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2010年3月25日 (木)

Facusangi

百済寺
東近江市の東山麓に所在する有名な山岳寺院である
聖徳太子と渡来系氏族の関係を起源に伝える
戦国期には城塞化した坊が数百と連なり、フロイスはその見事さを、「地上の天国」と表現した
(百済寺という大学には、多数の独立した僧院および座敷と庭を備えた地上の天国である坊主の住屋が一千戸あった)
調査のお手伝いをすることになり能登川に着く
午後から雨が弱まると言われながら
空には思い雲が重なっている

史料は平安時代終わりに天台末となった時から始まる
天台末と言えば、近江関係では日吉神社や白山社が有名だが、近江だけではなく、大山寺も、そういえば大宰府の宝満山も

その後の百済寺と言えば
なんといっても現在も良くその姿を残している雛壇型の多くの坊跡が特徴で
注目はどうしても戦国時代に集まる
けれども史料をたどれば鎌倉時代も大いに興味深い存在だったことがわかる
天福元年(1233)法性寺の座主、慈賢が自寺を離れ、花樹に彩られた庭園のある百済寺に脱出(明月記)。
天福2年には、前の天台座主良快が、延暦寺の無動寺末だった百済寺を慈源に譲る。
この良快は九条兼実の子で、慈源は兼実の孫の九条道家の子だという。
兼実は法性寺殿と呼ばれた人物だが、それを含めれば、四代にわたって九条家と関係をもっていた寺だったことになる
言うまでもなく、九条兼実も道家も鎌倉幕府と深い関係を持っていた人物で
道家がひらいた東福寺は、石鍋によっても、博多と京都と鎌倉をつなぐ大きな存在だったことがわかっている

その点で、源平盛衰記にひかれる木曾義仲にちなむエピソードが、かならずしも荒唐無稽なものではなかった可能性を想像させてくれる背景である

敏満寺や京極の上平寺城にも代表される北近江の城塞化された戦国期の寺院については、勝山の平泉寺や根来寺と比較され、してきた

ただしこの数年、笠置寺や成相寺などに関わってくる中で、雛壇型に多くの僧坊がならぶ北近江の城塞化された寺院には
その背景に、大宰府の原山や宝満寺にあったような中世前期の山岳寺院の姿があったのではないかと思うようになってきた

その目で百済寺を見れば
本坊をとりまく坊跡には、明らかに異なったふたつの姿のものが見られる
そしてこの違いは、金胎寺や笠置や成相寺や三縁寺でみられたふたつの姿を想像させるものでもある
鎌倉も一区切り、昭和堂も一段落、今出川はこれからだが、何度かこの大寺に通い、敏満寺につながる新たな学びを得たいと思っている

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