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2010年8月29日 (日)

公経の夏

 説明会が開催された松田遺跡は、大山崎中学校と小泉川にはさまれた場所にあたり、すぐ南には名神高速道路の巨大なインターチェンジが見える。
 その時の調査も含めて、この遺跡が京都盆地最大の古墳時後期の集落だとわかっており、今回の調査もそれに関係した遺構の発見が期待されていた
 話は少し脱線するが、あの継体大王の宮として伝えられているのが、楠葉と乙訓と筒木。このうち楠葉と筒木については、それぞれ枚方と京田辺に推定地がある。乙訓がわからないままだったが、松田遺跡の古墳時代の様子をみれば、そこが小泉川の河口にあたることもあわせて、候補になる可能性がある
 いずれにしても、すぐ西が奈良時代から交通の要衝として知られていた山崎である。ゆっくり歩いて三〇分ほどだった。山崎の成立には、松田遺跡の存在があったと考えられる。
 その松田遺跡では、東に隣接する大山崎中学校地点の調査で一二世紀の集落がみつかっていたが、今回は一三世紀代の集落が見つかった。
 白磁の合子や青磁の梅瓶、白磁の碗、青磁の碗など中国製品も多い。密集してみつかった柱穴は、松山市の石井幼稚園遺跡を思い出させる。生活感が乏しいようで、出土遺物も含めて川湊に関係する集落と考えるのが妥当だろう。
 なんといっても場所が場所である。すぐ北西には近世の西国街道がはしり、南には久我畷がはしる。
 北西には八角という交差点があり、北西へ進めば丹波道。小泉川を遡れば、奥海印寺の館跡。そして南東は淀である。
 こんな良い場所をあの公経が見逃すはずが無い。
 遺跡の西にある円明寺である。
 円明寺が史料に初めて登場するのは康平五年(一〇六二)の忠覚譲状案で、公経との関係は寛喜二年(一二三〇)六月二一日状に見える。この時、藤原定家が西園寺公経とともに円明寺をおとずれている。公経はその後も何度か円明寺をおとずれ、寛喜三年(一二三一)二月二七日には、公経の娘婿である九条道家も方違えにおとずれている。
 それが縁であるかどうかはわからないが、その後円明寺は公経から道家に譲られ、さらに道家は四男で一条家始祖の実経に譲っていることが、建長二年の九条道家初度惣処分状にみえる。ちなみに実経は弘安七年(一二八四)に亡くなっているが、その二ヶ月前に円明寺で叡尊から受戒をしている。実経の通称は円明寺殿だった。
 周知のように叡尊は西大寺流律宗を代表する人物で、その教団は全国の交通の要衝に足跡を残している。その点でここに叡尊が登場するのは偶然ではないと思う。
 さらに時代は一遍の時代である。聖絵に描かれた淀を見直す必要がある。
 公経を追いかけて円明寺へのぼる。ちょうど遺跡を出て真西まっすぐ延びているみちを行った先である。西国街道をわたり、信じられないようなところで線路をくぐり、低い段丘崖を上って、天王山の山麓が間近に迫ったところに着いたら、そこがあの円明寺である。
 付近には薬師前・大門脇・御所前などの地名があり、御茶屋池は山荘苑池の遺構と伝える。かなりの難工事で築いたため池で、たとえれば金閣寺型。あるいは大覚寺か徳大寺か。神戸市のこうげん寺もこんな姿だったのだろうかと思いを馳せる。
 堤にのぼって南をみれば、正面が淀で、その左手が伏見、男山は見えない。おそらく鳥羽も見えただろう。もちろん久我畷も山陽道も一望。京都の出入りをおさえ、三川合流地点をみおろす絶好のロケーションである。やはりすべては淀につながるのである。
 円明寺川とも呼ばれる小泉川は、円明寺の東前面を北西から南東に流れる。淀川との合流地点は狐河とも呼ばれ、藤原為家の七社百首に「とにかくに人の心のきつね川かげあらはれん時をこそまて」と登場。
太平記巻九の山崎攻事付久我畷合戦事には
「元弘三年(一三三三)四月の六波羅攻めに際し、結城九郎左衛門尉親光は三百余騎にて狐河の辺に向かい、狐河の端より鳥羽の今在家まで、その道五十余町が間には、死人尺地もなく伏せにけり」と記す。そして天正一〇年の山崎の合戦では、円明寺川が明智光秀の防衛戦になった。
 円明寺村は、明徳三年(一三九二)一二月二六日付けの足利義満袖判御教書によれば
「八幡宮大山崎内、東限円明寺、西限水瀬河、依為日使大神事等重役神人在所、自往古以来惣所不勤公方課役也」とあって、円明寺村が大山崎神人のすむ村の東端で、公方課役を免除されている。後の史料にも山崎神人との領有入組のあったことが記されている。
 山崎を中心に水無瀬川から小泉川までの範囲で営まれた淀川流通の重要地点だったにちがいない。

 円明寺殿と呼ばれた一条実経は、一条家の祖で貞応二年(一二二三)に生まれる。九条道家の四男で、母は西園寺公経の娘の淑子。長兄は夭折し、次兄の良実と道家は不和で道家は実経を愛した。
 後嵯峨天皇から後深草天皇に譲位の時に関白の良実にかえて左大臣だった実経を摂政にしようとしたが良実がこれをこばんで確執がうまれる。結局その後実経は関白、摂政となったが、道家の三男の頼経が鎌倉を追われると、道家は政治生命を失い、実経も摂政を罷免。実権をにぎっていた良実と和解することで復帰。
 ちなみに仁治三年(一二四八)に父から一条室町邸を譲られたことで、一条家の祖となった。

 公経の足跡は確実にここにもあった。摂氏35度の中で水無瀬のヒントを見つけた。

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