郎は北条義時の通称
江馬光時が名越光時だとすれば、父は北条義時の次男の名越朝時のため北条一族となる
なお岐阜県神岡町には室町時代江馬氏の館があり、小島道裕氏によって室町殿との類似が指摘されている

四条頼基(1229~1296)は名越光時に仕えた武士。日蓮に帰依し、鎌倉における教団の中心的な存在となった。

そして北条氏が滅亡した後に、康永3年(1344)までにこの地の地頭になったのが小笠原氏だった

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