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2009年2月17日 (火)

毛賀沢川

9時過ぎに愛宕神社の脇を出る
遠州街道を通って中央道と交差する手前を右に入るとそこが育良神社
言わずとしれた東山道の駅にちなむ神社である
脇を細い道がはしり旧道の道標がみえる
すぐ北には北方の堀之内地名が残る
中世の匂いが感じられる

遠州街道に戻り暫く行った先を左に曲がり中央道をくぐったすぐが
小笠原氏にちなむ長清寺
石地蔵に迎えられながらしっとりとした落ち着いた境内に入る
中世の匂いがさらに強くなる

水引会館を横目に見ながら運動公園から殿岡をめざす
北へ向かいながら大きく坂を下ると新川の広い谷
地図を見ると三日市場の地名が躍る
おおと思いながらそこを上がると殿岡の台地
セブンイレブンを目印に、大井の流れる交差点を右に折れる
殿岡の堀之内は大井に沿った路が不自然な屈曲を見せる南に位置する
さらに東へ行けば毛賀沢の谷である
大井の用水は、その毛賀沢の谷に落ちる直前の傾斜変更線沿いにあって
毛賀沢との間の耕地を潤す
四条金吾が住んだとされる堀之内は
その大井を北の堀につかって、南は新川へ向かう緩やかな斜面の段差までの間にある
東には円通寺、西には神明社
そして西にはきっと現在の運動公園通りの前身の街道が通っていたに違いない
堀之内の西をめぐって南に出ると日蓮と四条金吾の像が建つ公園
地域の人々の関心の高さに驚きながら市場屋敷をかすめて公文所をめざす

堀之内が鎌倉から派遣された金吾の館ならば、公文所はおそらく在地の有力者が住んでいた屋敷だろう
現在公文農園という看板がたつ
歩くとわかるが
このあたりで一番の微高地である
地形図を見ると良い感じの方形区画が推測できる
敷地の中央に土塁の痕跡が残る
公文所から北へ折れた先が、大井に接して八幡社
できすぎかと思うかもしれないが
中世の匂いはここへきて極まった

毛賀沢を越えて松尾氏小笠原の領地に入る
昔から気になっていた森へバイパスから入ると
名古熊の八幡と松 寺
松尾の台地の北の端に位置する
バイパスをはさんで北には田中館跡の推定がある
おおきな八幡宮である
すぐ南に細い谷があり
そのままその谷は沢となって南原の北の沢につながる
ということは
松尾城から南原へつながるエリアの最大の用水の水源に
この八幡は位置する
国東の村で見てきた風景を思い出した
少し躊躇はあるが
この八幡が松尾城とその城館郡の鎮守としたい

南原へ向かう途中で
名古熊八幡の南の谷を隔てた同じ台地(南原の上の)の端で
八王社を見る
ここから南原と松尾社が一望できる
敵に押さえられたくない場所である
八王社から南へ行くとすぐに小さな沢にであう
ここが松尾城の北ノ沢の上流で
ここをおりるろ松尾城の古城に着く
松尾城は、地形的にみると
西からの攻めに弱いことになるが
田中館と名古熊八幡がその備えになる可能性はある

松尾城に入やいなや鈴岡城へ向かう
松尾城と鈴岡城の間には
とてつもない深さになった毛賀沢川が流れているが
下まで降りなくとも途中に橋が設けられており
その間を渡ることができる
とは言え
それなりの比高差を覚悟する必要がある
史料や地図で見ると
こんな近いところにあってと思うが
現地に立てば、毛賀沢川に面する岩盤の絶壁が
ふたつの城の近さと遠さを実感させてくれる
机上では近いけれど
まったく違う論理の空間である

鈴岡城は殿岡の台地の上にある
大井でつながる延長上である
城郭の空間は松尾より狭く
伊賀良を本拠とした小笠原が
最後に選んだのが松尾城ではなく鈴岡城だったのが
そのままではなぜかわからない
ここでは殿岡の地の利ではないかとしておく
天文23年に信玄はここを攻め
長時と信定はここから下条へ落ちた
おそらく信玄軍は殿岡から攻め立て
長時と信定はまさにこの段丘を駆け下りて下条へ向かったのではないだろうか

松尾城へもどる
松尾城は、島田村の西端の河岸段丘を利用してつくられた平山城
松尾館とも呼ばれる
本郭は東西約55m、南北約68mの平地に、空堀を隔てて2つの郭
二の郭は東西52m、南北80mで、「勝手」「蔵ヤシキ」
空堀を隔てて西に竜門寺屋敷郭
大手は片羽地区
片羽の東に元本城、北本城
康永3年(1344)の小笠原貞宗の文書に伊賀良が見え
これがその成立時期を示すとも言われる
南の原からは緑釉天目が出土して武家屋敷の存在が知られる
松尾城は城郭と武家屋敷と村落と市と街道と
すべて押さえた都市だった

段丘を降りて
鳩が峰八幡の真東に「松尾城」地名の場所がある
現在、清見寺が建ち
東は段差を経て落ち、北は緩やかなカーブで囲む地割りがある
その範囲は一辺100メートルほど
立派な領主館である
その北の道をまっすぐ西へ行った先が鳩が峰八幡であるため
ここも中世の拠点であったことは確実
問題は段丘上の松尾城とここの関係
ひとつには時期が違うこと
ただし仮に鳩が峰八幡宮が江馬氏に伴う鎌倉時代だったとしても
その後もずっと松尾の人々の信仰の中心だった
これはもう少し考えたい

はじめに殿岡があった
大井の取水堰がどこか確認するのを忘れていたが
地図を見れば、インターの東でアルペンの近くらしい
交差点の名称は育良町である
なんと
殿岡は館の岡だと思う
そして大井は鈴岡の岡を潤して川路に流れ込んだ
一方鳩が峰は松尾の岡の麓に鎮座する
松尾の岡と殿岡の間には毛賀沢という大きな谷がはしる
従って大井によって受ける恩恵と鳩が峰の間には
積極的な利害は無い
論理は全く別に見える
とすれば殿岡が鳩が峰を勧請する理由は乏しいことになる
鳩が峰の境内が狐塚古墳の峰を含んでおり
その脇を名古熊八幡から続く沢が流れる
名古熊八幡の沢が南原を潤すならば
鳩が峰も南原に限りなく関係近いことになる

先年、とあるきっかけから少年期を過ごした長野市の歴史と深く関わる機会を得た
今年、やはりとあるきっかけから幼年期を過ごした飯田市の歴史と深く関わる機会を得た
いずれも今の学びとこれほどまでつながっているとは思わなかった
感謝である
愛宕神社の脇に戻ってきてお礼を言う
まもなく名古屋

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