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2010年2月

2010年2月27日 (土)

熊本市二本木遺跡群

インターネットのニュースで熊本市の二本木遺跡群で
鎌倉時代の墓が見つかり、高麗青磁の碗が出土したことと
27日に現地説明会が行われるとの報道があった

この数年、中世前期都市をおいかけていて
2年前には、一遍に導かれながら、鹿児島まで行ってきた
その時に、阿蘇品氏や菊地氏で有名な熊本も見てみたいと思っていたが
なかなかストレートにヒットする遺跡がわからず逡巡していた
だから、この報道を見たときは
ちょうど数年前に信濃善光寺の門前の鎌倉時代の溝の発見を
偶然地元のテレビニュースで知って訪れた時と同じような運命を感じた
高麗青磁や墓にとどまらない、大規模な都市遺跡の予感があった
思わず
上京区とJTBの会議が終わった26日の18時に新幹線に飛び乗って熊本へ向かった

26日は前線の影響で全国的に雨だったが
27日の熊本は朝から気持ちの良い太陽が顔を出し気温もコート無しでゆっくりできるくらい
場所を詳しく調べていなかったことを後悔しながら
駅の改札で西側へ抜ける道を聞いて地下道をくぐって新幹線側の工事エリアに出る
すぐに春日小学校が見え、このあたりかとおもって見回すと
説明会の看板の設置作業をみかける
聞くと新幹線の高架の近くが事務所だと言う
まだ時間が早かったから、すぐ西にある丘(万日山)から全景を俯瞰しよう思い
南へ向かう

前夜に地図を見ていて
熊本はみごとな港湾都市だと思っていたが
その港湾都市の背後にあるのがこの丘で、現在は山頂近くに墓地が広がっている
後で聞けば、予想通りに古墳時代後期以降連続した墓域であるという

肥後国の国府は
現在の水前寺にある国分寺周辺が想定地とされていたが
多くの調査によってもその痕跡はみつからず
現在は、二本木遺跡周辺の府中地区が国府の場所でないかと考えられている
有明海の沿岸部にあって、現在の川尻付近で緑川と合流して有明海に注いでいた白川に沿って形成された微高地上である
さらにそのすぐ東を南北の陸上路が走っている
中世前期の港湾都市の立地として申し分無い

説明会会場に戻ったのはまだ始まる時間より早かったが
一番乗り
奈良県から来たとの記帳をした後、県の担当のOさん挨拶をして
遺物をみせてもらい始めた時
声をかけられた
旧知の熊本市のAさんだった
1995年の夏に、福島のIさんと神奈川のMさんと当時千葉にいたTさんと南九州を巡った時に会って以来である
二本木遺跡について急遽調べたときに
調査の背景として、新幹線開業にともなう開発で、市と県が調査をしていることがわかり
もしかしたら知り合いにあえるかもしれないとも思っていたが
懐かしい再会だった

市の担当として実際に調査をおこなっているAさんから
詳しい話を聞き
ここだ中世の九州を代表する港湾都市遺跡であることをあらためて実感
さらにAさんによれば
水陸交通と、二本木遺跡の西に鎮座する平安時代の山岳信仰寺院である
池辺寺(ちへんじ)も大きな役割をになっていたという
万之瀬川と同様に金峰山も背後にひかえる

一方、熊本城の西には鎌倉時代にさかのぼる藤崎八幡もあった
社伝によれば、宮は承平5年(935)に平将門追討の勅願により、山城国石清水八幡宮を飽田(あきた)郡宮崎(みやさき)庄茶臼山に勧請したのに始まるという
以来九州五所別宮のひとつとし朝廷や武士の尊崇をうけた。
万寿年間(11世紀初め)、長承年間(12世紀前半)、寛喜二年(13世紀前半)、建長年間(13世紀半ば)、嘉元年間(14世紀初め)などに火災・暴風の記録がある
が正平12年(1357)頃から菊池武光が支援し文明年間に完成
大永2年(1522)から鹿子木親員(寂心)が造営

二本木遺跡を俯瞰する北の小丘には北岡神社が鎮座する
祭神は素盞嗚命・稲田姫命で、もと祇園社で、承平4年(934)に肥後国司藤原保昌が府中鎮護のため山城国祇園社を湯ノ原に勧請、さらに天元2年(979)に祇園山(花岡山)を経て、正保4年(1647)に「神主くじ取り」で北岡山に移された
また藤崎宮と並ぶ社格を有した

大宰府の都市の背後にあったような天台系修験道寺院がその西にあり
その脇には二本木遺跡で白川と分流する坪井川が流れ
その先にも湊があったと言う
そして九州五所別宮のひとつの藤崎八旛宮は瀬戸内海航路をおさえていた八幡宮ネットワークの基点だった
さらに祇園社のネットワークもあったのだろうか
説明をしてくれたAさんに感謝

大友や武藤や島津といった名の知れた支配者が一見すると見当たらない場所で
これだけの都市が運営された原動力を解き明かし
中世前期の社会を説明する
きわめて重要な遺跡であることに間違いない
方形竪穴の倉庫群もみつかっているという
新幹線の開業に向けて調査はまだこれからも続く
当分目が離せない

熊本では、だいぶ以前に玉名市の吉丸前遺跡と須屋の舟入遺跡の調査に関わった
二本木口徒歩5分の埼陽軒はさっぱりして美味しいラーメンだった
博多から1時間少し
できるかぎり通いたい

埼陽軒

埼陽軒


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

清正公

きよまさくん


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

熊本城

熊本城


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

二本木遺跡群

二本木遺跡群


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

2010年2月26日 (金)

雨上がりの熊本

雨上がりの熊本


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

かみぎゅうくん

かみぎゅうくん


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

合格が決まって

合格が決まって
京都へ下宿を探しに来た親子連れが多い京都駅
おめでとう
京都へようこそ
九州弁と一緒にこれから熊本へ

from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

2010年2月23日 (火)

第11回北アジア調査研究報告会

3月13日~14日午前に第11回北アジア調査研究報告会、
3月14日午後~15日午前に環日本海地域の古代史・スプリングセミナーが
石川県立歴史博物館・学習ホールで
開催されます

問い合わせは

金沢学院大学
小嶋芳孝さんまで

2010年2月22日 (月)

26番に乗って

楽洛キャンパスの準備で広沢池へ向かうために
市バスの検索ページをみたら、京都駅から26番に乗るとある
おそらく初めての乗車で、駅前の乗り場の場所もわからない
なんとか乗ると、バスは烏丸を北上し、一路四条へ
四条から西へまがって、バス停は交差点からだいぶ離れた室町の近く
京都駅から四条までならば、ほとんどの人は地下鉄を使うだろうから良いのだろう
四条通を西へ
ここまではなんということもないコースだが
ここから先は、知る人ぞ知る京都の有名観光地巡りとなった

四条大宮をすぎて間もなく南に見えるのが隼社(はやぶさのやしろ)
『三代実録』の貞観2年(860)に登場し、『延喜式』には「京中坐神三座」のひとつとして記さ、朱雀院内に祀られた神社と考えられている。後にに左京四条坊内坊城小路に移され、さらに大正9年(1920)に元祇園梛(なぎ)神社に並んで祀られた。

新撰組で有名な壬生寺は
さらに院政期にさかのぼる由来もある壬生寺は
見えないけれどもそのすぐ南
新撰組にあこがれて京都にきた人は
近隣の新撰組にちなむ雰囲気に堪能しながらも
あれほど有名な壬生寺が
意外にも現在の京都の中心部から離れていることに驚く
三条河原町へ出るには
大宮まで歩いて、阪急で二駅乗って、さらに京阪で一駅である

すぐに嵯峨野線をくぐる
その手前の細い通が千本通で
世が世ならば朱雀大路のメインストリート
そう言えば鳥羽の小枝橋の石碑にも千本通の文字があって
そこが平安京の中軸線とその延長だと気づく
京都には、そんな土地の記憶がいたるところにあることが面白い
嵯峨野線をくぐった先の北の大きな工場が朱雀院跡
面積8町といえば約9万平米を超えた巨大な後院(天皇の別宮)
嵯峨天皇皇后の橘嘉智子が居所とし
寛平8年(896)の新造後は、宇多・朱雀上皇が後院とし醍醐天皇の行幸も多かったという
平安宮に次ぐ、平安京の重要地点がここにあったことになる
四条の右京である
よく言われるように、右京が単純に衰退したと考えられない証拠のひとつである

朱雀院の石碑は、以前は会社の柵の向こうにあったが
今はその部分だけ柵が取り払われて
代わりに透明のアクリル板になっていた
源氏物語効果なり
そしてこのすぐとなりにあの池亭記に登場する源高明の邸宅があった

四条を西大路で北へ曲がるとき、かならず信号待ちをする
その時に北をみれば淳和院跡の碑がある
別名を西(さい)院といい、淳和天皇の後院だった。
一緒に建つ西院之河原の石碑は、天神川の氾濫で荒廃して河原となったことに由来すると伝わる

西大路をずんずんと北へあがる
烏丸を中心に生活をしているものにとって新鮮な風景がつづく
嵐電をすぎ北野白梅町に近づいたところで
こんなところをまがるのかと思うような狭い道を西へ入る
しかし実はこれが平安京の北の境となった一条通
すぐ東が大将軍の商店街
わが上京区の西の境でもある

バスはせまい一条通を西へ逝く
バス停の名称に等持院の南とある
さらにその先には妙心寺の北門が近づく
その向こうの京福電車の妙心寺の駅が西京極大路だから
バスは、平安京の北西の隅から京外へ出て行くことになる

そんな平安京の余韻に浸る間もなく仁和寺の門前へ
現在の京都会館から動物園にかけての一帯に白河天皇が
六つの勝の字の付く寺を造営はじめた前
実はこのあたりに4つの円の字のつく寺が建てられていた
円融天皇御願の円融寺は永観元(983)年に落慶供養
一条天皇御願の円教寺は長徳4(998)年に落慶供養、母は兼家の娘詮子
後朱雀天皇御願の円乗寺は天喜3(1055)に落慶供養、母は道長の娘彰子
後三条天皇御願の円宗寺は延久2(1070)に落慶供養

今はその痕跡を見ることはできないが
時代は道長の時代である
白河天皇の発想の原点
白河天皇がなにを使用としたかをうかがうことができる寺群として重要である

観光客があふれる仁和寺の門前でもかならず信号待ち
すぎれば福王子神社
祭神は宇多天皇の母で光孝天皇の后班子女王。
仁和寺の鎮守ともされるが、当地の産土神
この交差点を北へ曲がれば高尾の神護寺と高山寺
背後にも平安時代の由緒がひかえていた

そしていくつかの登りと下りを経て山越へ
南には嵯峨野古墳群のひとつである音戸山
その先はすぐに広沢池
そして大覚寺と清凉寺
したがってかつての一条大路の後裔である一条通は
平安京を出ると、等持院、妙心寺、仁和寺、大覚寺、清凉寺に面して
その先に、二尊院と祇王寺、そして化野念仏寺まで
吉田神社を基点として、とても有名な京都の名所をつなぐ線だったことになる
そして市バスの26番は、そのうちの西側半分をめぐるルートをたどっている
京都駅から約50分
誰が考えたか知らないけれども
おすすめの市バスルートである

お約束

お約束


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

広沢池

広沢池


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同志社大学 文化情報学部
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山越の風景

山越の風景


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

さいの河原、淳和院跡

さいの河原、淳和院跡


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
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春近し

春近し


from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
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2010年2月20日 (土)

久しぶりの感覚

久しぶりの感覚


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同志社大学 文化情報学部
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大都会

大都会


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同志社大学 文化情報学部
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2010年2月17日 (水)

驚愕の事実

驚愕の事実


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同志社大学 文化情報学部
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2010年2月15日 (月)

雨の新大阪

雨の新大阪


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同志社大学 文化情報学部
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2010年2月 6日 (土)

もっと最高峰

もっと最高峰


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2010年2月 3日 (水)

若宮大路は広い

若宮大路は広い


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2010年2月 2日 (火)

凍える大船

凍える大船


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