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2009年7月31日 (金)

「武城」と呼ばれた町(東京都府中市)

 中世都市府中は六所宮を中心に展開する。
 京王電車の府中駅を南に出て、南北に続くけやき並木の通りを南に進むと、すぐに大國魂神社(武蔵国の総社である六所宮)の大鳥居が見えてくる。平安時代を起源とするこの宮は、武蔵国衙の推定地にあって、けやき並木の通りは、源頼義に関わる伝説を持つ。そして鎌倉時代には北条政子の安産を祈願した寺社の一つとして『吾妻鏡』に登場する。いずれもこの宮とこの場所が、古代以来、武蔵の重要地点だったことを示す。
 地形と交通もそれを如実に物語る。府中の中心部は、北の国分寺から続く立川段丘上にあるが、そのすぐ南は多摩川で、六所宮は多摩川とその北の沖積低地を見下ろす立川段丘崖際に鎮座している。一方交通路を見れば、東西・南北それぞれ三本の道が六所宮と府中の街を交差している。南北の道は、西から鎌倉街道上道、府中街道およびけやき並木の通りで、東西の道は北から甲州街道、旧甲州街道および段丘崖下を鎌倉街道から分かれて国府八幡へ向かう道である。このうちけやき並木の道は六所宮の鳥居から出発し、府中街道は境内の西側を走り、旧甲州街道は鳥居の前を通過し、崖下の東西路は境内の中を横切っている。多摩川を意識した立地と街道の集まる場所が六所宮だと言える。
 このような中世都市府中の特徴が、一四〇〇カ所を越える発掘調査から明らかにされてきた。府中市郷土の森博物館の深澤靖幸氏によれば、古代・中世を通じて六所宮の重要性は変わらないが、古代末から中世前半の遺跡の中心は多摩川の旧流路に近い段丘下の沖積低地にあったと言う。大量の中国陶磁器やかわらけが見つかり、大型の区画溝や石敷き遺構が発見されている。これらの陶磁器は多くの人々の生活と盛んな物流の様子を示し、石敷き遺構は倉の基礎の可能性がある。六所宮を見上げる場所で、川湊に接して館が設けられ、その一帯が宿や市の役割も果たしていたと思われる。
 これに対して室町時代の風景は大きく異なる。遺跡の中心は段丘上に移り、なかでも府中街道沿いの本町には、埋められた銭甕や、倉とも推定されている地下式横穴が密集する。そしてその西には、細い谷と土塁を伴った薬研堀で方形に囲まれた高安寺が位置する。高安寺は足利尊氏の再建伝承を持つ禅宗寺院で、南北朝期から室町時代には、たびたび鎌倉公方の陣所として用いられた。したがってこの時期の府中は、多摩川を見下ろす段丘縁辺に沿って宗教の核である六所宮と政治の核である高安寺が東西に並び、その間におそらく宿も兼ねた商業ゾーンがあった姿として復原できることになる。
 さらにこの時期の府中を象徴するのはそれだけではない。高安寺の北や甲州街道沿い、けやき並木の西側などで、大規模な薬研堀が見つかっていることである。なかでもけやき並木西の薬研堀は八〇〇メートルにもおよぶ。これほどの大規模な薬研堀の区画は、これまで見つかっていない。深澤氏は、南北朝期の義堂周信の日記『空華日用工夫略集(くうげにちようくふうりゃくしゅう)』で「府中」が「武城」と呼ばれていることに注目する。薬研堀の詳細な時期については今後も検討が必要とされるが、想像をたくましくすれば、その風景は、緊張状態の高まった室町時代の京都が、「構」と呼ばれる多くの溝で区画された都市だった姿とも重なる。いずれにしても、全国の「府中」と呼ばれた地域拠点の姿を検討するための大きな手がかりであることは間違いない。

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