上京

2009年6月14日 (日)

上京へ行こう

Dscn0988 Dscn0970



12Dscn0959時30分に二条駅前を出る
Dscn0974 朱雀門の石碑は通りの向こうにあるのため





渡る通りは朱雀大路
出世稲荷で就活の成功を祈りながら再び通りを渡り
嵯峨野線に沿って少し北西に行った先を北へ折れるとそこが豊楽殿跡
源氏物語千年紀以来、内裏周辺の遺跡の整備が進み
ここもきれDscn0948いになっていた
Dscn0981 Dscn1007 京都アスニーで
時間を少々オーバーして話をした後大極殿碑へ


歩道の縁石記された朝堂院の施設表示を見ながら下立売を東へ
あの内裏内郭回廊跡もすっかりきれいになっている
歴史探訪館で解説を受けた後平安時代を離れて秀吉時代へ
松林寺の低地を確認して日暮通りから鵲橋を渡り梅雨の井をぬけて東堀へ
Dscn1029 Dscn1035 そのまま大宮通りを北上し名和長年碑で一休み




Dscn1045 Dscn1050 北の丸の堀の段差を確認してから一条通りを堀川へ
小川の跡を見ながら百万遍と革堂を経て
近衛殿から花の御所へ


2時間半で平安時代、安土桃山時代、南北朝期、室町時代
鎌倉時代を回れなかったが濃密なツアーでした
Dscn1055 皆さんお疲れ様でした

2007年9月29日 (土)

もう一度室町殿の変遷を確認する

室町殿の範囲の変遷と存続期間について(現在の通り名)

★[第1期](1378~1431)上立売・室町・烏丸・今出川?(東西1町、南北2.5町?)

 築造したのは3代義満で、4代義持は御所を三条坊門とする
 ただし、5代義量(よしかず)の期間にも存在していたことが記録にある
 実質的な御所機能は義満の時代の1378~1397の約20年間

★[第2期](1431~1441)上立売・室町・烏丸・今出川?(東西1町、南北2.5町?→東西1町、南北2町以下?)

 6代義教が全面再築。出来た当初の範囲は第1期室町殿と同じと思われる
 ただし、1441年に義教が死ぬと、今出川に面する部分に義教夫人の寺が築かれ、南の範囲が狭くなった可能性がある。
 実質的な御所機能は10年間

★[第3期](1456~1476)上立売・室町・烏丸・今出川の一筋北の通り?(東西1町、南北2町以下?)

 8代義政が北小路新第(室町殿)に移る。
 実質的な御所機能は20年間

★[第4期](1479~1482)上立売・室町・烏丸・今出川の一筋北の通り?(東西1町、南北1.5町)→上立売・室町・烏丸・五辻(東西1町、南北1町)

 9代義尚の時期。室町花御所御作事。範囲は東西行40丈、南北行60丈の御地。
 しかし南方に数多くの町屋があったため南北40丈に築地を縮小。
 しかし1480年に焼け、1481年に四方築地再築するが完成しないままにとりやめ。
 実質的な御所機能は0年

★[第5期](1542~1548)上立売・室町・烏丸・五辻(東西1町、南北1町)

 12代義晴が北小路室町の旧地に再建(今出川御所)。13代義輝も利用。
 範囲は第4期と同様か。
 実質的な御所機能は数年

2007年9月28日 (金)

再び室町殿の実態を考えてみる

室町殿遺跡を検討するためには、室町殿が実態としてどのくらい使われており、その結果どの程度の遺構が残されているかを事前に調べておく必要があります。更新された「資料編・室町殿」をみながら、あらためて整理してみましょう。

まず3代将軍義満の室町殿ですが、1378年から1397年の北山殿移徙までの約20年間が最盛期で、壮麗な殿舎が建ち並び、「かも河をせき入れ」た水面1町の大池には滝もつくられます。
しかし4代将軍義持は三条坊門に御所を築いたため、室町殿はあまり使われていなかったようです。
6代将軍義教は1431年に室町殿を再築し、約10年間にわたって義満時代に負けない邸宅を築きます。後花園帝の行幸もあり、上御所の池には舟も浮かべられていたようです。その後室町殿の敷地は南北が1.5町に縮小し、建物も一時的にほかへ移されたりしますが、8代将軍義政は1459年に室町殿の立柱上棟をおこない、1464年には後花園院の行幸を得、およそ15年間におよび池と建物に土木の工を尽くした邸宅を甦らせます。
したがってこれらの時期(14世紀後葉・15世紀第2四半期・15世紀第3四半期)の室町殿は確実に機能していたことになります。

しかしながらこれ以降の室町殿については詳しいことがわからなくなります。
森田恭二さんの「花の御所とその周辺の変遷」『日本歴史の構造と展開』に学びながら、この後の時代の室町殿をみていきましょう。

文明8年(1476)11月13日、室町殿の西、半町ほどの土倉・酒屋が放火され、室町殿の北西部から周辺一帯が被災し、義政は小川御所へ移ります。
1479年には室町殿復興がはじまりますが、すでに敷地の周縁部には町屋が建ち並び、応仁の乱中に陣屋が建っていた裏築地の町屋は撤去したものの、南の町屋は撤去できず、南の敷地を放棄する形で、築地は東西・南北40丈の範囲に縮小されます。
なお義政はその間も小川御所にいたようで1480年の年賀をそこで受けています。
ところが、再建まもないその年の4月、室町殿は再び火事にあって消失。
1481年に再度の再建計画がたてられますが、義政は東山殿の造成をすすめ、義尚も小川御所を継いでそこを本拠とします。その結果室町殿があった場所は、1485年には「花御所跡」と呼ばれるようになり、庭石や大松が運び出されるなどの荒廃がすすみ、1496年にはその東北の一部が土倉(金融業者)に売られるまでになったようです。
したがって文明8年の大火以降、室町殿は実態としては機能しておらず、まわりの通り沿いに町屋が建ち始める一方で、その中心部では、遺構はともかくそこにあった品々はほとんどが持ち去られ、堰がはずされて水の涸れた大池の跡と無人の建物が散在する姿がみられたのでしょうか。
町田家本洛中洛外図では室町上立売の南東に町屋が描かれていますが、それはこういった室町殿の変遷の結果を示している可能性があります。

そして天文11年(1542)閏3月、66年ぶりに北小路室町の旧地に室町殿が再建されます。しかしこの室町殿も実態としては数年間使われただけだった可能性があります。
それを物語るように、1547年にはその敷地が売買の対象となっており、1549年には上京町組が成立しています(木下政雄「京都における町組の地域発展」)。そのため森田さんは、この室町殿がかつての花御所旧地の全域を使って築かれたとは考えにくいと言っています。

そうすると、室町殿が実質的に機能していた時期は義満・義教・義政の時代だけで、その時期には大規模な建築・造成がおこなわれたもの、それ以降はほとんど手が入れられることなく、そのため再建された義晴の室町殿も、おそらく町屋によって南方が縮小された敷地利用の基本は、義政期の室町殿に沿ったものだった可能性が考えられます。

2007年9月27日 (木)

再び室町殿の変遷

 室町殿の建物群は、義満以降何度か大きくその姿を変えています。そしてどうやらその敷地についても、同様なことが言えるようです。川上貢さんの大著「日本中世住宅の研究」からその様子をたどってみたいと思います。

☆史料1
・永和4年(1378)義満、菊邸跡に移る(下御所・南御所)。
・康暦元年(1379)義満、北の元院御所跡地の花邸に移る(上御所・北御所)
 言うまでもなく最初の室町殿です。邸宅の敷地はその前身邸にしたがい、南北に分かれ?、それらをあわせた範囲は、北小路(今出川)以北、柳原(上立売?)以南、今出川(烏丸)以西、室町以東であったとされています。なお、いわゆる「花御所」が義満以前からあった北御所の呼び名であったこともこれらの史料から知ることができます。

☆史料2
・永享3年(1431)義教、室町北第(上御所・北小路室町殿)の造営始め。室町北小路新第に移る。
・永享6年(1434)義教、上御所の池に舟を浮かべる。
 このとき(永享4年)の上御所の大饗指図を長禄2年(1458)に写したものが国会図書館にありますが、描かれているのは敷地の西半分のみ。ただし室町通に2つの門があって、その東に寝殿造りの殿舎が並ぶ様子は、洛中洛外図の描写を彷彿させるもの。なお、記録による敷地の表記は「北小路北、室町東」。

☆史料3
・嘉吉元年(1441)義教が亡くなったことにより、室町殿は子の義勝にひきつがれ、また北小路(今出川)以北、今出川(烏丸)以西には、義教夫人の寺(のちの勝智院)が造営される。
この史料によれば、室町殿の南側に寺がつくられた結果、室町殿の南辺は北小路に面していなかったことになります。

☆史料4
・嘉吉3年(1443)義勝の死により、義勝の弟の義政が室町殿を相続。しかし義政は、室町殿の施設を上御所(烏丸殿)へ移す。
・長禄2年(1458)義政、室町新第にうつる。
 義政は一時烏丸殿を本拠としますが、再び室町殿に戻ります。さきの永享の大饗指図の写されているのがこの年で、義政の室町新第はこれを意識したのでしょうか。なおこの時の範囲の記事はありませんが、次に造営される室町殿が南北60丈を敷地としているので、この時の室町殿も、南辺は北小路(今出川)を北に上がった場所にあった可能性があります。

☆史料5
・文明11年(1479)義尚(義政)、室町殿(花御所)造営開始。東西40丈、南北60丈。築地は南北40丈。南20丈には小屋。
・文明13年(1481)義尚(義政)、花御所御作事始め。四方築地。
 この史料によれば、文明8年の火災により焼失した後、再建された室町殿の築地の範囲は方1町規模だったことになりそうです。さらに、その南の20丈は築地のない室町殿の敷地だったとも読むことができるのでしょうか。

☆史料6
・天文11年(1542)義晴、北小路室町の旧地に室町殿を再建。
 この史料でてがかりになる室町殿の範囲は、「北小路室町」と「旧地」の表現です。
 ところがこれまでみてきたように、この「旧地」が問題で、それが義満~義教の将軍邸であるすれば、敷地の範囲は南北2町?に、一方それが1441年以後の義政(義尚)の将軍邸であるとすれば、1町四方の築地?とその南半町の敷地範囲と考えられることになるのですが、このときの室町殿はそのどちらになるのでしょうか。
 ところでこの時の室町殿は、上杉家本洛中洛外図との関係が指摘される室町殿になるはずですが、洛中洛外図の記述によれば、北が上立売、西が室町、東が烏丸となり、南は今出川に該当する通りが館を囲みます。
 ただし注目されるのは、その築地の南辺が2重になっており、そこに空閑地が描かれていることです。これがもし義教の妻が造営した寺の故地を示すのであれば、この室町殿は義政(義尚)の室町殿の敷地を最大に利用したものだったと言えるのかもしれません。

2007年9月25日 (火)

資料編・足利将軍邸

 2002年7月頃につくっていた室町殿関係の記録について、もう一度整理をしようと思っています。
一部自然災害などの記録も入れています。
引用は『京都の歴史』・『史料 京都の歴史』・森田恭二さんの「花の御所とその周辺の変遷」『日本歴史の構造と展開』1983 山川出版・田坂泰之さんの「室町期京都の都市空間と幕府」『日本史研究』436、そして川上貢さんの『日本中世住宅の研究』などです。
丸数字 は足利将軍の代数です。
(年は将軍だった年です。
以下は前回のバージョンを元にしたその途中経過です。
室町殿は、火事や建て替えなどにより、おお むね6期に分けられそうです。
今後も修正や追加をすすめていきます。

 弘安6年(1283):大雨により今出川洪水。海のごとし。
 ①足利尊氏[1305~1358](1338~1358)
 ②足利義詮(よしあきら)[1330~1367](1358~1367)尊氏の三男
 ③足利義満[1358~1408](1368~1394)義詮の子

★[前室町殿 西園寺時代]
・貞治7年(1368)崇光院(1334~98)、義詮より寄進された院御所に移る(ここを「花御所」と号す)。
・永和3年(1377)2月:崇光院仙洞御所、焼失。同時に隣接する菊亭(今出川公直邸)と柳原日野大納言宿所(日野忠光邸)、藤中納言宅(日野資康邸)も焼失。
 「後愚昧記」の永和3年(1377)2月18日条によれば、ここはもとは室町季顕の宅地であったが、将軍義詮がこれを得、義詮の死後(1367)、崇光院仙洞御所に寄進されたところという。位置は五辻・今出川・烏丸・室町。北に柳原忠光邸(現在の会館地点?)。

★[第1期室町殿](1378~1431)
・永和4年(1378)3月10日:義満、院の御所跡と菊亭跡の両地に北小路亭を造営して移る。「元院御所、去年炎上の後、御造作なきによりて、大樹もうしうけ、これを造営す。日ならずして功を終え、前右大将(今出川)公直菊亭跡、同じこれを混領す」(後愚昧記)。義満、菊邸跡に移る(下御所・南御所)。
・康暦元年(1379)義満、北の元院御所跡地の花邸に移る(上御所・北御所)
・康暦2年(1380)6月:ほぼ完成
・永徳元年(1381)3月11日:後円融が行幸。活水池にたたえ、花山庭をめぐり、水面は1町、海山のごとし。透渡殿・回廊・釣殿・寝殿、四足門・楽屋・番所・台盤所・常御所・夜御殿・鴨川の水を入れ、滝をつくる。正面は室町。五辻で分かれる。上御所と下御所。(「永徳行幸記」中門、寝殿、東の廊、常の御所、対屋、透渡殿、釣殿など、寝殿は「三葉四ばのむねどもあたらしくつくられ」、大池は「かも河をせき入れられたれば、たきの岩ねよりも、透渡る殿のしたよりもおちあふ水音」云々と言う。)
・永徳2年(1382):相国寺立柱
・至徳元年(1385):相国寺仏殿完成
・明徳3年(1392):相国寺完成

 ④足利義持[1386~1428](1394~1423):(三条坊門邸御所時代)
・義満の子
・応永4年(1397):義満が室町殿から北山殿へ移徒。義持が三条坊門邸に移った後もしばらくは義満が室町殿にいた。
・応永13年(1406):幕府、山城に銭を課して室町第の修理費にあてる。

 ⑤足利義量(よしかず)[1407~1425](1423~1425)
・義持の子。実質的な幕政は義持が担当。
・応永32年(1425):今出川以東、富小路以北、万里小路以西、一条以北焼亡。公武の人々室町殿に参籠の折り、大勢馳せ参じ打ち消し。
・正長元年(1428):義教、室町殿で音阿弥が演能。

 ⑥足利義教[1394~1441](1429~1441)
・義満の子。兄の義持の死後還俗。嘉吉の乱で赤松満祐に殺される。
・永享元年(1429):室町御所で猿楽。室町第会所上棟。義教移る。
・永享2年(1430):室町殿で松拍子。義教、新造会所披露の茶会。

★[第2期室町殿](1431~1441)
・永享3年(1431)10月:「全面撤去して再築」。幕府室町北第の造営始め。 義教、室町北小路新第に移る。下御所と上御所。寝殿以下11棟。門6、西に四足門と唐門。東に上土門と小門、北に小門2。上御所は寝殿・常御所・小御所・台屋3・御厨司所・御雑掌所・諸大名出仕在所・会所・観音堂数10棟。上御所の設計図によれば、寝殿と御会所、常御所の間に(東方に)池がある。京都飢饉。伏見・醍醐水没。
 (参考)室町・今出川・烏丸・上立売?(中昔京師地図)。
・永享4年(1432):室町第の造作事始め。義教、室町第奥会所に移る。室町第で女猿楽をみる。
・永享5年(1433):上柳原焼亡。室町殿に御会所泉殿が新造される。庭園を築く。
・永享6年(1434):上御所の池に舟を浮かべる。小池もある。
・永享9年(1437):洛中町方の女等、松拍子して室町第に至る。後花園帝行幸。番屋・四足門・中門・諸司御所・寝殿・台盤所・屏中門・北対屋・御船宿・ 御会所・泉殿・新会所。寝殿の棟には瓦。
・嘉吉元年(1441):義教が亡くなったことにより、室町殿は子の義勝にひきつがれ、また北小路(今出川)以北、今出川(烏丸)以西には、義教夫人の寺 (のちの勝智院)が造営される。
・嘉吉元年(1441):「荒廃したので云々」

 ⑦足利義勝[1434~1443](1441~1443)
・義教の長男。父の急死で家督を継いだため、おそらく室町殿を拠点としただろう。

 ⑧足利義政[1436~1490](1443に家督を継ぎ1449~1473)
・義教の子。義勝の弟。・

★[第3期室町殿](1456~1476)
・康正2年(1456):洛中洛外に北小路新第造営棟別銭を課す。義政、北小路新第に移る。
・長禄2年(1459):義政、室町第に花亭を造り、立柱上棟をおこなう。義政、室町新第に移る。
・長禄3年(1460):烏丸御所を室町殿へ移す。
・寛正元年(1460):幕府会所落成。京都地震。幕府泉殿厩立柱上棟。
・寛正2年(1461):天下飢饉。京中の死者8万2千人。
・寛正4年(1463)12月:室町殿の新造泉殿完成。
 曰く「廊下と庇が重なり合って、多くの殿舎が立ち並ぶ。その中に入れば、迷楼の九曲に遊ぶごとし。土木の工が尽くされている。天子・上皇某殿にあり。-略-南面より山水をみると、青松の土手に花亭をおかれ、画舫が白沙の洲に繋がれ、珍しい花や石がおかれ、さまざまな鳥が飛ぶ。また、東南には兵高さ十余丈の兵櫓が建つ」(碧山日録)
・寛正5年(1464):室町第西院落成。後花園院室町殿行幸。
・応仁2年(1468):京都両陣合戦止む。今出川殿(足利義視)上洛以後此のごとし。室町殿御内損大略御大事出来すべき歟。今出川殿ご出家の事、細川殿より申し勧。
・文明2年(1470):相国寺七重塔焼失
・文明5年(1473):日野富子・足利義尚が新造御所に入る。新造御所御門立柱上棟。(室町殿?)
・文明8年(1476)11月13日:室町殿焼失(室町殿の西、半町ほどの土倉・酒屋放火。室町殿に至る。西面の四足門より、御殿以下すべて焼失。)皇居は室町殿の北方に移される。室町殿周辺には土倉・酒屋が多かった。焼けたのは室町殿の西北部と思われ、そこに建物がまとまっていたことになる。

 ⑨足利義尚(よしひさ)[1465-1489](1473~1487)(小川御所時代)
・義政の子。叔父が義視。
・文明9年(1477)2月21日:小川御所(後の宝鏡院)に常御殿が上棟される。4月5日:義政徒御す。その後日野冨子の御座所となる。
・文明10年(1478)12月:諸国に花御所造営のための段銭がかけられる。

★[第4期室町殿](1479~1480)
・文明11年(1479)2月13日:室町殿(花御所)御造営御事始め。惣奉行は管領畠山政長、四面築地は畠山・赤松・山名・細川管領が受ける(在盛卿記)。2月13日:裏築地の民屋巷所在家などを撤去(応仁の乱中に陣屋が建っていた場所に形成されたもの(晴富宿禰記)。3月6日:室町殿は東西行40丈、南北行60丈の御地なり。(しかし南方に数多くの町屋があったため)南北40丈に築地を(縮小)仰せつけられる(大乗院寺社雑事記)。南方20丈には小屋共がある。築地の範囲は烏丸・室町・五辻・立売か?。7月2日:北小路行宮が炎上(室町殿の北方に移された皇居が焼失?)(京都御所東山御文庫記録)
・文明12年(1480)1月10日:「今日室町殿年始参賀、まず小川に参る。准后(足利嘉政)御所なり、元細川右京大夫勝元遊覧の所。乱中よりご所望にて、時々渡らしめる。花御所炎上以後は不断の御所となす。各々参集し、御対面す。次に宰相中将殿(足利義尚)に参る。(北小路室町なり、元伊勢守貞宗が乱の間宿所とした、花御所炎上以後、ここに御座す)(宣胤卿記)。4月1日:室町東、柳原以南、数百家焼失。室町第・広寿院等類焼(宣胤卿記)。御方御所(義尚)前室町東のつら東西へ一丁焼失。

★[第5期室町殿?](1481~1482)
・文明13年(1481)6月5日:室町花御所御作事始め。惣奉行畠山政長。御木屋をたてらる。室町殿(花御所)四方築地を築き始めらる。東方は管領畠山、西面は細川、北方は赤松、南方は一色・武田(長興宿禰記)。
・文明13年(1481)10月21日:義政、小川御所から岩倉長谷の聖護院山荘に隠居。

(小川御所時代)
・文明14年(1482)2月:東山殿造営開始。5月1日:義尚、小川御所が留守となったため、北小路室町の伊勢貞宗邸から小川御所に移る(長興宿禰記)。
・文明17年(1485)8月14日:細川政元、土一揆を屋形前に集め点検す。一揆衆、「花御所跡」に集まる者1000人ばかり(蔭涼軒日録)。
・長享元年(1487)9月12日:義尚が小川御所から近江に出陣するときの見物に人々が「花御所舊跡」にあつまる(後法興院記)。11月14日:「花御所」の浅水の大石を伊勢貞宗の指示により人数三百人で運びだす(蔭涼軒日録)。(東山殿へ?)
・延徳元年(1489)3月3日:「花の御所の大松」を東府(東山殿)へひかる。人数四五千。

 ⑩足利義尹(よしただ)[1466-1523](1490~1493)(三条坊門高倉御所時代)
・義視の子。後に改名して義稙。日野富子に擁立されて将軍に。細川政元により将軍を廃立され越中に逃亡。

 ⑪足利義澄(よしずみ)[1480~1511](1494~1508)
・堀越公方足利政知の子。天竜寺塔頭香厳院の喝食清晃だったが、1493年に細川政元に擁立され将軍。義高と改名。
・明応5年(1496):室町殿の一角(室町殿敷地のうち艮(東北)角丈数)が公方同朋衆の菊阿弥によって土倉(野洲井宗賀)に売られる。
・明応9年(1500):上京大火。1~2万軒が焼失(柳原・土御門・烏丸・室町)。室町殿地点は焼けたか?。祇園会復興。
・永正元年(1504):烏丸室町辺りに火あり。
・永正4年(1507):室町幕府の実力者、細川政元が殺害される。

 ⑩足利義稙(よしたね)が大内義興の援助で将軍に返り咲く(1508~1521)
・永正5年(1508):代わって細川高国が管領になる
・永正18年(1521):足利義晴が上洛して上京岩栖院(室町柳原北)を臨時の御所とする。
・大永元年(1521):足利義稙が阿波へ没落

 ⑫足利義晴[1511~1550](1521~1546)(柳原御所時代)(町田家本洛中洛外図では室町西には町屋が並ぶ)
・義澄の次男。
・大永5年(1525)4月26日:柳原御所新造普請始め。12月13日:義晴、岩栖院から移る。義稙の三条御所の建物を移す。
・大永6年(1526):東卿殿から土倉野洲井宗賀に、室町殿内の敷地が安堵される。
・大永7年(1527):細川高国が丹波、阿波勢に敗れる。
・享禄4年(1531):細川晴元が細川高国を敗る。
・天文元年(1532):細川晴元が洛中法華門徒と山科本願寺を焼く
・天文5年(1536):延暦寺と六角氏が洛中法華門徒の寺を攻撃誓願寺、革堂、百万遍が被災(天文法華の乱)。この時室町殿跡は焼けているか?。11月18日:明応5年(1496)に売られた室町殿の敷地の艮(北東)の一部について、大永6年(1526)に確認された件。
・天文8年(1539):公方様御築地を細川晴賢が築くの件。誓願寺の再建。北野社の竣工。
・天文8年(1539):室町通立売角の材木屋、昼に焼失す。

★[第6期室町殿](1542~1548)
・天文11年(1542)閏3月:北小路室町の旧地に室町殿を再建。足利義晴が相国寺から移る。

 ⑬足利義輝[1536-1565](1546~1565)
・義晴の子
・天文15年(1546):足利義輝11歳、近江にて将軍になる。
・天文16年(1547):足利義輝、東山慈照寺で元服。今出川御所に入る。足利義晴、義輝と細川晴元が北白河周辺で合戦。10月18日:「花御所御地上中筋の紺屋乗蓮宅が質物として浄幸の手にわたる(賦引付並徳政方)。(室町殿の一部で町が形成される。)
・天文17年(1548):足利義輝、祇園会参会のために慈照寺から今出川御所 へ。

・天文18年(1549)6月24日:摂津江口の戦いで三好長慶に敗れ、細川晴元と足利義晴、義輝は近江へ。7月29日:上京立売組成立(三好長慶書状)
・天文19年(1550):足利義輝、北白河山中に御殿を伴った城が築くが、三好に攻められ坂本へ退去。義晴死。
・天文21年(1552):足利義輝、三好長慶と和して入洛す。「修理」。東山霊山城に入る。
・天文21年(1552):「妙顕寺」が「天文の法難」によって使われていた「法花寺」名称を元にもどす。
・天文22年(1553):足利義輝、三好に霊山城が攻め落とされ、朽木谷幽閉
・弘治3年(1557):上京大火事。近衛殿炎上。
・永禄元年(1558):足利義輝と三好長慶が和睦、義輝は相国寺に入る。
・永禄2年(1559):二条新邸(本覚寺)造営
・永禄3年(1560):近衛御所(烏丸・室町・下立売・近衛)へ移る(近衛御所時代)
・永禄4年(1561):『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』に新しく作られた冠木門が記される。
・永禄8年(1565):足利義輝、三好・松永に殺される

 ⑭足利義栄[1538~1568](1568)(よしひで)
・義維の長男。阿波に生まれ、三好三人衆に擁立。

 ⑮足利義昭[1537~1597](1568~1573)(二条館)
・義晴の子
・元亀4年(1573):信長の上京焼き打ち

2007年6月24日 (日)

西陣探索

天気予報がめずらしくあたり、京の町は雨にくすんでいた
上京歴史探訪館歴史講座のオプショナルツアーである西陣探索当日がやってきた
余談だが、最近の天気予報は当たるときは当たるが
その日の直前まで予報がよく変わると思う
情報が膨大になって、予報の精度が高くなってきていることが
結果として間際までの予報の微調整を生み出しているのだろうか

ホームページの予報をみれば、この日の京都市内はほぼ確実の雨
午前中に設定したスタッフの集合時間は、一時土砂降り
けれども、衛星写真をみたら、瀬戸内海東部は雲が薄い
このまま素直に雲が動いてくれれば、町歩きの時間帯は小雨の可能性があると見て打ち合わせに入る
案内人は西陣マップを製作した学生くんたち
メールでおおまかな予定を断続的に送っていたが
皆、それぞれの役割を自覚して準備に余念が無い
さすがに上回生にもなると違ってくるなあと感心

西陣織会館での説明を終えて晴明神社へやってくると雨が強くなる
やむなく休憩所にかたまってNさんの説明に鋤柄の西陣の歴史の説明を加える
Nさんの芯のしっかりした通る声が雨の音に勝って響く
一方鋤柄の説明した西陣の起源はなかなかややこしい
配付資料を参考に古代にあった2つの流れと室町時代から江戸時代への移り変わりを話したが雨の音に負けそうだった

少し小降りになったので元誓願寺通を西へ向かい大宮へ
千両ケ辻から五辻へ上がり智恵光院から雨宝院へ
Mさんお気に入りの雨宝院は、とても雨の似合うお寺で
うっそうと茂る木々の葉が少々の雨は防いでくれる
Mさんの思い入れたっぷりの話しに堪能して
これもまた現地をまわる臨場感の強みかと

時間がおそくなってしまったが
鎌倉時代の北野を象徴する石像寺と引接寺をめぐり
千本今出川へ
ここから南が有名な日本のハリウッド
そしてNさんの登場
今はその面影を探すことの困難な中
Nさんが調べてきた映画作品に登場する西陣に一同感嘆する

このツアーに参加した人は皆京都市民でほとんどが上京のひと
大学のすぐ近くお住まいの方や
なんと京都検定1級をお持ちのかたも
そんな方々を相手にして
さすが同大生
やるときはやります

2007年3月11日 (日)

聚楽第を探せ

明日は楽洛キャンパスで上京を中心とした京都の歴史を話します
話しは2部構成で
1部は西園寺公経を主人公とした現在の上立売通から五辻通にかけての
鎌倉時代の話し
2部は豊臣秀吉の聚楽第の話し
西田直二郎さんの研究にはじまる近代以降の聚楽第研究をふりかえり
これまでだされたいくつもの復原研究を検討して
最後に鋤柄案をだそうと考えています
その時に紹介するのが現在の聚楽第周辺の風景
Juraku01 ここについ最近の様子をのせておきました
http://www.geocities.jp/sukigara_toshio/jurakumap/index.htm
この数週間、何回かに分けて
中古サイクルマンになって走り回った記録です



それで問題の鋤柄案ですが
前提としたのは、京都図屏風と洛中絵図をあわせた内藤さんの研究と
天秤堀にこだわった湯口さんの研究
もちろん大前提は広島城を参考にした櫻井さんの研究
これらを前提にして
西田さんの白銀町のこだわりをいかして馬瀬さんの調査地点データをのせてみると
一番近いのは内藤さんと櫻井さんの1979をあわせた形
その時、もちろん国土地理院の5mメッシュ標高もつかったけれども
今回の決め手になったのは馬瀬さんの1998年の成果
とくにその時の図のコンターラインでした
1990年代に南河内と上町台地の等高線をひたすらトレースしていたのを思い出しました
けれども重要なことはそれだけではありません
実はこれが大坂城の縄張りに共通する要素があるように思えるのです
もしそうであるならば、やはり足利さんの復原されるような
スケールの大きな都市計画といったものもやはり重視しないといけないのではないかと
あらためて考えているところです

2007年2月 1日 (木)

プロジェクト科目成果品

今年度から、従来の座学と異なり社会との連携の上で
具体的な成果品完成へのプロセスを通じて
実践的なプロデュースのさまざまを学ぶことを目的として始まった
同志社大学のプロジェクト科目

その秋学期科目として下御霊神社の出雲路先生と共におこなってきた
「隠れた京都を探索する-上京を中心に-」が成果品への大きな山を越えた

Shoku0202

Map0202 体裁はA3サイズの両面カラーで
一面は食文化をテーマにした内容で
コンテンツは「水」「茶道の歴史」「茶碗」
「お正月」「京野菜」「おさけ」「京ことば」
もう一面は5つのコンテンツについてのうんちくを
その場所にちなんだ形にしたマップ
うんちくは「平安京の守護神」「地名と通り名」「和歌」「ドキュメント応仁の乱」「和菓子」
紙マップに載せられないうんちくのかずかずは
ネットや携帯でもみられるようにしています

本日、印刷屋さんにデータを入れて完成は2月末です
学生が探して伝える上京の歴史と文化
学生の取材にお応えいただき、ご協力をいただいた多くの方々に
深くお礼を申し上げます
ぜひご期待ください

田中泰彦編1990『西陣の史跡-思い出の西陣映画館』京を語る会

2007年1月21日 (日)

今出川を歩く(6)

○上七軒
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.24.3N35.1.36.125&ZM=11
西陣を近くにひかえ、古風な趣をもった花街として知られ
大正初年で約30軒の茶屋が並んだ場所
由緒書によると
往古より七軒茶屋と呼ばれ、足利将軍のころに
北野神社造営の時にあわせて建てられた
太閤秀吉も北野の右近の馬場の遊覧で七軒茶屋で休み
名物の御手洗団子をめでたという
すぐ東が老松町
町名の由来は現在は北野社境内に移った老松社がここにあったことから
老松社は北野天神の摂社で祭神は島田忠臣翁
神徳は植林と林業
祭神の島田忠臣は、菅原道真の家臣または夫人の父ともと伝えられ
道真が配流先の大宰府で自らの無念を神々に訴えるために天拝山に登った時、道真の笏を預かったというエピソードをもつ
道真に命ぜられ松の種を現在の北野天神に蒔き、後に道真の霊が北野に降臨した時、多数の松が一夜にして生じたという

○北野天神
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.19.447N35.1.29.53&ZM=11
菅原道真を祀る有名な神社
道真は延喜元年(902)に藤原時平の讒言で大宰府に流され死ぬが
その後時平の死をはじめとして数々の厄災がおこり
延長8年(930)には請雨の会議中に清涼殿に落雷
これを都では道真の怨霊と懼れ雷神・天神ともむすびつけられる

一方天慶5年(942)、西京に住む多治比文子に
北野右近馬場に祀れという託宣があり
また近江比良宮の禰宜神良種の息男に、北野右近馬場に道真の霊があるとの託宣があり
良種が北野朝日寺の最鎮とはかって社殿を設けたのがはじまりという

北野の地はもともと農耕に関係する祈雨の神が祀られており
そこに天神としての道真の霊があわせて祀られたのではと考えられている

境内の西を天神川が流れ、その左岸の堤は秀吉の築いたお土居の貴重な遺構
またそのすぐ東の梅園でひらかれる2月の梅花祭は有名
毎月25日には天神さんの縁日がひらかれ
古着や古道具を求めて多くの人があつまる

○北野廃寺
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.4.446N35.1.27.715&ZM=11
飛鳥時代に創建された平安京成立以前の寺院跡
文献には常住寺とも見えるが確定できていない
発掘調査により東西200m、南北240mの境内が推定されている
常住寺を示す「野寺」の墨書土器が発見され
また「鵤室(いかるがむろ)」と読める墨書土器がみつかり
聖徳太子のブレーンだった秦河勝に関わる寺院とも考えられている

史料によれば、太秦広隆寺が現在の場所に移る前は
紙屋川(天神川)上流右岸の北野神社から平野神社のあたりにあったとも考えられており
この寺院跡と太秦広隆寺(蜂岡寺)の関係も否定できない状況にある

秦河勝は京都盆地を代表する古代氏族であり
その本拠は、蛇塚や双岡の山頂など太秦に集中する古墳から嵯峨野にあったと言われている
しかし「天暦御記」(拾芥抄)によれば、大内裏は秦河勝の邸宅跡だったとされており
ここが広隆寺の旧地であったならば、
嵯峨野は秦氏の葬送の地で
その本拠はここから南東にかけての一帯だったことになる
上京は平安京以前から京都盆地の中心だった可能性があるのである

2007年1月20日 (土)

今出川を歩く(5)

○千両が辻
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.45.5.928N35.1.35.604&ZM=11
今出川通と大宮通の交差点が「西陣」の中心地といわれる千両が辻
西陣の大いなる繁栄をそのまま表現した地名として有名
「西陣」とは、応仁の乱のときに山名宗全に代表される西軍がこの地を本拠としたことに由来する
すでに平安時代から織物職人の中心地がその南にあり
応仁の乱以降、堺から取り入れた新しい技術などにより大きく発展
日本の織物文化を代表するその技術と伝統を今に伝える
堀川今出川に建つ「西陣織会館」がその西陣探索の出発点
この交差点を南にいった大宮通沿いには
町家を利用したさまざまな施設が並び、古い街並みの中に新しい京都の文化が創り出されている
この交差点の北から西へ行けば
西陣の面影をそのまま残す紋屋町や黒門町の石畳が旅人を迎えてくれる
耳を澄ませばどこかで機織りの音が聞こえてきそうな

○首途八幡
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.57.368N35.1.37.869&ZM=11
智恵光院通という優雅な響きの通りをあがったすぐ西に
「かどで」八幡がある
12世紀終わりに大分の宇佐八幡から勧請されたと言われ
源義経が平泉へ向かうときに寄ったといういわれが有名

義経をまもり平泉の藤原秀衡のもとへ案内したと言われる東北の大商人、金売吉次の京都屋敷がこの近くにあったとも言う
「平治物語」では宮城県の多賀城市にあった国府を本拠として毎年京へ上がって金を商売したという
中尊寺近くの長者ヶ原の地名の由来ともなり
炭焼藤太伝説ともつながって語られている

古代中世の社会はどうしても京都を中心に語られることが多いが
はるか遠くの地でも豊かな文化と生活が営まれていたことを示す意味で興味深い

○般舟院陵
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.44.86N35.1.37.455&ZM=11
後柏原天皇の母で後土御門天皇の典侍となった源朝子の陵
また、後土御門天皇の母の藤原信子や
後奈良天皇の母の藤原藤子などの墓や
後土御門天皇の分骨の塔もある

その西に後白河天皇の皇女で賀茂の斎院ともなった式子内親王塚と伝えられる石仏がある
またこの地は藤原定家の時雨邸とも言われ
この塚は謡曲「定家」にみる
定家が式子内親王への恋心を伝えた葛の塚と言われる

○千本釈迦堂
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.44.44.86N35.1.37.455&ZM=11
京都と言えば平安の都というキャッチフレーズがすぐ頭に思い浮かぶ
けれども残念ながら、今日の京都の街中で平安の都を直接物語る建築物を見ることはできない
多くが室町時代以降で、もちろんそれも極めて重要な歴史遺産であることに違いはないのだが、鎌倉時代の建築物についても稀
というか
京都の街中で平安時代に最も近い建築物が残っているのは実はここの本堂だけ
もちろん国宝である
正式な寺名は大報恩寺
承久3年に、「猫間中納言」として有名な藤原光隆の従者の岸高が、この地を義空に喜捨し
小堂と仏像が安置されたことをはじまりとする
室町時代になって足利尊氏の命で涅槃講がおこなわれ、以後庶民の信仰を集める
また本堂の南西には、足利義満が明徳の乱で敗死した山名氏清を弔って建てた経王堂がある
本堂建立に際してのエピソードをもつおかめ像も有名

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