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2009年7月 6日 (月)

石井先生の水守の営所をめざす

石井先生の中世武士団によれば
将門にとって軍事拠点のひとつであった「水守の営所」は『将門記』の中に現れる
平国香(~935)亡き後の族長だった平良兼は
根拠地の下総から「流海」を渡って常陸に上陸し
「水守の営所」で弟の良正と甥の貞盛らと、将門を討つ策をねったという
石井先生は、この水守の営所を
おそらく国香がもっていた営所のひとつと推定している
河内源氏三代(頼信(968~1048)・頼義・義家)の本拠である壷井を見るときに、どうしても確認しておかなければならない場所のひとつといえる

まったく地理観の無い所故、インターネットで地図を何度も見てバス路線を調べ
結局バス乗り場の案内所で行き方を聞いたら
ちょうどそのバスがつくばセンターの3番バス乗り場から出るところだった
つくばテクノパーク大穂行きのバスで北へ向かう
途中、とてつもなく広いつくば大学を通過し
高エネルギー加速器研究機構の先で西へ曲がる
次の停留所は上沢、降りるバス停はその次の水守入口
ところがバスのアナウンスは全く別の名前を告げる
驚いて降車ボタンを押して運転席後の路線図を見るがわからない
親切な運転手さんがバス停の名前が変わったことを教えてくれ
小雨の中バスを降りる
すぐに道路の反対側に渡って帰りの時刻を見ようとしたら見あたらない
どうしようかと思ったがどうしようもないので
なんとかなるだろうと思いつつ北へ歩き始める

一面にひろがる常総台地
天気が良ければ前方に筑波山が見えただろうが
見渡す限り平坦な常総の畑地である
最近登り坂は苦手になったが、平坦なところはどこまででも歩いてゆける
遠くに見えていた水守の集落が近づいてくる
後で聞くと、つくばは芝の産地とのこと
霧雨にぬれた芝の緑が目に優しい
水守の集落は芝の畠に囲まれた古い大きな屋敷群
消防施設の前で地図を確認して集落の中に入る
小道を何度か折れ曲がりながらその先のこんもりとした林をめざす
鬱蒼とした茂みのなかに堀があるかと思ったら
その先に小学校が見えた
水守宿館跡である

石井先生の説明に従えば
現在の水守城跡は、中世後期の改変を経たものと判断されるが
自然的な地形にあまり大きな手を加えず、比較的単純なプランのもとに構築されている点で、かなり古い形式をのこしていると思われ、将門反乱の時の「水守の営所」と判断されている
現在、その中央に市立田水山小学校が建ち、グラウンドの北と南に円墳が残されている
石井先生の本の写真にある水守の石碑は、グラウンド北の古墳の裾に東を向いて建てられている
平面形は、直径がほぼ300メートルの円形近い形で
南の水守の集落との間にみえた鬱蒼とした窪地が空堀だった
ちなみにバス停から北へ続く道は、この館の西縁から北の縁をまわって
北にひろがる水田地帯につながっている

小学校ということで
まったく突然の訪問ではあるが
親切な教頭先生と校長先生に許可をいただき
城跡とその西に鎮座する香取神社をめぐる
教頭先生は奇遇もあって思わず話しがはずむ

正面に筑波山をいただき
東に桜川が流れる
館から見下ろす北の平野部は予想以上の比高差がある
壷井の館もかくありなんと思えるほど
会津坂下町の陣が峯城を思い出す
南の常総台地から続く風景は伊那の松尾城とも重なる
水源が豊富だったため
水利の源流をおさえる必要のない立地だったのだろうか
あるいは南をおさえる立地だったのだろうか
交通路はどこにあったのだろうかと思いながら
西にならぶ丘陵先端(ここにも前方後円墳)に鎮座する香取神社に壷井八幡を重ねる

河内源氏の本拠には
館と氏寺の通法寺と氏神の壺井八幡があり
石川の支流を見下ろす丘陵上に立地していた
国香が本拠とした「宅」は、この水守の北の石田だが
日本武尊の伝承を持つ湧き水に由来するこの地も
中世武士団の拠点として見るべきところが多く
まさに後ろ髪をひかれる思いで帰途につく
最先端の研究施設に隣接した場所に中世の世界が眠っている

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